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たとえば、市町村の人口は市町村自身のウェブサイトに掲載されていて、その検証は用意だし、十分に信頼できるソースです。
地方自治体はマスメディアなんですか?それとも、インターネットそのものがマスメディアなんですか?インターネット上の地方自治体公式サイトはマスメディアなんですか?じゃあ、インターネット上の企業サイトはどうですか?海は死にますか?山は死にますか?JASRACの方から来ますか?
所謂「マスゴミ」が信頼できない事は全く同感ですが、
揚げ足を取るようで申し訳ないけれども、所謂「マスゴミ」という言葉によって 想起するものは人それぞれであって、同意とか同感ということにはそぐわない。 先ほど別のコメントで「週刊新潮」を非難したので、これに沿って補足しておくと、 私が今の時点で「マスゴミ」と呼んで構わないと考えているのはこの週刊誌に限られる。 さもなくば、いっさい「マスゴミ」という言葉を使わないという立場でも構わない。 「マスゴミ」という言葉を、「然るべき理由によってペナルティボックスに入れられた マスメディア」という意味で使いましょう、というのが私の提案である。ならば、 マスメディアをペナルティボックスに入れる資格があるのは誰か、ということになる。 私の考えでは、それは「プロが編集するマスメディア」ということになる。たとえば 朝日新聞は、阪神支局襲撃事件の「手記」報道を検証することで、「週刊新潮」を ペナルティボックスに入れてしまった。その週刊誌は最近編集長を交代させたが、 誤報の責任を取らせたのではないと言い張っているから、まだ解放される資格はない。 一方でブログや2chは一般には「プロが編集するマスメディア」ではないので、そもそも 不祥事を起こしたマスメディアをペナルティボックスに入れる資格がない。そいつらが 無闇と「マスゴミ」呼ばわりするのは、身の程を弁えない所業だと考えている。
ただ「プロが編集するマスメディア」だけが評価者として適切であるとはあまり思えません。 消費者の視点で商品の質を評価するのは「有るのが当然」という性質の物ですし、それはプロによる評価とは並存するものだと思います。
ことマスメディアの評価に関しては、消費者の視点がプロのそれと並存するというのは空論でしょう。 私という消費者が週刊新潮はダメだと評価するとしても、その根拠は朝日新聞などの検証報道に まったく依存しています。そうでない部分を一消費者が世間様にお示ししたとしても、批判に 耐えられるものではありません。 情報という商品は、鍋や釜や石鹸を売るのとはちょっと違います。消費者が自分自身で評価する と言ったって、別の「プロが編集するマスメディア」の情報と突き合わせなければ、殆どの場合に それは叶わないことなのです。
いわゆる「マスゴミ」批判の理由とは違うものだと思います。
「いわゆる『マスゴミ』批判の理由」について、それは報道内容が事実か否かとは違うと 断った上で、説明なしに暗黙裡に了解されるだろうと期待しているわけですか。 そりゃあ無理だろ、と思いますけどね。 たぶん「マスゴミ」なるマスメディア批判用語は、おのおの使う人が勝手に都合の良いものを 載せるための空っぽのコンテナみたいな言葉なんですよ。なにか中身のあることを主張したい 人にとっては、使い道のない言葉として定着しかかってるんでしょう。
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一つのことを行い、またそれをうまくやるプログラムを書け -- Malcolm Douglas McIlroy
ジャンルによる (スコア:0)
それ以外でも、個人的に信用しているというわけではない人一人に聞いた答えと食い違ったときはWikipediaのほうを仮の事実としている。
いずれにしろマスメディアよりは信用できるね。
ウソツキとは言わないにしろ、マスメディアは記述量に限界があるし、一次資料を書くことも滅多にない。
Re: (スコア:3, 興味深い)
> ウソツキとは言わないにしろ、マスメディアは記述量に限界があるし、一次資料を書くことも滅多にない。
それは認識が間違っていると思います。
Wikipediaは、出典元を明記する事で読者が記事の信憑性を確認する事ができるという事を信頼の基礎においており、いわばWikipediaの信頼はマスメディアが担保していると言えます。
仮にマスメディアが全て信頼できないのならば、Wikipediaの信頼も崩壊します。
Re: (スコア:2, 興味深い)
Wikipediaの全ての記事がマスメディアを出典元としているわけではありません。むしろ社会的事件などを扱った記事など、マスメディアを情報源とせざるを得ないものは一部にすぎない。特に、自然科学系の事象を対象とした記事などでは、一次情報源として原著論文、二次情報源として学術総説や(大学で使うような)教科書などを使うことが推奨されており、そういった記事も徐々に増えつつあります。特にこういった記事ではマスメディア……例えば新聞記者などよりはよっぽど専門知識に明るい執筆者も参加しており、無知に基づく誤解や誤謬という面ではマスメディアよりも信頼性が高いと言えるでしょう。
それに加えてマスメディアでは、記事に間違いがあった場合に訂正が行き届かないケースが多いので、その点に関して言えば、そういうシステム上の都合からもウィキペディアの方が有利かもしれません。
Re: (スコア:3, すばらしい洞察)
いいえ、それは違います。
Wikipediaで出典元として使えるのはマスメディアのみであり、マスメディア以外は単なる独自研究として扱われます。逆に言えば、マスメディアであるからこそ読者が記事の信憑性を確認する事ができるのです。
> 特に、自然科学系の事象を対象とした記事などでは、一次情報源として原著論文、二次情報源として学術総説や(大学で使うような)教科書などを使うことが推奨されており、そういった記事も徐々に増えつつあります。
それらもマスメディア
Re: (スコア:1)
たとえば、市町村の人口は市町村自身のウェブサイトに掲載されていて、
その検証は用意だし、十分に信頼できるソースです。
地方自治体はマスメディアなんですか?
それとも、インターネットそのものがマスメディアなんですか?
インターネット上の地方自治体公式サイトはマスメディアなんですか?
じゃあ、インターネット上の企業サイトはどうですか?
海は死にますか?
山は死にますか?
JASRACの方から来ますか?
Re: (スコア:2)
> その検証は用意だし、十分に信頼できるソースです。
そうですね。
> 地方自治体はマスメディアなんですか?
> それとも、インターネットそのものがマスメディアなんですか?
> インターネット上の地方自治体公式サイトはマスメディアなんですか?
WWWは十分にマスメディアと言って良いでしょう。
> じゃあ、インターネット上の企業サイトはどうですか?
マスメディアですね。
何か間違っていますか? (?_?)
Re: (スコア:1)
ものは、自治体の公式サイトなど www の一部分に過ぎない。Wikipedia の情報源として
適切でないものは、/. へのコメントを含めて無数にある。
nisiguti 氏の主張を、揚げ足を取られないように書き直すと上のようになると思う。
Re: (スコア:2)
仰っている事は全くその通りだと思いますが、元々私の主張したかった事とは少し違います。
Wikipediaの信頼の基礎は、記事の信憑性を読者が自分自身で検証できる仕組みを用意している事です。そのためには「出典元」を不特定多数の読者が容易に調べる事ができなければなりませんので、「出典元」は不特定多数に対して提供されている情報でなければなりません。
当然その「出典元」は(言葉の定義に関わらず)マスメディアを外す事は有り得ない訳ですから、マスメディアを否定する事は、そのマスメディアを信頼の基礎におくWikipediaも否定する事になります。
つまり「マスメディアよりWikipediaの方が信頼できる」というような主張は、論理的にまるで矛盾する話だよという事を指摘したかったのです。所謂「マスゴミ」が信頼できない事は全く同感ですが、それを「マスメディア」全般に広げて「信頼できない」というのは全くの暴論だと思います。
Re:ジャンルによる (スコア:1)
揚げ足を取るようで申し訳ないけれども、所謂「マスゴミ」という言葉によって
想起するものは人それぞれであって、同意とか同感ということにはそぐわない。
先ほど別のコメントで「週刊新潮」を非難したので、これに沿って補足しておくと、
私が今の時点で「マスゴミ」と呼んで構わないと考えているのはこの週刊誌に限られる。
さもなくば、いっさい「マスゴミ」という言葉を使わないという立場でも構わない。
「マスゴミ」という言葉を、「然るべき理由によってペナルティボックスに入れられた
マスメディア」という意味で使いましょう、というのが私の提案である。ならば、
マスメディアをペナルティボックスに入れる資格があるのは誰か、ということになる。
私の考えでは、それは「プロが編集するマスメディア」ということになる。たとえば
朝日新聞は、阪神支局襲撃事件の「手記」報道を検証することで、「週刊新潮」を
ペナルティボックスに入れてしまった。その週刊誌は最近編集長を交代させたが、
誤報の責任を取らせたのではないと言い張っているから、まだ解放される資格はない。
一方でブログや2chは一般には「プロが編集するマスメディア」ではないので、そもそも
不祥事を起こしたマスメディアをペナルティボックスに入れる資格がない。そいつらが
無闇と「マスゴミ」呼ばわりするのは、身の程を弁えない所業だと考えている。
Re:ジャンルによる (スコア:2)
確かにまとも批評とは到底言えない中傷が目に余ります。
ただ「プロが編集するマスメディア」だけが評価者として適切であるとはあまり思えません。
消費者の視点で商品の質を評価するのは「有るのが当然」という性質の物ですし、それはプロによる評価とは並存するものだと思います。
トピックに関連する話に戻すと、「Wikipediaは信頼できるがマスメディアは信頼できない」という単純な物ではなく、新聞社や放送局の「責任者の下でのプロ集団による情報発信」は可能な限り正確な情報を発信する物、Wikipediaの「出典元を用いた検証と衆人監視の仕組み」は誤りを直ちに修正する物として、両者は並存すべきものだと思うのです。
そして「マスゴミ」かどうかという評価にしても、マスコミやWikipediaの情報にしても、それらを鵜呑みにすべきでないのも同じ。そこに書かれた情報を吟味し、他人の評価ではなく自分自身による評価をしてから受け入れるか拒むか決めるべきだと思います。それが結果的に「マスゴミ」認定という評価だとしても、それは他人ではなく自分自身の言葉で説明する事ができるのなら、それで良いと思いますよ。
# まとまりがない文章ですみません。
Re:ジャンルによる (スコア:1)
ことマスメディアの評価に関しては、消費者の視点がプロのそれと並存するというのは空論でしょう。
私という消費者が週刊新潮はダメだと評価するとしても、その根拠は朝日新聞などの検証報道に
まったく依存しています。そうでない部分を一消費者が世間様にお示ししたとしても、批判に
耐えられるものではありません。
情報という商品は、鍋や釜や石鹸を売るのとはちょっと違います。消費者が自分自身で評価する
と言ったって、別の「プロが編集するマスメディア」の情報と突き合わせなければ、殆どの場合に
それは叶わないことなのです。
Re:ジャンルによる (スコア:2)
第三者の検証が評価の一つとして有効である事は認めます。しかしそれで検証できるのは、報道されている内容が事実に即しているか反しているかといった事であって、いわゆる「マスゴミ」批判の理由とは違うものだと思います。つまり「マスゴミ」かどうかという事とは違う別の評価軸だと思います。
とは言うものの、元トピックから大きく外れてしまっていますので、そろそろお開きにしてはどうでしょうか。A(^^;
Re:ジャンルによる (スコア:1)
「いわゆる『マスゴミ』批判の理由」について、それは報道内容が事実か否かとは違うと
断った上で、説明なしに暗黙裡に了解されるだろうと期待しているわけですか。
そりゃあ無理だろ、と思いますけどね。
たぶん「マスゴミ」なるマスメディア批判用語は、おのおの使う人が勝手に都合の良いものを
載せるための空っぽのコンテナみたいな言葉なんですよ。なにか中身のあることを主張したい
人にとっては、使い道のない言葉として定着しかかってるんでしょう。
Re:ジャンルによる (スコア:2)
> 断った上で、説明なしに暗黙裡に了解されるだろうと期待しているわけですか。
いや、そういう事では有りません。
例え誤報を流したとしてもそれが即「マスゴミ」と批判される訳ではないと思うんです。誤報であるという事を素直に認め、然るべき対応を取っていれば逆にそれが認められるというのもネットの一つの側面だと思います。
しかし過ちを決して認めない、認めたとしても「しぶしぶ」認めたというだけで対応に誠実さが認められないという事が繰り返されると、「マスゴミ」認定という事になると思います。
また報道する側自身の問題についてもそれ以外と同様の態度で報道しているのなら、「マスゴミ」と批判される事は少ないでしょう。しかし報道側に関係が無い事なら殊更針小棒大に報道するのに、報道側の問題は逆にあまり問題として取り上げないという態度では、「マスゴミ」認定という事になると思います。
思うに、報道という武器を誠実に使っている限りは問題はないが、それを報道側への利益誘導や逆に他者を不当に貶めるような事に使う事が繰り返される事に、批判の的が集中するのではないでしょうか。それは私も正論だろうと思いますが、それが高じて「正論原理主義」のような「マスゴミ」連呼を続ける輩も居る事は困った事だと思います。
> たぶん「マスゴミ」なるマスメディア批判用語は、おのおの使う人が勝手に都合の良いものを
載せるための空っぽのコンテナみたいな言葉なんですよ。なにか中身のあることを主張したい
人にとっては、使い道のない言葉として定着しかかってるんでしょう。
そうですね。確かにそういう人も多いと思います。
ただそういう人は、何故そう思うのかという事を論理的に説明を求めると、どこかで語られた他人の言葉を念仏のように繰り返すので、「ああ、この人は自分の言葉では語れないのだな」と判ります。