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UNIXはシンプルである。必要なのはそのシンプルさを理解する素質だけである -- Dennis Ritchie
自分でもいまいち整理がついてませんが (スコア:0)
# と書くと「ゲーム性」とか「新しい体験」とか「原点」とか
# 「PS3糞ハード」とかまぁ返ってくる言葉のたいていは想像つきますが
# そういう「社会(世論)の情勢」を踏まえた上での率直な感想。
Re:自分でもいまいち整理がついてませんが (スコア:1)
そして、そこがどういう風に変わればそう思わずにすんだんでしょうか?
Re:自分でもいまいち整理がついてませんが (スコア:3, 興味深い)
そうですね、要するにハリウッド的な進化の方向は失われたんだな、という感慨ですかね。
豊富な予算をつぎ込んで最新技術満載なマスなコンテンツを作るというビジネスはもう無く
結局は自主制作映画的、ミニシアター的な「原点」という名の別路線なのかなと。
「ドラクエ」「FF」というメガコンテンツは、日本のゲーム界の中でも数少ないこの手法
(ハリウッド的手法)が許されたシリーズだったと思うのですが(まぁどちらかというとFFの
ほうがその傾向が強いですけどね)
そのドラクエですら次作は携帯ゲーム機になる、という現実を見せ付けられて
「日本のゲーム業界」がハリウッド的な存在になるパスは残されてないんだなと思ったわけです。
まぁ、最終的に現在の方向性のほうが市場がデカいというのは確かで、市場がでかければまただんだん
コンテンツはマス化していくんでしょうけどね。
まぁ、既にこういう感想を持つことすら「古い概念」で罪悪とみなされるようですけど。
気を落とさなくても (スコア:4, すばらしい洞察)
DQはカワイイキャラクターで子供から大人まで楽しむシンプルなRPG、
FFは壮大で奥の深いハリウッド的大作RPG。
きっと同じ会社でシェアの取り合いは避けたいですから。
最近はDS出現以降シンプルなゲームが見直されている状況なので
人々がそれに飽きたら、またきっと大作ゲームが注目されるでしょう。
Re:気を落とさなくても (スコア:5, 興味深い)
ゲーム自体の持つ価値は、プレイヤーの価値観とか社会背景から完全に独立できない。そしてその二つにある、ちょっとした「差(≒驚き)」を作り出すのにいろいろな手法を使ってきた。
最近は技術の急激な進化と低コスト化に沿った形で、市場のおおくの部分でマスプロ的手法(≒リアルな表現)を使っていた。しかし、人々がこれに慣らされてしまい、かなりの技術に対して驚かなくなってしまうことが、この手法の限界。ナントカForce8とか物理演算エンジンとかCellとか、まさに鳴り物入りなのだがそれで驚ける(≒違いがわかる{目,HD対応ディスプレイ}を持つ)人は「今は」少ないように思う。
ちょうど、「一般」オーディオの進化がCDで終わったように。
ある時点が変曲点で(FF7のあたりか?*1)、それ以降は一つの物語の終わりの始まり。そしてマスプロ的手法に代わる、新しい「差」を産み出す装置としての、原点主義的手法(≒マンガ的表現)が機能しているのが今。
個人的には、現代ではこの手法の寿命は、マスプロ的なものに比べれば短かそうな気がする。もし、この手法の波が衰えて、その「次」がゲーム以外の「驚き」にもっていかれたら、本当の意味で「日本のゲームの終わり」かもしれません。しかし、元々の日本のゲーム(に限らずメディア)の強みは、マンガ的省略の中で本質を描き出すことにある (NAMCO、KONAMI、TAITOなどの黄金の80年代を見よ!)。そんな中での、現場の人々の努力を、もうちょっと前向きに捉えたほうがよいように思います。
*1: 個人的に、FF7を過ぎたあたりから、グラフィックが綺麗なこと自体はどうでも良くなった、というだけ。根拠なし。