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「崩れ落ちる兵士」の初出はフランスの『VU』誌だそうです。
ロバート・キャパ (Robert Capa) もそんなカメラマンの一人だった。彼の写真で,打ち抜かれる瞬間の兵士を塹壕の中から撮った「崩れ落ちる兵士」は,一九三七年七月一二日号の『ライフ』に掲載された (写真が最初に掲載されたのはフランスのグラフ週刊誌『ヴュ』一九三六年九月二三日号である)。このキャパの写真はスペイン動乱にカンするアメリカの世論を人民戦線に同情的にする役割を果たした。
日の丸にバツをつけた表紙を持つ『タイム』一九四五年八月二〇日号が,最も多くの紙面を割いたのが「原子爆弾」についてである。米空軍が撮影した広島と長崎のキノコ雲が誌面の左右にアレンジされ,中央には人類に文明と技術をもたらした神プロメテウスの像がある。
アメリカ空軍撮影の「きのこ雲」は,その威力を知らしめる映像として広く宣伝されたが,世界が「きのこ雲」の下の地獄の映像を知るには,さらに七年の歳月を要した。一九五二年,講和条約発効によってGHQの検閲が終わってから,初めて被爆直後の写真が『ライフ』に掲載された。「一九五二年九月二九日号」である。ヒロシマの写真は『中国新聞』のカメラマン松重美人が撮影したもので,(後略)
長崎の写真も『ライフ』に掲載された。キャプションには「ヤマハタ・ヨースケという陸軍報道写真班のカメラマンが撮影した」とある。
松重の写真は被爆から二年後の一九四七年七月六日号の『夕刊ひろしま』(『中国新聞』系列の夕刊紙で発行部数3万部) に掲載され,中国地方の読者 (三万人) は見ていた。しかし,この写真が掲載されると,GHQから「掲載をするには事前報告が必要」との注意を受け,GHQにその写真を提供した後,ネガは中国新聞の資料室に保管された。講和条約発効後,その存在を知った『ライフ』が,非鳴く直後の広島と長崎の惨状を世界に知らせたのである。それまではGHQのプレスコードに縛られて,原爆の写真は一切公開できなかったのである。
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日々是ハック也 -- あるハードコアバイナリアン
Life\(^o^)/オワタ (スコア:1)
Lifeといったら、戦中に日本兵の骸骨を表紙にした雑誌ですよね。
歴史のある雑誌の過去のアーカイブには、ある種プロパガンダ的な
現在の常識に照らして不適切な物も当然存在するわけですけど、
ああいうのも公開しちゃうつもりなんだろうか。
Re:Life\(^o^)/オワタ (スコア:4, 興味深い)
ふつう (の基準はそれぞれ違うので何とも,ですが),キャパの「崩れ落ちる兵士」とか「オマハ・ビーチ」では?
広島・長崎の被爆直後の写真を (1952年になってからですが) 世界に流したのも「LIFE」でしたし。
戦時中は「敵国日本」に対する敵視 (当たり前) 写真・記事があったのは兎も角,ハースト系メディアよりは,だいぶ「良心的」なジャーナリズムだったと思いますが。
# 下記の本では,メインは「FORTUNE」誌だけれど,「LIFE」誌の話も出てきます。
# 『
"Patriotism is the last refuge of a scoundrel." - Samuel Johnson
Re:Life\(^o^)/オワタ (スコア:3, 参考になる)
「崩れ落ちる兵士」の初出はフランスの『VU』誌だそうです。
Re:Life\(^o^)/オワタ (スコア:1)
『VU』誌が初出だったということは,前述した本にも記述があります。(p.176)
当時は,まだナチズム・ファシズムに対しての反感よりは,コミュニズムに対する警戒感の方が強かったわけですから,『LIFE』誌への掲載で「世界」にインパクトを与えたということは言えるのではないでしょうか。
ついでに。同書には,ヒロシマ・ナガサキの被爆写真の公開についても記述があります (p.192-196)
「初出」は『LIFE』誌ではなかったかもしれませんが,「戦勝国」のメディアである『LIFE』誌に掲載されることで,「世界」がそれを知ることができた,もうひとつの例でしょう。
"Patriotism is the last refuge of a scoundrel." - Samuel Johnson