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kyousumの日記: 自分のコメントがスラドに役立ってない気がする。 6

日記 by kyousum

最近の自分のコメントはスタドという場にプラスになってない気はする。

スラドが変わったのもあるだろうけど、自分の議論スタイルも前の方が良かったような。Twitterにあてられたか。

人のコメントを論じるのではなく、URLや条文付きで情報出すだけな感じのコメントを増やすか、ただコメントやめるか。

この議論は賞味期限が切れたので、アーカイブ化されています。 新たにコメントを付けることはできません。
  • 確かに直近の評価なんかも意味があるだろう。

    しかし、そのコメントが5年後、10年後にも参照され続け、
    「おぉ…素晴らしい。それに比べてこの評価を下した連中ときたら…」
    と見た人に思ってもらえるのであれば、そのコメントは /.J にとってプラス と言って良いのではないかと思うが。

    一方で、コメントに限らず、文章というものは
    「書き続けるからこそ、よりよい文章がかけるようになる」
    わけだし、その内容も
    「書き続ける為に考え続けるからこそ、よりよい考えが浮かぶようになる」
    わけで。

    そう考えると、コメントをやめるのは良い考えとは言えないのではないか、と思う。

    .

    一方で。推敲しない Twitter では、文章はうまくならない、というのは真実だと思う。

    --
    fjの教祖様
    • by Anonymous Coward

      え、140文字に納めるためにTwitterでは随分文章を練りますよ。
      /.は制限が緩い分書き飛ばすことも多いです。

      • 140文字に納めるためにTwitterでは随分文章を練りますよ。

        それは文章を練っているのか、それとも「言うべきこと」の方を削っているのか? という問題があります。

        .

        外山滋比古 先生の「日本語の論理 [geocities.jp]」という本があります。日本語は短歌や俳句のように短い表現で済ませるように進化してきた、というもの。

        この本では言語を「大陸的」と「島国的」に大雑把に分類しています。

        「大陸的」というのは、異なる文化や背景を持った人が集まっているため、「共通の知識・合意前提」と言えるようなものがほとんど仮定できない人間同士が意思疎通するために表現形態が定まった言語。最大の特徴は「冗長性が高い」というもの。データ信号がECCだらけのようなもので、何箇所かビット落ちを起こしても、受信側で回復できるようになっている。

        「島国的」というのは、同じ文化や背景をもった人が集まっているため、「共通の知識・合意前提」を大量に仮定できる世界で通用する言語。たとえとしては「家庭内での表現」が使われていますね。
        「ほら、少し前のあれ」
        「あぁ、あの子な」
        的に、お互い分かりきっている事は口に出さない。エラー修正が殆ど無い代わりに、短い。

        で。「大陸的」な言語の場合、「論理的説明」が非常に表現しやすいが、どうあっても字数を食う。「島国的」な言語は「叙情的感情」が非常に表現しやすく、その時にもっと文字数を食わない。

        .

        ここまでの知識を前提とすると、Twitter で文章を練っているというのは、実は「練っている」のではなく、論理的説明を削っている可能性が高い。

        俳句のようなモノの場合は言葉を削る過程で、表現している内容を多様化させることが可能になります。例えば

        古池や蛙飛び込む水の音

        という句は、「どの」古池なのか、「どの」蛙なのか、「どのような」水の音なのかは一切示さない。いつのことなのかも示さない。
        でも、この句を読んだ人は、多分情景が浮かぶ。
        でも、この句を読んだ人それぞれが、おそらく似て非なる情景を思い浮かべている。
        そして、この句を読んだ人が思い浮かべている情景は、全てその人の経験に基づいたある程度具体的な情景である。
        結果として、この句は「イデアとしての」古池に、「イデアとしての」蛙が飛び込み、「イデアとしての」水の音が響くという…非常に「理想的な」情景を描いている…

        とこのような表現が可能になるのですが、その事を「受け手側が理解できる」素地が必要になります。

        .

        英語とかであれば、言語的制約のせいでこのような省略はあまりできません。故に文章を練ることしかできない。しかし日本語の場合、字数制限を受けると「表現の多義性」に走りやすくなり、結果として「叙情的表現」は優れているし共感は呼ぶが、論理的には破綻している事を書きやすくなります。

        文章を真に「練る」上で「削る」という行為は非常に有効ですが、「字数制限」自体は有効ではないのです。

        --
        fjの教祖様
        親コメント
  • by Anonymous Coward on 2011年03月06日 17時37分 (#1913409)
    本家と比べると、/.Jはコメントの絶対数が少ないわけで、どんなコメントであれ役に立たないという事は無いと思いますよ。
    一般的に掲示板サイトは質をどうのこうの言う前に、まず量が重要です。
    それに/.にはモデレートという機能がありますし、質についてはその時のモデレータの皆様に丸投げしましょう。
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