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Pravdaの日記: 森有礼の日本語廃止論

日記 by Pravda

荻野貞樹『旧かなづかひで書く日本語』(幻冬社新書)より。

旧かなや舊字(旧字)の使用を勧める本で、単に「旧かな舊字は美しく、また正統なる表記である」と言ってるだけの内容ですが、歴史的な解釈に疑問がありますので、覚え書き。引用だらけですけど。

上の本の「第六章 国語を壊さうとした人たち」に以下の記述があります。

のちに文部大臣となつた森有礼は明治の初めに、日本は、日本語を廃して英語を採用すべきだと主張しました。しかも森はその主張をアメリカ人言語学者・詩人ホイットニーに書翰で送り、そのホイットニーから厳しくたしなめられてゐます。

さらに、その論を補強しようとしたのか、土屋道雄『國語問題論爭史』(玉川大学出版部)から、ホイットニーの書簡を以下のように引用しています。

一國の文化の發達は、必ずその國語に依らねばなりませぬ。さもないと、長年の敎育を受けられない多數の者は、たゞ外國語を學ぶために年月を費やして、大切な知識を得るまでに進むことが出來ませぬ。さうなると、その國には少數の學者社會と多數の無學者社會とが出來て、相互ににらみあひになつて交際がふさがり、同情が缺けるやうになるから、その國の開化を進めることが望まれなくなります。

ところが、森有礼とホイットニーのやりとりは、単純な日本語廃止の議論ではなかったようです。まず、一橋大学の国語外国語化論のWebページより引用。

「残念ながら、森の国語(日本語)に対する意見を書いたものは、現在二つしか残存していないのである。その一つは、この Yale College 所蔵の Whitney 教授宛の手紙である。(Pravda中略)そのもう一つは、Education in Japan の巻頭の森の序文の終わりの部分の二、三ページのところである(参照、原書、五五~五六ページ、本書第三巻収録)。(Pravda中略)
この二つの森の論述を見ると、明らかに、Education in Japan の方が極端である。 ... 。
Whitney への手紙の方は、それに比べると、すこし穏当な見方をしているようである。内容は日本の国語廃止論よりもむしろ英語廃止論といってもいいくらいで、森は書翰の全八ページ中六ページにわたって、日本語でなく英語を攻撃しているのである。森のこの手紙での主要な意向は、日本で採用すべき英語は、いわゆる “Simplified English”(すなわち、根本的に改訂され簡略化された英語)である、ということを訴え、そのために Whitney の支持を求めるつもりであったらしい。」
(アイヴァン・ホール(Ivan Hall)[解説]「ホイトニー宛書翰」『森有禮全集』大久保利謙(編). 第1巻. 東京 : 宣文堂書店, 1972 (近代日本教育資料叢書. 人物篇 ; 1), [解説]p.93-94)

つまり、森有礼は「簡略化された英語」を日本の言葉として使用することをホイットニーに提案したようですね。

さらに、田中克彦『エスペラント』(岩波新書)では、森有礼とホイットニーとのやりとりを、以下のように解釈記述しています。

この問題(補:純正言語から派生した亜流の「露払い言語」の問題)には、森有礼が、1872年に、「不規則形を除いた」英語を日本の公用語に採用したらどうかと、言語学者のホイットニーにうかがいをたてたときに、かれは森有礼に対し、適切にも今で言う社会言語学的な解答を与えていた。──そうした舌たらずで、できそこないの英語はかならずばかにされるのが落ちだから、正統・純正英語との間に限りなく差別を生みだすであろうと。こうした舌たらず英語は、せっかくそれを身につけても、話し手は一段劣った英語から純正英語への強いあこがれをかきたてられ、ますます英語へと接近する露払い英語としての機能をたかめることになる。ホイットニーは、だから日本語を捨ててはならないとさとしたのである。

なるほど、上に引いた土屋道雄のホイットニー書簡の訳も、社会言語学的なコンテクストでも読めますな。

言語学は門外漢ですが、個人的には田中克彦の説を採りたいと思います。理由は2つあります。

まず1つは、ラジカルな言語学者という田中克彦の立ち位置で、この著書の中でも、

こどもたちにエスペラントを教えれば、かれらはおもしろがって大喜びでやるにちがいない。理由のない「規範」がいっさい無くて、せいせいするからだ。エスペラントに出会ったこどもたちはすべて、それだけで半ば言語学者の目をそなえるだろう。

と、日本語に執着しないこと、ちょっといかがなものかと思えるほど(笑)。
つまり日本語を破壊しようとした悪人(?)として森有礼をあげつらう理由が無いので、それだけに学問的解釈として信用できそうだ、という点。

2つめは、新かなや戦後漢字に変わった、というのはある意味で、「正統日本語」から外れたわけで、荻野貞樹が「旧かな舊字は美しく、純正な日本語である」と主張することは、田中克彦の言う「正統・純正英語との間に限りなく差別を生みだすであろう」という文章と呼応してしまう。私は差別主義者です、などと著作で主張する人は居ませんね(笑)。だから荻野貞樹の「森有礼は日本語を廃して英語を採用すべきだと主張した」という書き方は、ずいぶん単純化した書き方であるし、もし上記のことを知っていて目をつぶってるのなら、自分の都合のいいようミスリードを誘っているだけ。

しかし、森有礼日本語破壊説をまとめたのは時枝誠記だったのか…。

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