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KJ法の生みの親、文化人類学者の川喜田二郎氏死去」記事へのコメント

  • by oltio (3848) on 2009年07月10日 14時14分 (#1603012) 日記

    立花隆が「知のソフトウェア」で KJ 法を評して言った「頭の回転の鈍い人が、集団で物を考えるのには向いている」に私も同意しています。紙にわざわざ書き出してそれを並びかえるという作業をなんでわざわざしなければいけないのか、それがとうとう理解できなかった。

    が、発想法は人それぞれなので、KJ 法がいいという人がいることは、それはそれでまったくいいのですが、「KJ 法を GUI で実現しました」とか「この新インタフェース技術を KJ 法に応用しました」的な研究が世の中にはゴロゴロしていて、それがどう見ても KJ 法をさらに効率悪くしたものでしかないというのにはまいりました。しかもそいつら、そのツール結局自分達で使ってないんだ。なんというか、研究ネタに困ったら KJ 法を移植する、という文化が一部にはあるらしい。それだけ見ても、KJ 法のありがたみがわかるってもんだよね、とこれは行き過ぎた皮肉。多くの人が現に KJ 法は役に立つとしておりますから (e.g. 上野千鶴子)、世の中に大きな影響を与えた故人には、敬意を表します。

    #似たような位置づけにあるのが、「デザインパターン」。

    • by NOBAX (21937) on 2009年07月10日 21時13分 (#1603244)
      KJ法で一番役に立つのは、ホワイトボードとポストイットです
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    • 御意。 KJ法をコンピュータで行えるようにしました、なんて研究はあちこちで見ましたね。 っていうか、そういう卒論発表を聞いてで初めてKJ法というものがあると知りました。 KJ法を実装したっていう研究の中で、そもそもそのKJ法が本当に役にたつのかについては言及している研究はみたことありません。
      親コメント
    • まあ、同意。

      しかし、デザインパターンには、優秀な人が低能力な人のために費やす時間を削減してくれる
      (会話で、定石をいちいち説明する手間を省いてくれる)というすばらしい効果があります。

      親コメント
    • KJ法はどうだか知りませんが、建築の方のパターンは集団での思考の道具としては似たような特性でしょうね。どちらもあまり興味がないのでよく調べていませんが……。

      で、翻ってソフトウェアの方のパターンは、当たり前のノウハウを当たり前に共有するための記法です。もし「デザインパターンに書かれていることは当たり前で何も新しくない」という印象を持たれても、それが本来の姿です。パターンに書かれているのは「解法」ではなく「用法」なのですから、解法が斬新でないことを批判しても何にもならなかったり。

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      • 建築のパターンの方こそが、ソフトウェアのパターンのモデルだと聞いたことがあります。
        本質的な話ではないですが、歴史的には。

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        • # 死ぬほどオプトピですいません。

          都市計画という課題に対して、関わる人々の価値観や思いを、語彙(各パターン)の組み合わせによる物語として記述し構成する……ってコンセプトでやっているのが建築の方パターン。その形式だけを持ってきてノウハウ(ここでは「どういう状況で、どういう問題にどうアプローチするとうまくいく」という知識)の記述・共有に使っているのがソフトウェアのパターンです。

          元コメントでKJ法に似ていると書いたのは、建築のパターンのアプローチです。

          ただ両者は似ているようで結構違っていて、建築の方のパターンではプロジェクトに関わる人々がパターンを構築することで都市計画という"物語"を共有する、ということが目標で、そのプロジェクトで通用すれば良いので再利用はあまり考えていません。別プロジェクトではまた別のパターンが生み出されたりします。対してソフトウェアのパターンは、知識の記述と再利用に重点が置かれています。ソフトウェアの方では、さらに形式化を進めようと、UMLやその他の記法を使って厳密に表現するアプローチもあります。

          違いは記述形式にも現れていまして、建築の方のパターンは原則として散文形式(一部「*** (thereforeを意味します)」といった区切りやパターンの名前などの構造はあります)なのに対して、ソフトウェアのパターンの記述ははっきりと項目分けされているのが特徴です。もちろんBeckのアナリシスパターンのように建築のパターンに近い形式をとるなどの例外はあります。

          このようにパターンを考える人々の中でも立ち位置に結構な広がりがありまして、パターンを協働の道具立てと見なす立場を取る人から、単なる知識の記述手段と見なす人まで様々で、相手がどのような立場なのか知っておかないと話が混乱する原因になったりします(苦笑)。なお、「パターン言語」「生成的」「対称の破れ」といった用語を多用する場合は前者に属する方とみてよいと思います。

          親コメント
        • 親コメント含めて、本日発売になった江渡浩一郎著「パターン、Wiki、XP 〜時を超えた創造の原則」をぜひ読んでください。手元にまだ届いていないのですが江渡さんの普段の話の内容からして、多分その辺は詳しく書いてある筈です。

          おそらく、元となったアレグザンダーの「パターンランゲージ」(建築・都市設計におけるパターン)がどうして失敗したか、また「デザインパターン」がどのように「パターンランゲージ」を矮小化して解釈しているか、についても書いてあるんじゃないかと。

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          • 都市計画専攻です。

            おそらく、元となったアレグザンダーの「パターンランゲージ」(建築・都市設計におけるパターン)がどうして失敗したか、

            これは、江渡氏から聞かれた内容でしょうか。それともあなたのコメントでしょうか。

            パターンランゲージは、日本では幕張ベイタウン以降のUR物件、川越一番街や京都祇園町などでも使われて成功していると言えるかと思います。真鶴町でも導入されましたが、これは微妙な例です。イギリスではCABEの取組みがパターンランゲージに基づいていますし、アメリカのSeasideなどもその部類でしょう。「失敗した」というより、いま広まりつつある、というのが正しいのではないでしょうか。

            親コメント
            • 広まりつつあるなら結構なことですが、それでは何故普及が遅々としたのか、そしてアレグザンダーのコンセプトがそれらの事例で本当にすべて活かされているのかが焦点となるでしょう。

              パターンランゲージのコンセプトは、単に都市計画のデザインカタログではなく、施主と建築家との対話を、設計段階から施工を終えるまでずっと維持すること、ワークショップの併設、建築許認可のあり方についてなど、細々としたことまで提案されています。

              しかし、真鶴町の事例なんかはまさしく、「心地よい都市のデザインカタログ」としてしか使われていなかったと認識しています。日本だと他に小規模にアレグザンダーの弟子達が採用している以外に、アレグザンダーのコンセプトをフルに活用した例で、これというものを聞きません。(いや、耳目を集めないくらいに普及しているのか? この辺は当方のリサーチ不足)

              つまり、パターンランゲージの価値は、デザインカタログとしてのところにあった、というのが、30年経た現在の結論なんじゃないかなぁと思っている訳です。何人かの建築家の方とお話してみましたが、だいたいそんなところに落ち着くんですよね。他の部分、たとえば今でいうアジャイルプロセスに近い、漸次的改善については、導入できている例は少ないでしょう。中銀カプセルタワーが失敗したのと同様、コンセプトととしてはすごく魅力的なんだけど、現在の社会の実像にあった実装がとても難しいんではないかなぁ。(このへん勉強したのがいかんせん昔なので、最近の事例を知りません。「そんなことはない!!」ということであればとっても嬉しいので、ぜひぜひ参考文献など教えてください)

              もっとも、そもそも本当にユーザーは自分で自分の住む家を設計するべきなのか、設計したいと思っているのか、そこからが疑問なんですけどね。これはデザインパターンにも当てはまる疑問なんですが、ユーザーが正しい解を知っているという前提は疑ってかかるべきではないでしょうか。ドン・ノーマンがユーザー中心デザインの舵を切らざるをえなかったことを認めたのも、そのあたりがきっかけでしょう。

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              • by Anonymous Coward
                あなた> おそらく、元となったアレグザンダーの「パターンランゲージ」(建築・都市設計におけるパターン)がどうして失敗したか、
                uguisu> これは、江渡氏から聞かれた内容でしょうか。それともあなたのコメントでしょうか。

                つまらないことを長々と書く前に、はぐらかさずにきちんと答えて欲しいものです。
              • by Anonymous Coward

                これはあなたの意見ですよね?だいたいわかりました。

                つまり、パターンランゲージの価値は、デザインカタログとしてのところにあった、というのが、30年経た現在の結論なんじゃないかなぁと思っている訳です。何人かの建築家の方とお話してみましたが、だいたいそんなところに落ち着くんですよね。
                パターンランゲージの本質は、建築の専門家以外の人に言語をもたらす、というものですから、建築家には評判はよくないんですよ。都市計画の観点からすると、コルビュジエ大好きな建築家に対抗する手段としてパターンランゲージがある訳ですから。

                パターンランゲージが流行って

              • あ、なぜかACになってしまいましたが、上は私の書き込みです。
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              • by Anonymous Coward
                前の投稿もですが、引用部がわかりづらくなっています。
                スペースではなく、">"などで引用部をインデントしてはいかがでしょうか。
    • by Anonymous Coward on 2009年07月10日 15時00分 (#1603046)

      >紙にわざわざ書き出してそれを並びかえるという作業をなんでわざわざしなければいけないのか

      みんなでワイワイやると楽しいよ。
      それに、2段階であることが、マインドマップよりも優れている。
      マインドマップはいったん線引いちゃうとその線が前提化して誰もがなかなか変えづらい。
      発想が狭まってしまうんだよね。

      # 私もたれコメと同じように、入社時にQCサークルで学んだ口です。ご冥福をお祈りします。
      # 当時の会社からもらった「発想法」の本はまだ本棚に残ってます。

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    • KJ法にしてもマインドマップにしても、思考を並列に表記できるということが、多くの人にとって役に立つと考えられているポイントなのだと思います。

      言語による思考は時系列に沿った順序の呪縛からは逃れることができません。文章もしかり。複数の人が話し合う上で、会話をベースにするとそのことが意外とネックになるのだけれど、KJ法などで可視化することが、有効なのだと思いました。

      ----
      頭の回転の鈍い人ですが故人に敬意を表してID
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      • by Anonymous Coward

        >言語による思考は時系列に沿った順序の呪縛からは逃れることができません。

        言語による呪縛は確かにありますよね。極端に依存してる例として、言葉にして話しながらでないと考えをまとめられない人もいますし。
        言葉はコミュニケーションのツールとして重要ですが、思考のツールとしては必ずしも優れているわけではなく、足かせになる面もあると思います。

        たとえばCPUの動作を頭の中でエミュレーションするとき、日本語や英語で思考すると非常にやりにくいので、イメージや数式で思考するのが普通だと思いますし(私の周囲だけという可能性もあるけど)、慣れると分岐先も並列に追いかけられるようになります(頭の回転の速さに関わりなく…ちなみに私は遅いです)。
        ただ、それも時系列に沿った思考なので、因果律から逃れられないのは言葉による思考と同様ですが。
        でもこんな話をすると言葉を使わずに物を考えるなんて無理だ錯覚だという人もいます。

        言語にスポイルされない思考法という物がもっと研究されてもいいのではないかと思うのですが。

    • そもそも立花隆を評価してないから、その「KJ 法評価」は信じられないな。

      --
      the.ACount
      親コメント
    • by Anonymous Coward

      >、「KJ 法を GUI で実現しました」とか「この新インタフェース技術を KJ 法に応用しました」的な研究が世の中にはゴロゴロしていて、それがどう見ても KJ 法をさらに効率悪くしたものでしかないというのにはまいりました。

      別に擁護するわけではないですが、研究に困ったら○○に応用なんてどこでもある現象だと思いますし、
      そういうのも(特に学生さんにとっては)立派な研究だと思いますがねえ。
      oltioさんは学生時分からよほど立派な研究をなさってるんでしょうね。素晴らしいことです。

      • by Anonymous Coward

        別ACですが,同意しかねます.

        そのような研究も,例えば卒業研究として行うなら学生にとって無駄ではないでしょう.
        しかし,教育的観点と,研究成果の有用性を評価する観点は別です.

        「立派な研究」をした人でなければ他人の研究を評価すべきでないという意見も,
        多人数で検証を行うことが前提である自然科学の手法に反しています.
        否定的な意見を言われたからと言って,研究の価値が無くなるわけではありません.
        価値が最も下がるのは,誰からも相手にされなかった場合です.

        # 卒論発表の場などで,発表者がボロボロになるまで厳しい意見を言うのが正しいと言っているわけではありません.
        # 念のため.

        • by Anonymous Coward

          自分もたいしたことできてないのに
          人にだけ立派なことを求めるのはどうかとおもうってことですよ。
          #そんな暇あるなら自分が立派になれ

          • by Anonymous Coward
            > 自分もたいしたことできてないのに
            > 人にだけ立派なことを求めるのはどうかとおもうってことですよ。

            お前は阿呆か。

            自分ができないから恥を忍んで他人に求めるのじゃ。そうでなければ税金から文教予算を出す意味がない。
            それが立派ではないが合理的な態度というもの。
            恥を忍んだ反動で偉そうになるのも自然の摂理である。
          • by Anonymous Coward
            互いに「立派なことを求める」のが自然科学における真理探求の方法なんです.

            研究成果は「立派な」ものも十把一絡げの物も,発表された時点では区別がつきません.
            (研究者や既存研究との連続性からある程度の予測は可能ですが,予測でしかありません)
            批判に晒し,生き残ったものを選び取ることが,本当に重要な研究成果を選び出すための唯一の方法なのです.

            誰も真似できない(立派な)事が出来るのは,研究者の中のほんの一握りの人達です.
            大多数の研究者は,それを検証したり,応用を探ったりする作業を行なっており,その活動には意味があります.
            なぜならば,提案されたアイデアの有効性を判断することは,画期的なアイデアを考案することよりも簡単ですから.

            「たいしたことできてない」人は他者の研究成果を批判するべきでないとしたら,自然科学は立ち行きません.

一つのことを行い、またそれをうまくやるプログラムを書け -- Malcolm Douglas McIlroy

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