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Stay hungry, Stay foolish. -- Steven Paul Jobs
バックアップ目的なら (スコア:2, おもしろおかしい)
Re: (スコア:1)
でも、見られて構わないライフログなら、動画はYoutube、写真はFlickerにそれぞれアップして、blogからリンクを張っておけば、検索性もレスポンスも再利用性もバランスの取れたライブラリが構築できるし、そもそもローカルに持たずストレージは他所に丸投げというアイデアは悪く無いですよ。
当該P2Pの場合は、拡散力と保持力は高いようですが、交換文化に躍起にならず社会人でもまったりダウンロード出来るという点がウケた点の一つであり、つまり逆に言うと即時性が高くないので利便性を考えると、バックアップがローカルデータの担保にならないので、心理的安心感が得られないという問題を抱えてしまいます。
Re:バックアップ目的なら (スコア:3, 参考になる)
YouTubeのようなものは10年後も在るかも知れませんが、
P2Pとかでなく単なる古典的サーバ型なYouTubeは、その会社のサービスが終了すればそれっきり。
NiftyServeを教訓にしよう。いったいどれだけの回顧的お宝が閉鎖で消失したやら…
ちなむと@niftyはまだ在るけど別物ね。
また、これまた企業ですから(いや個人だってだが)、
YouTubeのようなものが数年後に流行から外れてしまえば、その会社も他社も誰も似たようなサービスをしなくなるでしょう。
流行が続いてる数年間だけ持たせたいならYouTubeはいい選択ですが、それを超えるとなると途端に難しくなる。
そういえば昨日のOSC2008-DOでも挙げられていましたが、P2Pの「流行」すらすでに下火のようですね(動画投稿"サーバ"方式に超えられてしまった)
本気の本気でやるなら。
●超絶お上路線。国家が責任持って永久保管する体制を整える。税金をいくら費やすかはわかりませんが。
●超絶裏側路線。ウイルスでも使って世界中のPCにデータの複製をしみこませる。自己増殖(伝播)するように作っておくことで、各ノードが代替わりしてもデータが存続するようにする。難点は今の自由でいい加減なInternetじたいが(国家権力などにより)消されたら終わりって点ですが。
という両極端のどっちかしかないのでは。
#あ。国家もつぶれたら終りか>お上路線
Re:バックアップ目的なら (スコア:3, すばらしい洞察)
確かに、フォーラムとかパティオとか失われたものは大きかったですね。
古のニフティの例を出すまでも無く、インターネット黎明期に多数発生したTeacupのような掲示板、
ライコスやジオシティーズのような無料HPスペースで失われてきた情報は数え切れません。
ニフティ―の場合は、参加者が金を出してネットワークに参加する事の意義が今よりも強く求められ、
公開を意識して整理され共有しあってきた公共財的知識が失われたから痛いだけでしょう。
そもそも、個々がクローズドで参加人数が少なかったという人的レベルの冗長性にもかけていました。
検索性が低く、失われやすい条件が揃っていたのがニフティだったと思います。
一方、今のように公開するという事をさほど意識していないブログ…ライフログ的な情報など
目立つようになっているように、情報発信に対する意識のハードルが下がっていますので、
失われた時のダメージが共有されない情報の方が多い事実を認めない訳にはいかないと思います。
まあ、Youtubeが止まったとして、他人を巻き込んで「コンテンツとして自立している"作品"」
が失われたらダメージも共有されるでしょうが、ここで自分が想定していたのは、
そのような、ある程度他人を意識しているような情報では無くもっとありふれた孤立的な情報です。
そのようなものであれ、公開する事で価値があると判断されれば積極的に他人が残そうとします。
(権利にこだわらず、複製する事を著作権者が許可していればよりスムーズに)
紙や木簡というアナログなメディアに記録された情報が、現在もデジタルとして変換されて
閲覧され続けているように、サービスがいかなるものであるかより、情報がいかなるものか
がその情報の継続性を決定するのだと思います。
「検索して活用される事」媒体・サービスが何であれ、それに勝るバックアップはありません。
自分が死んだ後、他人が必要としない情報を他人の意に反して残すというのは難しいでしょう。
家系の途絶えた墓地が廃れていくように…その墓地が古墳やピラミッドであれば別ですが。
もうちょっと歳をとり、思い出を引っ張り出してきて懐かしむより時間の過ごし方がなくなれば、
自分の考えも変わるかも知れませんが(少なくとも現在の自分にはそういう時間に魅力が無い)
本当にコアでパーソナルな情報(プライバシーがどうこうじゃなくて客観的な価値、活用性の事)は、
せいぜい自分と自分の子供の世代位持続していればいいと思っているために、他人が必要としないなら
バックアップが失われる事を元々重要なリスクとして考えていない刹那的考えを持っています。
特殊な考え方に思われるかも知れませんが、他人の協力が得られない情報がバックアップされる事には
何をもってしても限界があるし、仮に他人の意思に反して生き永らえたとしても、再生ができなかったり
再生できても、意図した内容とは無関係に「古代人の暮らし」と銘打たれてしまったり。
情報が持続する条件は、それを理解してくれる人的な冗長性無しには成り立たないと思うのです。
>#あ。国家もつぶれたら終りか>お上路線
そもそもネットワーク自体も、普通にYoutubeが見れてgoogleで検索できて、反体制的な事も
(具体的な反社会的予告などは別として)許容されている今の状況が安定的なものではなく、
Youtubeが存在していても活用できない状態が存在する事は、世界を見渡せば珍しくないですからね。
そういう面でもネットワークに置けばいいというのはサービスに拠らず限界がある事も自覚しています。
日本語で記録してしまったら、その時点で人的な冗長性が限定的になりますしね。
それでも個人で抱え込むよりは、流行の間だけでも他人のレーダーにかかる可能性のある場所に
露出されるという事は、持続する可能性を大きく引き上げてくれる手法だと思います。