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Kanjiの日記: 文学史が嫌い 1

日記 by Kanji

学生の頃、文学史を習ったのを覚えていますか。私はアレが大嫌いでした。

科学の発展に寄与した人は客観的に見て日本人や人類に貢献していることが分かります。歴史に名を残すに値する人々です。政治もまあいいでしょう。貢献度はどうか分かりませんが、それだけ大きな影響力を持っていたからです。では文学はどうでしょう。

まず文学というのは人文科学ですから、それを研究している学者たちの間でしか評価が決まりません。それに、文学を読む人は非常に限られています。沢山著者がいるので、人によっては読んだことのない作家はいくらでもいます。当然好みの問題があります。

それなのに、国語教育で文学史が取り上げられます。有名な作家の名前や主な作品名を覚えさせられます。大学受験に必要だから覚えるしかありません。私は覚えませんでしたけどね。理系だからってのもあるのだけど。

さてそれらと比べて、本当の意味で古典と呼ばれるものはどうでしょう。古ければ古いほど忘れ去られるので、にも関わらず残されるというのは相当優れた作品だという証明です。近現代の作家なんて比較になりません。百年たったらさてどれだけ残っているでしょうか。

ところがここでもし我々が、中途半端な文学史なるものを作ってありがたがることで、何が起こるでしょうか。文学史に乗っているというだけでその作品が優れたものと思い込む人々が出てきます。

夏目漱石が出てきたのは、既存の小説が人々から見向きされなくなっていたときに、新聞に軽いのを書いたからだそうです。もっと時代を下ると、かつては純文学に対して中間小説なる言葉がありました。今で言うとライトノベルがそれに当たるのでしょうか。小説家だけでなく歌人に目を向けても、坂の上の雲を読めば正岡子規がなんとなく偉大な歌人だったという思い込みが打ち破られます。

いままで読んできた作品の中で、掛け値なしでどれが本当に面白かったのか、もう一度考えてみると良いでしょう。

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    1. 中間小説という言い方はまだあります。実体は「エンターテイメント一般」を指す総称。ラノベではないです。元々ジャンルではないので、何か他の単語につけてにつけて使うもの。いまでも中間小説誌という語は使われます。文芸春秋社のように「文春」と「オール読物」のような区分けの二誌を堕しているところが後者を指して使う。
    2. 趣旨自体は否定はしませんが、昔にさかのぼるとジャンルでの技法発展という側面もないわけではありません。日本の小説がつまらないのは、それが小説であるからというよりは、その国民および文化の資質。民族的な向き不向きは歴然とあります。
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人生unstable -- あるハッカー

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