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von_yosukeyanの日記: 東京三菱銀行東京営業部 6

日記 by von_yosukeyan

ちょっと前に発表された話なのだが、東京三菱銀行東京営業部が、日本橋支店に統合されることになった

BTMの発表内容はそっけないが、一部ではかなり話題になっている。営業部扱いの拠点が、支店に統合された上に支店が営業部の入居しているビルにそのまま移転してくる、というのも異例であるし、東京営業部のある本石町は日銀本店や旧三井本館に隣接する一等地(周辺には短資会社本社が多数入居する)であることもある。しかし、実のところ最大の理由は、東京営業部とはかつて東京銀行本店が、三菱銀行本店との統合に伴い名称変更した拠点だからだ

東京銀行は、明治初期に貿易金融を目的とする官民共同出資で設立された特殊銀行の横浜正金銀行に起源をさかのぼることができる。当初は国立銀行条例に基づく国立銀行だったが、横浜正金銀行条例(明治20年勅令29号)による特殊銀行となり、敗戦直後にGHQに接収されるまで日銀や興銀に次ぐ政府系金融機関のひとつだった

戦後、GHQによる接収と普通銀行転換を経て、外国為替法に基づく唯一の外国為替銀行として、民間銀行の一つとなった。国内の営業拠点が少なく、預金を集めることが困難であったために、長期信用銀行や政府系金融機関と同様に、金融債発行が特別法によって許可され、割引債のワリトー(割引東京銀行債券)とリットー(利付き東京銀行債券)を発行して資金調達を行った

東京銀行そのものは、貿易金融を独占してはいたが、戦後の経済発展に意義を残した長期信用銀行や財閥系都市銀行と比べて派手さに欠けた。海外旅行が制限されていた時代、海外勤務にあこがれる学生にとっては東京銀行は外務省や商社と並んで人気の高い就職先だったが、どちらかというと国内の債券販売専門支店(資金吸収支店と呼ばれた)には、良家のお嬢さんやお坊ちゃんが配属される傾向があった

一方で、東京銀行調査部は興銀調査部と並んで、経済系官庁の意思決定に必要な調査研究を引き受けるシンクタンク的な意味合いが強く、東京銀行調査部の発行する東京銀行月報はエコノミストによっては貴重な学術論文集だった。また、海外勤務においては現地の日本人社会においては、大使館員に次ぐ待遇を与えられていたのも、東京銀行の特権だった

しかし、そういった特権も固定為替レート制の崩壊や、貿易自由化に伴い少しずつ輝きを失い、七大都銀の国際業務参入に伴い競争力を失っていった。もともと、国内拠点が極端に少なく、資金調達コストが極めて高い金融債に依存していた上に、メーンバンクとする企業の数もほとんどなかった東京銀行は、護送船団時代の申し子であったのである

#ここで言う七大都銀とは、現在のものとは異なり第一勧銀、富士、三菱、三井、住友、三和、興銀(興銀は都銀ではないが)を指す

その東京銀行が重大な危機に見舞われたのは、1980年代前半のメキシコ経済危機である。オイルショック以後、産油国として驚異的な経済発展を遂げたメキシコ、ベネズエラといった南米産油国に対し多額の貸付を行っていた東京銀行は、米系大手マーチャントバンク(バンク・オブ・アメリカ、バンク・オブ・ニューヨーク、シティ・コープ、JPモルガン、チェース・マンハッタン、マニファクチャラーズ・ハノーバー、ケミカルバンク)などとともに多額の焦げ付きを抱え、国際的信認を失った・その危機が、結果的にバブル崩壊後の黄昏の90年代を向かえ、不良債権処理を先延ばしにしようとしていた邦銀の中で、経営統合による生き延びを図る歴史的な決定に結びついた。しかも、財閥系都銀の三菱銀行との経営統合である

東京三菱銀行東京営業部の吸収消滅に見られるように、結果的には東京銀行と三菱銀行の経営統合は、一方的に三菱銀行が東京銀行を「飲み込む」形となった。後にも先にも、大手銀行の経営統合で一方的な吸収が発生するのは、戦後の長い間あまり見られなかったし、その後も01年に住友銀行がさくら銀行を救済合併するまでおこらなかった。そういった意味で、銀行の統廃合の歴史の中では、かなり興味深いケースであるが、統合発表から9年目にして東京銀行は歴史と化してしまったのは感慨深い

#ちなみに、東京三菱銀行日本橋支店もまた、旧三菱銀行の中では重要支店として位置づけられていた。業務中心地の中にある支店というだけでなく、証券会社と東京証券取引所との間の資金決済のための集中支店で、支店長は代々取締役が兼任していた

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  • 嵐ではないです。勉強になりました。
    東京銀行と横浜銀行は両方とも地方名がついてる銀行だけど、
    両者はぜんぜん違う形態の銀行だったんですね。
    --
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    • 「東京銀行っていうくらいだから、東京で便利な銀行だと思ったのに、支店はほとんどないし、ATMは少ないし、口座作ったら変な債券?とかってのを強引に薦められたし、がっかり」

      なんてのは昔よくあったそうです(w
      取引顧客層も、富裕層が多くそういう意味で興銀や信託銀行と重なる部分もありましたが

      地方名がついているのに、地方銀行ではない銀行としては、他に以下のようなものがあります
      旧埼玉銀行 都市銀行。埼玉りそな銀行も特例都市銀行
      旧北海道拓殖銀行 戦前は特殊銀行。戦後は都市銀行(経営の一部を日本長期信用銀行に譲渡)。実態は地方銀行に近かった。経営破綻し北洋銀行(銀行業務)と中央三井信託銀行(信託業務)に経営譲渡
      旧朝鮮銀行、旧台湾銀行 共に特殊銀行(中央銀行と商業銀行を兼ねた植民地銀行)で戦後日本不動産銀行、日本債券信用銀行(経営破綻)を経て現あおぞら銀行
      琉球銀行 米軍軍政府の出資による特殊銀行(中央銀行と商業銀行を兼ねた銀行)として設立。沖縄の日本返還に伴い普通銀行(信託兼営行)に転換。現地方銀行

      あと、地方名がついていても、その地方で最大の銀行であるとは限らない場合も多いですね。たとえば、栃木銀行(栃木最大の銀行は足利銀行。本店は足利市ではなく宇都宮市にある)とか。横浜正金銀行も、昭和7年に横浜から東京に本店を移転しています

      ちなみに、横浜銀行は国立銀行条例(国が出資して作ったという意味ではなく、国の法律に基づいて設立された民間銀行の意)に基づく二番目の銀行として設立され、かつては国立第二銀行と呼ばれていました
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      • 天婦羅★三杯酢です。

        横浜正金銀行といえば、あの永井荷風がNYとリヨンで勤めていた銀行ですね。
        なるほど、昔はそういうボンボンの受け皿でしたか。。。その流れで
        荷風もいたということでしょうかねぇ。
        --
        --- 天婦羅★三杯酢 temp@sunbuys.co.jp ---
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        • お久しぶりです~

          考査担当や海外勤務はエリートが配属されていて、とくにニューヨーク支店は重要支店なので幹部候補にとってはエリートコースですね

          リヨンは工業都市でもあるのですが、領事館が置かれていたのと横浜正金銀行の支店が置かれた重要拠点(パリよりも先にリヨンに支店が置かれた)だったので永井荷風も派遣されたのでしょう。というのは、当時のリヨンはフランスの金融の中心地で、ヨーロッパの金融センターでもありました。横浜正金銀行は、貿易銀行(言ってみれば両替屋・為替屋)であると同時に、外貨調達や外貨建て日本国債・債券を発行する投資銀行でもあったので、こういう拠点は当時は重要だったのだと思います。何しろ、国内の官営工場建設や国鉄路線建設だけでなく、日清・日露戦争の戦費はほとんど外国での債券発行で賄っていたほどですし

          #リヨンは横浜と姉妹都市です

          ちなみに、リヨンの銀行で有名なのが、先ほどクレディ・アグリコルに吸収された旧四大国有銀行の一つのクレディ・リヨネです。第二次世界大戦後に国有化されたのですが、実は本店はリヨンではなくパリにあります。本店がパリに移転したのは1878年のことで、その歴史の大半はリヨンに本店を置かなかった銀行だったりします
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          • どもです。

            多分横浜正金は日本にとって非常に重要な銀行だったでしょう。
            ただ、永井荷風という人は、あまり実業には向かなかったらしく、
            NYの時も支店のお荷物扱いだったらしいです。
            だけど、頭取(かな?)の知り合いの子息ということで守られ、
            本人の「とにかくフランスへ行きたい」という希望もリヨンへという
            事でかなえられたということです。
            リヨンへの辞令を渡される時に荷風は「馘首の宣告だろう」と覚悟して
            いたそうです。

            フランスはパリ一極集中だとか言われますが、金融とか産業に関しては
            リヨンもそれなりのチカラがあったと言うことでしょうか?
            --
            --- 天婦羅★三杯酢 temp@sunbuys.co.jp ---
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            • そうですね、リヨンは古代ローマ帝国の時代に、ローマの退役兵による入植によって築かれた町で、水利の良さからフランスでも代表的な商業都市として発展しました。中世に入ると、織物産業で栄えた関係で、富が蓄積され、脆弱だった王権や貴族に対する金融制度が早くから確立したことでも知られてます

              絶対王政が確立した時期になると、商品経済が高度に発達し、金融の重要性が高まっていきますが、しばしば王国はリヨンなど金融都市で年金型国債を発行しています。これは、元本の一括返済がない代わりに、年金方式で元本部分と利子部分を償還する方式の国債で、近世に入ると大陸諸国でも一般的に発行されるようになりました。ただ、当時の王権の信用は著しく低く、償還終了までの期間が長かったために、国債や債券を取引する市場が発達しました。今で言うジャンク債ブームが何度もおきたため、王権はしばしば先物を含めた投機を禁止する勅令を出しています

              フランスの金融市場が、パリに一極集中するようになるのは、革命後の19世紀に入ってからで、国家による経済への介入が強まるのは19世紀半ば頃だと思います。実例としては、イギリスとアメリカではこの時期鉄道に対する投機が発生し、いくつかの金融機関が破綻していますが、フランスでは鉄道建設を工兵隊が行うなど、国家主導の産業インフラが進められました

              クレディ・リヨネはこの時期に設立され、第三共和制下の20世紀初頭には世界最大の金融機関となりました。この頃にはすでにパリに本店が移転していたのですが、この頃には四大国有金融機関となるBNP、パリバ、ソシエテ・ジェネラルなどが巨大な勢力を誇っていました。一方で、財閥による強力な産業支配が定着していたのもこの頃で、植民地の拡大に伴い世界的に進出する金融機関も現れました。たとえば、現在欧州最大の金融機関であるクレディ・アグリコルと合併したインド・スエズ銀行という金融機関がありますが、これはイギリスの香港上海銀行と同様に、植民地銀行として発展した銀行の一つです(インドはインドシナ、スエズは中東を意味)

              こういった体制が崩壊するのは、第二次世界大戦後に成立した第四共和制のことです。ナチスによる傀儡政権であったビシー政権は、多くの財閥が協力したことで知られますが、第四共和制の主導権を握った元パルチザンによる強烈な拒否に遭い、戦後のフランスの経済システムの特徴となった産業と金融の国有化が断行されました。この時期に四大商業銀行も国有化され、国内では圧倒的な勢力を誇るものの、国際的にはこじんまりとした金融機関となってしまいました。社会主義的な指令経済とまではいかなくても、金融機関は政府による統制を受ける組織と化しました

              この時期に四大国有銀行のほかに発達した金融機関として、農協の中央系統的金融機関(日本で言う農林中央金庫)として発達したクレディ・アグリコルがあります

              こういった金融に対する国家の支配も、1980年代からの金融自由化・グローバル化の波を受け、90年代半ばから国有金融機関の民営化が行われました。クレディ・リヨネも、その例外ではなく、90年代後半に事実上の経営破綻と、政府による公的資金の注入を経て民営化され、先ほどクレディ・アグリコルに吸収合併されました
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