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「検証可能性」特に、日本語版ウィキペディアでは、かなめの一つ「検証可能性」が無視されていることが多く、ウィキペディアのポリシーを知らない執筆者が「~であろう」「~と思われる」などと自分の解釈を述べてしまっている。たとえ信頼できる資料に依拠していても、たとえどんなに鋭い洞察と正当な分析でも、たとえ全編集者がそのとおりだと同意する内容でも、出典を示せないことは書いてはいけない。出典がなくても客観的に事実なら「本来は良い」はずだが、出典がないと、客観的に事実かどうかを客観的に判断できないから「本来は良い」はずのものなのかどうなのか、それが判断できない。実際、これは分かりにくい概念だ。書いてあることが正しくないからいけないのではなくて、出典を示せないからいけないのだ、と言われても「内容は正しいのだから問題ないでしょう」と考えてしまう人も多いのではないか。その点、「ソースは?」とすぐツッコミが入る2ちゃんねるの方が、ウィキペディア(少なくとも日本語版)より全般的なユーザー意識が高い。もちろんソースの信頼性はまた別の問題だが。出典を示さなければいけないということは、独自研究の禁止とほぼ同じことだ。とんでもない内容の「独自研究」を記載してはいけないことは直観的に分かるだろうが、ノーベル賞級の優れた研究でも、ウィキペディアを一次発表の場とすることは、禁止されている。トンデモ発表禁止に比べて直観的に分かりにくいかもしれないが、それがウィキペディアの基本方針。「大統領は~と述べ」などと出典と事実を示し、「これこれを批判した」などと直接の論理的帰結を導くまでは良いが、「この裏には~という意図があると考えられる」などと執筆者の“解釈”にまで踏み込んではいけない。そういうことを書きたいときは「ワシントンポストはこの発言の意図を~であると分析している[1]」のように、情報の責任を [1] に“押し付ける”のがウィキペディアの作法だ。発言の意図が明々白々でもなぜわざわざ出典が要るのかといえば、明々白々かどうかそれ自体が問題になるからである。上記の事件も「マイクロソフトはウィキペディア財団にミラーを要請した[2]」のように出典表記 [2] に、マイクロソフトのサイトへのリンクがあれば、事実かどうかすぐ検証できただろう。
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UNIXはただ死んだだけでなく、本当にひどい臭いを放ち始めている -- あるソフトウェアエンジニア
参考にするなら (スコア:4, 参考になる)
後でこのコメントを読んだ人のために (スコア:3, 興味深い)
Re:参考にするなら (スコア:2, すばらしい洞察)