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デカルト礼賛で止まっているとしたら、内容も偏っているのかも。例えば、リクールの言に従って、マルクス、ニーチェ、フロイトは、デカルトの先へ踏み込んだことを考えれば、デカルトも通過点に過ぎない、と思うわけです。「我思う~」も、否定されてこそ、今日の学問的進歩がある。近代の国家観、国民意識、民衆の価値観の一つの源は、ここにあるのですし。
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アレゲは一日にしてならず -- アレゲ研究家
予備校講師 (スコア:1)
デカルト礼賛で止まっているとしたら、内容も偏っているのかも。例えば、リクールの言に従って、マルクス、ニーチェ、フロイトは、デカルトの先へ踏み込んだことを考えれば、デカルトも通過点に過ぎない、と思うわけです。「我思う~」も、否定されてこそ、今日の学問的進歩がある。近代の国家観、国民意識、民衆の価値観の一つの源は、ここにあるのですし。
Re:予備校講師 (スコア:1)
その後(?)カント、ヘーゲル、ニーチェ、サルトルも同程度の分量で説明されていました。私が(勝手に)感じ取ったというところでしょうか。
著者名の富増 章成とはトマス・アクィナスにちなんだペンネームだそうです。