rijiの日記: その「は」、本当に必要ですか? 3
日記 by
riji
本多勝一『日本語の作文技術』を読んで思う。
やっぱり、無駄に「は」を用いると文は読みづらくなる。
例えば、夏目漱石『こころ』の冒頭、
私はその人を常に先生と呼んでいた。
は、「は」を多用して次にように書くことも可能である。
私はその人は常には先生とは呼んでいた。
係助詞である「は」は、どこにでも使うことが可能である。しかし、「は」は、もっぱら主観的な認識を表すのであり、客観的な文の構造 (あるいは、もっと踏み込んで事実といってしまってもいいかもしれない) を明らかにはしない。
たとえば、「あの人」ではなく、「その人」を先生と呼んでいたといった場合には、次のように表現するだろう。
私はその人は常に先生と呼んでいた。
次のような語順でもいいかもしれない。
その人は常に先生と私は呼んでいた。
ここで、「私は」を省略することも可能である。
その人は常に先生と呼んでいた。
しかし、これでは、「(私が) その人を先生と呼んでいた」のか、「その人が (誰かを) 先生と呼んでいた」のか、わからない。「は」は、英語的な主語を示す格助詞ではないからである。
この場合、受身にしたり、動詞を別のものにしたりすると、誤解の恐れのない文になるが、それについては立ち入らないことにする。
文法的でない表現をするなら、「は」が表すのは話し手の主観である。表現するということは主観を伝えることだから、「は」の全くない文、つまり主観のない文も、落ち着きが悪い。しかし、主観がでしゃばると、客観が損なわれる。文の構造が見えなくなる。
だから、「は」を使うかどうかは、常に慎重に考えたほうがいい。「は」を用いなくても表現することが可能なら、その方が多くの場合に文意が明確となる。
えー??!、そんな例はつまらない (スコア:1)
せめて 吉川けいとさんのblog「ら抜き」 [himekuri.net] クラスでわらかしてくれないと (そういう日記じゃないってば)
それはともかく、「は」はうまく使いこなすのが至難の業ですね。というか、「は」を繰り返すまいとして「が」を繰り返していたとか、そういう副作用も含めて厄介。しかも、そういうミスをするときは大抵、締切だの何だのがテンパってて、ちゃんと推敲出来る心境に無い。
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ちなみに、「は」をどう入れるか…私が思いついたのは
と和田アキ子さんするネタでございました。
fjの教祖様
Re:えー??!、そんな例はつまらない (スコア:1)
ありがちですよね。「は」が多くなってしまった場合、それは分かりにくい文になる可能性が既にあるので、「が」に置き換えるより、語順を工夫したり、あえて翻訳調の受身を使ったりするとうまくいくことが多いように思います。経験的に。
主観? (スコア:0)
書かないと思うよ。
そしてこの書き換えは不自然であり、不可能じゃないかな。
「G: 学校文法で表現できる文全体の集合」と「N: 自然言語文全体の集合」は、完全に別物だと考えたほうがいい。
冒頭に挙げられた後のほうの文は、Gには含まれるがNには含まれない、というケースの一例だよ。
三上文法から考えると、「は」の機能は「トピックの提示」。
他の助詞と置き換わり、そこがトピックであることを示している。
(もちろん時制の場合はいわゆる「零助詞」になるので、代替となる助詞そのものが空になる。)
そのため、「は」はトピックの提示・変化・移動が伴うときにしか使えない。
どこにでも使えるわけではなく、使うときには使う蓋然性がある。
もちろん、「は」の多用で頻繁にトピックが散漫に変化すると、聞き手が話し手の意図を追いづらくなるため、必然的に悪文ということになる。