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phasonの日記: 人工スピン系による量子系シミュレーション:ファインマンの夢の実現に向けて

日記 by phason

"Quantum annealing with manufactured spins"
M.W. Johnson et al., Nature, 473, 194-198 (2011).

固体物理と統計力学とは深い繋がりがある.固体中で起こる様々な物理現象は多数の粒子に由来する統計的な性質が多く,そのメカニズムを知ったり解析するためには統計力学が欠かせないからである.一方,統計力学は情報処理と非常に繋がりが深い.例えばノイズを含む画像からの元画像推定であるとか,各種最適化問題など多くの問題は,イジングスピン系(個々のスピンがある特定の2方向,+zもしくは-z方向しか向けないというモデル.向く方向を1と0に対応づけられる)の最低エネルギー(=基底状態)を求める問題に変換出来る(*).

*どういう事かというと,例えばN箇所の巡回サラリーマン問題であれば,N×Nの2次元のIsingスピン系を考え,その系のエネルギーが以下のルール(ハミルトニアン)で計算されるとする.

ルール1. {i,j}のスピンが1であれば,巡回路中のi番目に訪れる都市はjと見なす.その際にはその一つ前にいた都市({i-1,k}だと都市k)との間の距離に応じたエネルギー上昇がある.

このルールはイジングスピンと巡回セールスマンとを結びつけるルールとなる.ただしこのルールだけだと,順路が繋がりもしないし,同じ都市を何度も回る経路だのどの都市にも寄らない経路(移動距離ゼロなんでエネルギーは最低)が出てくるので,さらにいかの束縛条件を付ける.

ルール2. {i,*}のN個のスピンは,1つのみ1の時エネルギーが低く,2つ以上が1だとエネルギーが高い.
ルール3. {*,j}が2つ以上の場所で1ならエネルギーが高い

ルール2により,「i番目の順路」として2つ以上が出てくることを抑制する.何せ人間は同時に複数の経路を通ることは出来ない.ルール3は同じ都市を2度巡ることを抑制するためのものである.
この条件に合うようなハミルトニアン(スピン間の相互作用の組)のもと,エネルギーが最低になる状態=基底状態を求める事が出来れば,それが巡回セールスマン問題の解となる.
まあ実際にはもうちょっとましな実装のしかたがあるのだけれども.

さて,このようにして最適化問題を量子系の性質に置き換えたとして,実際に計算するためにはどうにかして基底状態を求めないといけない.ところが基底状態をきっちり求めるのは非常に困難である.ではどうやってこれを解決するのかと言えば,通常は物性物理/統計力学で開発された手法を利用する.これらの分野では昔からスピン系の基底状態を何とか計算しようというモンテカルロ的な手法がいくつも開発されている.そのため,最適化問題を一度スピン系の問題に置き換えてしまえば,似た様な手法が使えるわけである.よく使われる方法にシミュレーテッド・アニーリングと呼ばれる手法と,量子アニーリングと呼ばれる手法がある.解説はめんどくさいんで詳しくは北大の井上先生の講義ノートであるとか,東工大の西森先生の著作あたりを読んでいただきたい.特に前者は情報系の学生向けにわかりやすく書かれているので,物理の基底状態を求める,という問題と,情報処理上の問題がどのように結びついているのかがわかりやすく面白いと思う.

閑話休題.
そんなわけで,現在のところ,スピン系の基底状態(磁性体において,スピンがどう配列しているのか)を求めるためには,様々な数値計算でスピン系を模擬的に扱いその最低エネルギー状態を探索することとなる.しかしスピン系の基底状態を求める問題は(確か)NP困難であり,実際の系の様子をある程度反映できるような巨大なスピン系(計算量が膨大)の基底状態はなかなか求まらない.
では,他に手段はないのだろうか?
実はある.まあ誰でも考えつくものではあるが,はっきりと大勢に向けてそれを述べたのはファインマンが最初であろう(量子コンピュータのアイディアの嚆矢とされる).要するに,

・対象とする量子系と同じ振る舞いをする,でも観測しやすい巨視的な系があればよい

ということである.例えばスピン系を例にとろう.100*100*100の3次元のスピン系の基底状態を厳密に計算で求めるのはほぼ不可能である(というか10*10*10でも21000個の状態を計算する必要があり馬鹿正直な計算は出来ない).しかし,もし手元に「スピンと同じ振る舞いをする何か」があり,「相互作用を任意に設定できる,その何か同士の間のジョイント」があったとする.そうすれば話は簡単である.その「何か」を100*100*100個用意して,現実の系に対応する相互作用の強さで結ぶ.後は温度を下げるなり,相互作用を一定の比率で増やす(相互作用/温度 でスケールされるので,どちらでも同じ)なりすれば,系は勝手に基底状態に落ちていく.基底状態にまで落ちたら,後は個々の「何か」がどちらを向いているのか見てやれば,基底状態のスピンの様子がわかる.
「物理現象の直接の測定や数値解析が難しいから,同じ振る舞いをするアナログコンピュータ作って電流測ろうぜ!」みたいなもんである.
また一方,前述の通り情報処理における難問の多くはスピン系の基底状態探索問題へと置き換えられる(ただし束縛条件を実現するために,相互作用の形が非常に複雑な形になる).ということは,こういった量子系と同じ振る舞いをする計算機があれば,現在難問とされる各種問題がスパッと解ける(温度を下げると,勝手に解と同じ配列に収束してくれる)わけである.

さて,いつものごとく,残る問題は「作るだけ」だ.構想から30年ぐらい経とうというのに,まだまだ終わりは見えていない.
ところが今回,ここに大きな発展が報告された.それが今回の論文である.
彼らはまず,計算のためのbit(今回のこれも一種の量子コンピュータなので,quibitである)として超伝導リングを用いている(正確に言えば,途中にジョセフソン接合を持つrf-SQUID素子).このリングには円環電流が流れる事が出来,右回りに電流が流れるのか,左回りに流れるのかで0/1を実現できる(qubitとして働く).
またこの電流は円状に流れているわけだから,それぞれ下向き/上向きの磁場を伴う.人工的なスピンのようなものである.
ではこの「人工スピン」間の相互作用をどうするか?

実は著者らは少し前に,こういったrf-SQUID間にさらにカプラーの役割をする超伝導リングを入れることで,複数の超伝導リング間に相互作用を持たせることに成功している(Phys. Rev. B, 80, 052506 (2009)).超伝導リングの作る磁場をカプラーが捉え,それを反対側の端に送ることで別の超伝導リングに磁場を印加.この磁場が,超伝導リングが作る磁場と相互作用することで,どちら向きの円環電流が安定かが変わってくる.さらに(詳細は省くが),このカプラーに電圧を印加することで,相互作用の強さであるとか符号(つまり,カプラーで連結されている二つの超伝導リングを流れる電流が同じ向きが安定なのか,逆向きが安定なのか)を変えることにも成功している.

今回,著者らはこのqubitである超伝導リング8つ(4個*2列の8個)と,それを結ぶカプラー,qubitに任意に磁場をかけられるコイルをチップ上に集積し,その挙動を研究した.カプラーによるqubit間の相互作用のパス自体は,1列目のqubit(#1,3,5,7)からは全ての2列目のqubit(#2,4,6,8)に結ばれている.例えば#1は#2,4,6,8と相互作用可能で,#6は#1,3,5,7と相互作用出来る.が,とりあえず簡単のため,以下の実験では全体が一列に並び,かつ相互作用のパスは隣接する番号間でのみ存在するように設定されている.つまり,1-2-3-4-5-6-7-8と結ばれており,「-」で示した部分にのみ相互作用が存在する.
まず,qubitに磁場をかけず,途中の相互作用は全て強磁性的(隣接するスピンが同じ方向の時安定)に設定する.
そうすると(当然ではあるが),少しの時間の後で系は↑↑↑↑↑↑↑↑もしくは↓↓↓↓↓↓↓↓と全て同じ方向に向いた状態へと到達した.
続いて,相互作用は強磁性的であるが,両端のqubitに対し逆向きの磁場をかける.つまり#1は↑が安定であるが,#8は↓が安定になる.このように設定してしばらく待つ,という試行を何度もやり統計を取ると,系は
1. ↑↑↑↑↑↑↑↓
2. ↑↑↑↑↑↑↓↓
3. ↑↑↑↑↑↓↓↓
4. ↑↑↑↑↓↓↓↓
5. ↑↑↑↓↓↓↓↓
6. ↑↑↓↓↓↓↓↓
7. ↑↓↓↓↓↓↓↓
という,1つのドメインウォールを持つ,等しいエネルギーの7つの状態のいずれかに等確率で落ち込んだ.
この状態から右端以外の全てのqubitに磁場をかけ(右端だけは↓が安定になる磁場をかけたまま),↑が安定となるようにする.そうすると,上記7状態はもはや等価ではなく,一番上の
↑↑↑↑↑↑↑↓
の状態が最安定となるはずである.そして実際,実験においてもそのような状態に落ち込んでいることが確認された.

この実験でさらに重要なのは,このような状態間の緩和が(十分低温においては)非古典的な遷移であったということである.十分低温の時,この円環電流が反転するためにはポテンシャル障壁を越えないといけない.そのため,古典的な緩和過程だけだと,低温において反転速度が急速に低下するはずである.
しかし実際には,ある温度までは反転速度が低下していくものの(ここより高温では,熱アシストの古典的な反転が素早く起こる),それより低い温度では一定で温度に依存しない電流(スピン)の反転が観測された.これは,超伝導リングの円環電流がちゃんと量子トンネリングで反転している(ポテンシャルの山を越えない=熱アシストではないから,温度には依存しない)事を意味している.
この系をコンピュータとしてみた場合,十分低温では量子アニーリングが成り立つような系となっているわけである.

まだまだbit数は少ないとは言え,スピン間の相互作用を任意にコントロールしながら基底状態を探索できるシミュレーションシステムが完成したことの意義は大きい.またその緩和過程が量子アニーリングであると言うことは,温度を極低温に下げていく必要がある基底状態探索においても十分な状態間の遷移速度があることを意味している.基底状態を探索するには,数多くの状態間を遷移しながら,最低エネルギーへと落ちていく必要がある.ところが古典的緩和過程だけだと,肝心の基底状態が非常にmajorityになる低温において,緩和時間が延びすぎて計算時間(基底状態に落ちるまでの時間)が長くなる可能性があった.ここがきちんと量子緩和が成り立つような系が作れた,という点もなかなか意義深い.

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アレゲはアレゲ以上のなにものでもなさげ -- アレゲ研究家

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