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バーチャル・リアリティは悪である!? 警察庁研究会設置」記事へのコメント

  • どこの局も、示し合わせたようなネガティブキャンペーン満載でございましたが。

    どれをみても、要約すると
    「なんかキモいから弾圧しようや」
    ……としか解釈できなかったのは私だけ?
    • by Anonymous Coward
      一昔前、「どうして人を殺してはいけないのか」という子供の問いに対して
      名うての論客達が大騒ぎしたことがありましたね。
      大人なりの猿知恵を絞っていろいろ理屈を捏ねたが決定打は見つからず、
      「このような疑問を持つ子供がそもそもおかしいのだ」という方向に行きましたが。

      善悪の問題はミュンヒハウゼンのトリレンマ [google.co.jp]の系であって、
      誰もが納得できる根拠なんて究極的には存在せず、
      「みんながなんとなく悪いと思うもの」
      「みんながなんとなく排除したいと思うもの」
      の緩い集大成こそがモラルや法や罪の根拠に他ならないです。

      個人がキモイと思っても所詮はタダの
      • 個人がキモイと思っても所詮はタダの主観でありたいして意味はないのですが、
        集団の中で「キモい」が共有され、排除したいと思うまでに高まったときにそれは悪になります。
        そういう意味では、自然発生的に「キモい」ということで感覚の一致を見たのなら、
        それは悪の第一歩といって間違いではないかと。

        おおむね賛成です。
        ただ、どちらが『悪』であるかについては、あなたと意見が異なるかも。
        こうすればわかりやすいかな?

        個人がユダヤ人はキモイと思っても所詮はタダの主観でありたいして意味はないのですが、
        集団の中で「ユダヤ人はキモ

        • 正しいとか間違いとか言い出すのが変な気がする。

          > ユダヤ人のたとえ

          当時かの国ではそれが正しかったのですよ。
          他の国や他の時代では間違いという事にしたい人が多いと言うだけで。
          • Re:キモさは悪の第一歩 (スコア:2, すばらしい洞察)

            by Anonymous Coward
            いや、悪とか善とかいう概念そのものが、
            本質的には主観であり一方的なものの見方に過ぎないわけよ。

            善も悪も、その概念を共有できる人達の間でのみ通用する、
            「自分達の考える善」「自分達の考える悪」に過ぎないわけ。
            そしてその大元を辿れば、自分達にとって善、自分達にとって悪、ということでしかない。

            別のコメントで言ってる、殺人の是非なんてその典型でしょ。
            我々は既に、人殺しを悪とする価値観の元に築かれた社会の一員なわけ。
            自分達の利益のためなら、その価値観を他人に強要しても良いと考える一団なわけ。
            それを強要することこそが他人に対しても利益になるとすら信じて
            • by Anonymous Coward
              なんだか難しい議論になるとかならず価値相対論的な話に
              もっていこうという人がでてきますね。

              価値相対論って結局「自分の意見はありません」と言ってる
              ようにしか聞こえないんだけど。
              • 違うよ。
                私の意見は私の意見でしかないし、
                あなたの意見もあなたの意見でしかないよ、ということ。

                それとも、あなたは何か「正しい」答えがあって、
                皆がそれに従えば良い、いや従うべきだとでも考えているの?
                そのような「正しい」意見でなければ意味がないとでも考えているの?

                あなたがそう考えているかどうかは分からないけれど、
                実際のところそのように考えている人は多いと思う。
                けれど、その「正しい」答えも突き詰めてしまえば
                それを「正しい」と考える人の意見に過ぎないよ、
                ということを言いたいわけ。
                わかるかな?

                神にすがる人のように、無条件に信頼できる
                絶対的な「正しい」意見を必要とする人にとっては、
                そんな意見は無いも同然に思えるのかもしれないけれど。
              • >私の意見は私の意見でしかないし、
                >あなたの意見もあなたの意見でしかないよ、ということ。

                全ての価値観から等距離の位置に立てる人間が存在し無い限り、
                こういう考え方って結局のところ安易な独我論か
                ムラ社会的な事勿れ主義にしかならなくないですか?

                また、それら色々な「意見」がどのように生成され、流通するのか、
                というところがブラックボックスにされたままというのも私は気になるのですが。
              • >全ての価値観から等距離の位置に立てる人間が存在し無い限り

                しない限りどころか逆に、そんな視点は存在しないというのが出発点なのですが。
                そんな視点が存在したとして、人はその視点に立てますか?
                それはその視点を得たと思っている人の主観ではありませんか?

                /*-----------------------------------------------*/
                私とあなたの意見が食い違ったとします。
                私には私の意見が正しいとしか思えない。しかしあなたはそうではないと言い張っている。
                あなたにもあなたの意見が正しいとしか思えない。そして私はそうではないと言い張っている。
                どちらが正しいか検証する手段があれば良い
              • 全ての価値観から等距離の位置に立てる人間はいない、となれば、
                全ての価値観に対して、「そう考える人の意見である」という位置に立てる人間もまたいないのではないか、
                というのが、私のそもそもの疑問なのでした。結局、ある価値観に人は寄りつく、加担するしかありません。
                そのように考えた時、(「決着」という言い方を借りれば)、決着をつけないのが問題ではなく、
                決着をつけないではいられるようにふるまうことが(私にとっては)問題なのです。
                (「私」が「私の意見」を生成する際にも、主観というのが一枚岩でない限り、何らかの「決着」は必要なはずです)

                そして、その際に「正しい正しくないはそれぞれの意見」という考えが不用意に適用されると、
                「それぞれの意見を尊重し、私の意見に口出しするな」という立場か、
                「それぞれの意見を尊重し、(にも関わらず支持を集めている)多数派の意見に従え」という立場に
                容易に陥ってしまいます。前者が私の言う独我論であり、後者が事勿れ主義です(この用い方は不適切でしたが)。
                それぞれ相対主義や不可知論を持ち出すまでもなく、我々には馴染み深い詭弁です。
                逆に言えば、これらの立場に陥ることなく、いかに「それぞれの意見」という立場を維持できるのか、
                というのが私の元コメントの意味したところであると読んで頂ければありがたいです。

                >あなたがあなたの主観において正しいと考える意見に、私が同意したとします。
                >私も正しいと考えるようになったその意見は、あなたの意見ですか?
                >それとも、あなたの意見が正しいと考える、という私の意見ですか?
                >あるいは、私が正しいと考えるあなたの意見は、あなたの意見そのものですか?
                >私が私の主観においてあなたの意見だと思っている意見に、誤解や齟齬はありませんか?

                あなたの主観において正しいと考える意見に同意した「私」は、どこまで「私」のままなのでしょうか?
                そもそも、「私」はなぜあなたの意見に同意したのでしょうか。何らかの理由が、偶然がそこにあるはずです。
                その理由および偶然は、はたしてどこまで「私」が用意したものなのでしょうか。
                「私の意見を私が判断する(ことだけができる)」という言い方には、
                このような疑問がブラックボックスにされたままだと感じます。
                親コメント
              • あなたが何かを判断するとき、必ず理由があるのですか?
                私は、理由などあってもなくても構わないと考えます。
                あなたが何かを判断した。それで十分です。

                その判断は本当にあなたの判断ですか?
                では考えてください。それがあなたの判断なのか、あなたの判断ではないのか、
                あるいはそのどちらでもないのか、すぐには結論など出せないのか。
                そして決めてください。あなたにはその判断がどの程度信用できるのか、それはあなたにしか分かりませんが、
                その判断を覆すのか、覆さないのか、あるいは白紙に戻すのか。それ以外の答えでも構いません。
                その最終的な結論を出すのは誰ですか?

                そんなことを考えなくても構

にわかな奴ほど語りたがる -- あるハッカー

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