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19862 journal

yasuokaの日記: Utah州成立とFrank Edward McGurrin 9

日記 by yasuoka
黛治夫の『タイプライターのキーボードについて』(実務と用字, 第3号 (1962年3月), pp.2-16)が国会図書館から届いたので、ざっと読んでみたのだが、Frank Edward McGurrinに関してかなりアヤシイことが書かれていた。

1895年(明治28年) Michigan州Grand Rapidsの法廷記者Frank E. McGurrinはこのKeyboardによって最初の“Touch Typing System”を完成した。彼ははじめ両手の人差指だけ使い,Keyboardを見ながらポツンポツンたたく従来の方法によっていたが,Pianistが譜を見ながら指やキーを見ないで弾くことからhintを得て,両手の指を全部使いKeyboardを見ないで打つ方法をくふうしたのである。

キーボード配列 QWERTYの謎』(NTT出版, 2008年3月)にも書いたが、Frank Edward McGurrinは、遅くとも1881年8月にはタッチタイピングを完成している。McGurrinは1886年9月に、Utah準州Salt Lake Cityに移り住んでおり、1915年まではSalt Lake Cityに住んでいたことがわかっている。また、1895年にMcGurrinは、Utah州憲法起草の公式速記者を務めており、Salt Lake Cityにいたのは間違いない。

なお、Frank Edward McGurrinがタッチタイピングを始めたのは、『The History of Touch Typewriting』(Wyckoff Seamans & Benedict, 1900)で本人が語ったところによれば、以下のようないきさつである。

I was a clerk in the law office of D. E. Corbitt, in Grand Rapids, Mich. … One day he came into the office and told some one else who was there that he had just been over to the office of Henry F. Welch, the official stenographer, and that Mr. Welch was dictating from his notes to a girl who was running the typewriter while looking out of the window. All this while she was writing from dictation at a very rapid rate. … I made up my mind that whatever a girl could do I could do, so I set to work to learn to operate without looking at the keyboard. I discarded my former method of two or three fingers and determined to use all of my fingers. Before the end of the year 1878 I could write upwards of 90 words a minute in new matter without looking at the keyboard. I did not meet the girl in Mr. Welch's office for two years after and then learned to my surprise that she did not operate the machine without looking at the keyboard and had never attempted to do so.

要は、1878年Grand Rapidsにいた頃、Daniel E. Corbittに騙されて、いもしない少女タイピストに打ち勝つべく、タッチタイピングに手を染めたということらしい。ただ、この『The History of Touch Typewriting』には微妙にアヤシイ記述が散見されるので、鵜呑みにするのは危険だろう。

この議論は賞味期限が切れたので、アーカイブ化されています。 新たにコメントを付けることはできません。
  • >黛治夫の『タイプライターのキーボードについて』(実務と用字, 第3号 (1962年3月), pp.2-16)が

    安岡様。この人って、旧日本海軍士官の「あの人」じゃなかったですか?
    ほら、「真珠湾攻撃をやらずに戦艦中心の艦隊決戦で戦えば勝てた」という説を戦後に発表した・・・
    同姓同名の別人でしょうか?
    • 『海軍砲戦史談』(原書房, 1972年8月)を書いた黛治夫ですね。同一人物の可能性がかなり高いと思います。というのも、この『タイプライターのキーボードについて』の中で「海上自衛隊のキーボード」を説明してるところ(p.7)があって

      1954年(昭和29年)暗号テレタイプライターと事務用タイプライターのキーボードとして三阪儀一海佐の指導により,黛治夫が研究に当たった。
      この黛治夫は1954年時点で海上自衛隊にいたわけですから、海上自衛隊術科学校砲戦術講師だった黛治夫と同一人物の可能性が高いと考えられます。ただp.16では

      (まゆずみ・はるお:ローマ字会員,カナモジカイイン,タイプライター研究家,本会評議員)
      としか書かれてなくて、砲戦の砲の字もないので、もし海上自衛隊に同姓同名がいたらアウトです。うーん、1962年時点で実務用字研究協会の評議員をやってたと同時に、ローマ字会やカナモジカイにも関係してたわけだから、そのあたりをもうちょっと調べれば何か出てくるかな…。
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      • by yasuoka (21275) on 2008年03月01日 23時05分 (#1305877) 日記
        もうちょっと調べてみました。で、いくつか黛治夫の原稿を見つけたのですが、やはり同一人物だと断定していいと思います。わかりやすいところでは、『実務に結びついた教育を』(実務と用字, 第3巻, 第8号 (1964年8月), pp.7-8)を書いたタイプライター研究家の黛治夫は、肩書が

        (本会評議員・極洋捕鯨KK技術顧問)
        となっています。これに対して、大和に乗り組んでいた黛治夫は、『艦長砲談 ― I』(兵器と技術, 第241号 (1967年6月), pp.41-49)の中で、自らの経歴を

        昭和29年頃は、横須賀にあった海上自衛隊の術科学校で砲戦術を講義したし、32年から約10年間、捕鯨砲の射撃を研究したり、砲手を訓練したり、銛や信管や射撃装置の設計に関係したり、砲に縁のある仕事をした
        と記しており、捕鯨に関与していたようです。さらに、吉永昌一(青梅スポーツ編集長)の紀行文 [exblog.jp]は、これらを補完しています。タイプライター研究家だった黛治夫と、砲戦術講師だった黛治夫は、同一人物とみて間違いないでしょう。
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        •  調査ご苦労様です。
           黛治夫氏が戦後自衛隊で仕事をしていたことぐらいは把握していましたし、元砲術科士官が捕鯨砲の開発にかかわることぐらいは予想の範囲内ですけれども、タイプライターにまでかかわっていたとは意外でした。
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  • 山田尚勇引用のChicago Daily Tribune, 1942, No more typewriter sales.
    http://blog.goo.ne.jp/raycy/e/76d750945d9cb445f074ebd3e9ccb371 [goo.ne.jp]
    1942年 - 霊犀社2

    の元記事の、何か手がかりございましたでしょうか。
    --
    初期TYPE WRITERの活字は 絡んだりしなかったか? 衝突は問題なかったのか? http://slashdot.jp/journal/560336
    • 1942年のChicago Daily Tribuneをかなりチェックしたのですが、『No More Typewriter Sales』と題する記事は、私には見つけられませんでした。近い記事としては、1942年3月6日の『All Typewriter Sales Halt!』(Chicago Daily Tribune, Vol.CI, No.56 (March 6, 1942), p.1, l.7 and p.11, l.3)ってのが、あるにはあるんですけど…。
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      • http://blog.goo.ne.jp/raycy/e/b49d753a153b210e6b064e8fc898a1a2 [goo.ne.jp]
        No more typewriter sales和製英語風?うろ覚え書き?Sales Halt! - 霊犀社2

        黛治夫ポインタは番地?のラベル?その記事を指し示したかったのかもしれませんね。
        --
        初期TYPE WRITERの活字は 絡んだりしなかったか? 衝突は問題なかったのか? http://slashdot.jp/journal/560336
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      • タイプライターの供出、タイプライターメーカーの武器関連製品製造への転換、タイピストがワシントンで増員?てなことはあったような。もっとも、供出には、あまりおうしょう応召はなかったような、、。
        タイプライター60万台不足ってなことも書いてあるような。
        http://blog.goo.ne.jp/raycy/e/fb057363f46324686cb5fd1e0ff2f8ff [goo.ne.jp]
        The War Production Board typewriters - 霊犀社2

        The War Production Boardのタイプライターに関する中身、どうなってたんでしょう?
        --
        初期TYPE WRITERの活字は 絡んだりしなかったか? 衝突は問題なかったのか? http://slashdot.jp/journal/560336
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        • 1942年にWar Production Boardがタイプライターに関して出した命令は、かなり多岐に渡っていて、しかも複数回の微妙に矛盾した命令が出ているので、ここのコメント欄に一言で書けるようなものじゃありません。参考までに、Chicago Daily Tribuneの1942年の記事のうち、私の目についたものを、以下に挙げておきます。
          • 『Warn Industry to Slash Output of Typewriters』(2月4日)
          • 『All Typewriter Sales Halt!』(3月6日)
          • 『Cut Typewriter Output 25 Per Cent, WPB Rules』(3月18日)
          • 『U. S. Asks 600,000 Typewriters of Private Owners』(7月8日)
          • 『Owners of Standard Model Typewriters Urged to Sell to U. S.』(7月26日)
          • 『Order Making of Typewriters Halted Oct. 31』(8月5日)
          • 『WPB Urges Chicago Companies to Sell Typewriters to U. S.』(10月1日)
          ただ、WPBからどういう命令が出されて、それがどう実行されたのか、そして、それがどのような歴史的意味を持つのか、については、raycyさんご自身が当時の新聞記事などから判断するしかない、と思われます。よければ、ご自分の目で、当時の新聞や雑誌をお読み下さい。
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