mociの日記: ノーテレビ・ノーゲームデー 3
「ノーテレビ・ノーゲームデー」は必要? 埼玉・小学校長「まずは試してから判断を」 | ニコニコニュース
ノーテレビ・ノーゲームデーなんてわけのわからないことは野々市くらいしかやってないとばかり思っていましたが、全国あちこちにはびこっていたんですね。デーどころか、ウィークすら複数件あるようで。
野々市というのは金沢のとなりにある市――野々市市(ののいち・し)。昨年11月に町から市になりました――で、多くの郊外型大型店舗でたいそうにぎわっており、大学もあり、コミュニティFMもあり、活気のある街のように見える一方で、小中学生に携帯電話を持たせるな、であるとか、くだんのノーテレビ・ノーゲームデーであるとかも同時にとなえていたりします。
野々市のノーテレビ・ノーゲームデーでとくに納得が行かないのは、「親子の絆」だの「ゆっくり会話をしましょう」だのと言いつつ、「読書」をすすめている点です。本の魅力にとりつかれてしまうと、テレビやゲームと同様、あるいはそれ以上に家族との会話などそっちのけで本の世界にのめり込んでしまいかねません。「親子で一緒にすごす時間」を本気で望むのであれば読書などもってのほかで、むしろノー読書デーとして禁止事項に加えるべき、いやむしろひとりで本を読む歳になっているならばテレビやゲーム以上に禁忌とすべきでしょう。テレビやゲームにはまだ家族一緒に楽しんで会話する余地もありますが、読書にはそれすらないのですから。
冒頭のさいたま市の例では市長こそ「家族とのふれあいは必要不可欠」と野々市同様の世迷言を述べていますが、現場レベルでは目的に基礎学力の向上も掲げているだけあって、家族などそっちのけでひとりで読書、宿題をしていても効果アリとみなしているフシもうかがえ、それはそれで筋が通っているようですけれどもね。
教師は教祖ではない (スコア:1)
こんな個人生活への過剰な干渉をしておいて、「家族との絆」がどうのというのだからまったく筋の通らない話です。親が「テレビやゲームくらいしたって構わない」と言ったら、子供はどっちを信じればいいというのでしょうか。
学校は知識と常識以上のことを司るべきではありません。
「ノーテレビ・ノーゲームデー」それ自体はいいと思うんだが... (スコア:1)
問題なのはそれを唱えてる側が自分でも理由を理解していないところだなー。
理由を理解していないとそれはドグマになっちまう。
代わりに与えられる暇を自分で解消する事こそが大事なのに。
もっとも、取り上げるってのは不満を与えるって事でもあるから、ある程度の年齢になるまでは最初から与えないのが一番だけどね。
この2つはその暇を無限に吸い取るのに何も残らないことがほとんどというあまりにも時間的に不経済なものだからこそ問題なのであって、その内容は全然別の話なのね。だからテレビの場合予め予約した番組を見るのはおk。当然内容のペアレンタルコントロールは別の話。
ゲームは難しいんだよなぁ...だからある程度の年齢までは与えない方がいい。ある時間区切りで区切りが終了して(ただのpauseじゃなくて、意味のある区切りで)、そこから先へ進めるかどうかのスケジュール設定はペアレンタルコントロールでできればゲームも与えて問題ないんだが...。
...てな感じに理由を認識してればいいんだが、動機が懐古主義的なもんだから「家族のふれあい」みたいな曖昧なことしか言えないのがいかにも残念な感じ。
Re: (スコア:0)
> 動機が懐古主義的なもんだから「家族のふれあい」みたいな曖昧なことしか言えないのがいかにも残念な感じ。
大人でもテレビやゲームの時間のセルフコントロールが出来なくて生活がダメダメな実例は居るので、
それの何がどうダメなのかなんて分かり易いと思うのだけど、
(「子供だからダメ」とか「子供はこうあるべき」と言う話ではない事は明らか)
なんで毎度毎度あんな(懐古主義的で動機の曖昧な)流れになっちゃうんだろうね。