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間接的な信教の自由の侵害になります。
私人との関係において違法となるのは、信教の自由を制限したり宗教上の行為等を強制するなど、直接的に侵害した場合に限られるとされています。 もし、間接侵害も許さないほど厳密に政教分離を徹底するとなると、他の方も書かれている私学助成 [srad.jp]等、各方面に不都合をきたすでしょう。もっと言えば、宗教系私学に助成したことが、その宗教について政治が関わりを持ったとみなされるなら、助成しない
今回は公益上・社会習慣上は宗教に関わる必然性がほとんど無いこと、単なる関わりを超えて主体的に行為を行っている点は考慮されるべきです。
公益上の目的は、「きずな」による伝送実験を行うとともに、JAXAの活動成果を一般に知らしめることですね。社会習慣上という観点で見れば、クリスマスカードという形を取ることは
というメリットがありますから、意義はあると思います。主体的に行為をなす事自体が問題になるかどうかは、その行為が宗教であるかどうかによるでしょう。でも、繰り返しますが、「日本のクリスマス」は一般に宗教性を持っていません。
日本のクリスマスの宗教性についてですが、宗教性は信者等による宗教性の認識ではなく、そこに何らかの信仰、つまり人間観や価値観についての非
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アレゲはアレゲを呼ぶ -- ある傍観者
特定宗教の宣伝 (スコア:3, おもしろおかしい)
宗教性という慎重さを要する事項についての検討はされたのだろうか。
その他の活動は応援したい所だが、このような事をする組織は応援しにくい。
Re: (スコア:0)
> 第20条3 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。
目的効果基準だっけ (スコア:5, すばらしい洞察)
クリスマスカードを配る程度なら、日本の社会通念上は宗教行事とは考え難いですから、
(布教の文言とかが書いてあるなら別ですが)何の問題もないですよ。
憲法二十条は、信教の自由を保障するために制定されたものであって、
国が行う全ての活動について、宗教的だのへちまだのとあげつらうためのものではありません。
てか、そこらの役所の玄関前にもクリスマスツリーとか、正月になれば門松とか、
普通に立ってるじゃないですか。
Re: (スコア:-1, 荒らし)
クリスマスをタイトルに冠して事業を行う事まで何の問題がない、とは言い難いと思います。
Re: (スコア:1)
間接的な信教の自由の侵害になります。
私人との関係において違法となるのは、信教の自由を制限したり宗教上の行為等を強制するなど、
直接的に侵害した場合に限られるとされています。
もし、間接侵害も許さないほど厳密に政教分離を徹底するとなると、
他の方も書かれている私学助成 [srad.jp]等、各方面に不都合をきたすでしょう。
もっと言えば、宗教系私学に助成したことが、その宗教について政治が関わりを持ったとみなされるなら、
助成しない
Re: (スコア:-1, 荒らし)
原則は完全な政教分離、ただし事情を鑑みて必要性がありかつ看過できない害が生じない限度において宗教と関わってもよい、とする必要があります。
この議論に関して挙げられている判例等は個々に信教の自由、社会通念、文化保護、宗教活動の公益性等の関わり等を勘案した判断であり、それらを元に今回の件を直ちに判断できるかわかりませんが、今回は公益上・社会習慣上は宗教に関わる必然性がほとんど無いこと、単なる関わりを超えて主体的に行為を行っている点は考慮されるべき
Re: (スコア:1)
今回は公益上・社会習慣上は宗教に関わる必然性がほとんど無いこと、単なる関わりを超えて主体的に行為を行っている点は考慮されるべきです。
公益上の目的は、「きずな」による伝送実験を行うとともに、JAXAの活動成果を一般に知らしめることですね。
社会習慣上という観点で見れば、クリスマスカードという形を取ることは
というメリットがありますから、意義はあると思います。
主体的に行為をなす事自体が問題になるかどうかは、その行為が宗教であるかどうかによるでしょう。
でも、繰り返しますが、「日本のクリスマス」は一般に宗教性を持っていません。
日本のクリスマスの宗教性についてですが、宗教性は信者等による宗教性の認識ではなく、そこに何らかの信仰、つまり人間観や価値観についての非
Re: (スコア:1)
>例えば死者の追悼、あるいはそれに関連する行事など、すべて宗教行事
霊魂を云々とか宗教上の意義を持って特定の者をまつるとかは信仰の問題となりますが、単なる死者の追悼は事実としての死者の記憶等にまつわる意思表明等であって信仰を必要としませんので、宗教性無しに死者を追悼できないというのは誤りです。
よってそれを根拠には"現実問題として政教分離が不可能な解釈"と言えません。
yasuchiyoさん、
>一般人やその行為をしている者が宗教だと認識していなければ、その行為は信仰に基づいていませんから
信仰の認識は他者または他の事実との比
Re:目的効果基準だっけ (スコア:1)
冗談はさておき、実際の司法判断においては、主催者や参加者の意識は重要な判断条件になっています。一方で外形的に宗教の形態であるかどうかには、とらわれるべきでないとされています。客観的に判断すべきなのは確かですが、ちょっと基準は異なるようですね。「宗教」にあるべき構成要素がいくつ含まれているかよりも、一般人の認識、つまり主観的判断の総体を重視するようです。
更にその一部ではありますが、無意識的に多神教的な宗教観を持つ人がクリスマスも祝う事例についてはそれが実際に信仰の一部として行われている事が多いとも思います。
"日本のクリスマス"は、当人が宗教性を認識しなくとも、キリスト聖誕とかサンタクロース伝説といった客観的に信仰と解釈される要素が含まれており、その宗教性が宗教から独立した文化の背景レベルにまで落ち込んでいるとは言い難いと思います。
また、現にそれをより明示的な宗教として行っている人が社会的に意味がある程度に存在しているにも関わらず、クリスマスに既に社会的には宗教的意義がないと判断するのも無理があります。
ただし、当然ですが信者にとっての意義が薄れているわけではなく、あくまで社会を総体として見た時に意識しない人が多いという意味です。
あなたが、JAXAのこのイベントは宗教活動であると感じるのは、あなた自身の信仰の発露であり、そこではJAXAは触媒に過ぎません。(あるいは、信仰の対象か?…)
Re:目的効果基準だっけ (スコア:1)
>で、皇室神道はいいの?
本件と直接関係ないので深入りしませんが、既に書いたように個別に諸条件を勘案して判断すべき問題です。
いずれにせよ、類似性の低い他の例を参照して、それが良いまたは良くないという事を本件の参考にはできません。
yasuchiyoさん、
もちろん、"客観的に(オレが)見れば宗教だ"などと言っているわけではなく、一般的な意味での客観性、つまり偏見のない誰から見ても同様に成立することを条件にする必要があります。少なくとも理想的には。
ゆえに"一部の人は宗教だと認識している"とかその逆であることを根拠とはしません。
>私は、信仰というのは(正式な宗教からオマジナイまで)本質的に内心すなわち主観の問題と考えています
私も"信仰"することは内心の問題だと思います。個人の範囲で主観的に判断することに問題はありません。
一方"信教の自由"は他者との関係性の上に発生する問題なので、客観性が必要になるのです。
この場合、原則的には内心としてどう思っているかではなく、実際に行った行為がどう判断されるかの問題です。
>JAXAのこのイベントは宗教活動であると感じるのは、あなた自身の信仰の発露であり
そんな大げさなものでなくとも、現代的な基礎知識の範疇として、クリスマスという言葉やクリスマスカードというものから、ある程度はその宗教性を感じるか理解してもよいのではないでしょうか。
一般人がそれを"ネタ"として楽しんでいる場合であってもあまりにも無自覚なのは問題があると思うのですが、さすがにJAXAレベルになるとそれを"ネタ"にするのが適切かどうか慎重になるべきなのだと思います。
Re:目的効果基準だっけ (スコア:1)
あなた自身、L.Entisさんとのやりとりの中で、宗教の定義が多様であり一義的に定まり得ないことを認めていますね。それぞれの定義は、それを支持する集団が自身の主張を正当化するために定めているのです。「宗教分離の問題に対処する」などとくだらない目的のために別の定義を提示したところで、誰も認めるはずがありません。もっと言えば、ある宗教の信者にとって他の宗教は宗教ではないのですから、一般的な意味での客観性など存在し得ないのです。
理想的だかどうだか知りませんが、実現不可能なことを「こうあるべき」と力説したところで全く無意味です。その点では、現在の通説の判断基準というのは、それなりの妥協点に落ち着いていると思います。
ちなみに私は、法的にどう捉えるかという観点から、一応は通説に沿ってコメントしてきましたが、私見を言えば、政教分離についてはもっと寛容にすべき――直接的に特定の宗教を助長あるいは制限するのでなければ、特に問題視しなくてよい、と考えています。
一般人がそれを"ネタ"として楽しんでいる場合であってもあまりにも無自覚なのは問題があると思うのですが、さすがにJAXAレベルになるとそれを"ネタ"にするのが適切かどうか慎重になるべきなのだと思います。
元々JAXAがクリスマスネタでイベントを仕込んだことが宗教分離に反するかどうか、ということでしたよね。
それについては、
日本では、一般に「クリスマス」と言えば年中行事の一つで、公教育にも平気で取り入れられるほど宗教性は薄れています。(客観的事実)
そして、このイベントに「クリスマス」を冠することについては、必然性とはいかないまでも事業を成功させるための意義は認められます。(私見を提示したのに対しスレ中で反論なし)
ということで、取りあえず法的には問題なさそうです。
では、イベントの内容が「騙られた」宗教を貶めるものかどうかといえば、
カードを送り合い親族・友人との絆を確認し合うってのは、信者でなくても喜ばしい行為ですよね。それを啓蒙し仲介するイベントは、少なくとも糾弾すべき不謹慎な行為だとは思えません。また、クリスマスカードは、最近では欧米においても一般的な(宗教にかかわりない)風習として定着している様子。つまり「騙られた」とする認識自体が、世間の感覚とズレてきているようです。
では、何が適切かどうか慎重になるべき(というかやめろって意味ですよね)なんでしょう。
Re: (スコア:0, 荒らし)
例えば、私とあなたの間には何が宗教で何が宗教でないかについて、異なる部分はあるにせよ、ある程度は共通了解が存在するように思います(キリスト教は宗教であるとか)。また他の方との間にも大抵は同様の事が成立すると思います。
中には"キリスト教は宗教でない"と極端な主張する方がいるかもしれませんが、それは偏見である、もしくは本議論に採用すべき定義には含まれない、という事を実証することが可能だと思われます。
このような手順を宗教を含む周辺領域について適用していけば、客観的な宗教の範囲を、本件につ
Re:目的効果基準だっけ (スコア:1)
先コメントにも書きましたが、tiaさんの望むような理想的なやり方が極めて難しい(私はあり得ないと思います)中で、現在の司法判断の内容は「手順」はともかく現実的な対応としては妥当な落としどころです。また判断は事例ごとに異なるはず、という主張に対しても、いくつも事例を挙げて「日本のクリスマス」が宗教性をなくしている事実を提示しました。
こちらが具体例を挙げて妥当性を主張したのに対し、「べき」論だけで全く具体的な反論がなかったのですが、それは議論の姿勢としていかがなものでしょう。
「必然性」=この手段以外に取るべき方法がない、とは意味が違います。/.に来る人間なら必要条件と必要十分条件の違いぐらい認識していますよね。
おそらく単純な勘違いだと思いますし、言葉の定義を確認しなかったこちらにも非はありますが、反論コメントで用語を微妙に違えるのは、議論のすり替えだと曲解されるおそれがあります。気を付けた方がよいでしょう。
まあこちらとしても楽しませていただきました。おつき合いいただきありがとうございました。