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何故か指摘されていないようだが、ドイツなどは「死生学」 [wikipedia.org]として小学校の早い段階から死についての教育を行っている。最近日本でもこの死生学についてグローバルCOEに採択 [u-tokyo.ac.jp]されたりと、研究が進んできている。このような成果を取り込み、 死というものに早くから接し、自分や周りの人間にも死ぬ時が来るということを十分認識して生きていたほうが、人生に絶望したとき、愛する人を失ったとき、自死という極端な選択肢をとらずに済むのではないか、とは思う。
システマティックな教育もある程度可能だろう。 すでに出ているし行われているけど、みんなでウサギを飼うとかすればそのうち死ぬだろうから「死」に接せさせることはできるだろう。他には何か本を読ませるとかやり方はあると思う。漫画でも例えば手塚治虫「火の鳥・鳳凰編」とか、アニメだったら「電脳コイル」とか最近の「マイマイ新子」もよかったし、文学だったら谷崎潤一郎とか福永武彦とか夏目漱石「こころ」とか、芥川龍之介「地獄変」とか、死を取り扱った作品はたくさんあるから(というか芸術を形作る衝動そのものといってもいいかもしれない)、きっかけを作ること自体はそんなに難しくはないと思う。
ただそこから先に各個人が考えるべき領域があるのは確かだから、「死とは何か」「なぜ私は死ぬのか」「翻って生きるとはどういうことか」というような問題に安易に教師が一律な解答を与えるのは避けるべきと思う。そういう意味で、死の教育について、大量一括方式に限界があるのはその通りだろう。でもそのような機会が全く無いのとあるのとではまた違うと思う。
結論としては、教育現場に「死」について考える機会をもっと設けたほうがよいと思う。ただ、教師の哲学的力量が問われるのは確かで、 「先生、なぜ人は死ぬのでしょう?生きる意味とはあるのでしょうか?」というような生徒の質問に、ごまかさずに宗教にならずに答えるのは難しい。そこが問題になると思う。
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吾輩はリファレンスである。名前はまだ無い -- perlの中の人
タナトス・エロス (スコア:2)
何故か指摘されていないようだが、ドイツなどは「死生学」 [wikipedia.org]として小学校の早い段階から死についての教育を行っている。最近日本でもこの死生学についてグローバルCOEに採択 [u-tokyo.ac.jp]されたりと、研究が進んできている。このような成果を取り込み、 死というものに早くから接し、自分や周りの人間にも死ぬ時が来るということを十分認識して生きていたほうが、人生に絶望したとき、愛する人を失ったとき、自死という極端な選択肢をとらずに済むのではないか、とは思う。
システマティックな教育もある程度可能だろう。 すでに出ているし行われているけど、みんなでウサギを飼うとかすればそのうち死ぬだろうから「死」に接せさせることはできるだろう。他には何か本を読ませるとかやり方はあると思う。漫画でも例えば手塚治虫「火の鳥・鳳凰編」とか、アニメだったら「電脳コイル」とか最近の「マイマイ新子」もよかったし、文学だったら谷崎潤一郎とか福永武彦とか夏目漱石「こころ」とか、芥川龍之介「地獄変」とか、死を取り扱った作品はたくさんあるから(というか芸術を形作る衝動そのものといってもいいかもしれない)、きっかけを作ること自体はそんなに難しくはないと思う。
ただそこから先に各個人が考えるべき領域があるのは確かだから、「死とは何か」「なぜ私は死ぬのか」「翻って生きるとはどういうことか」というような問題に安易に教師が一律な解答を与えるのは避けるべきと思う。そういう意味で、死の教育について、大量一括方式に限界があるのはその通りだろう。でもそのような機会が全く無いのとあるのとではまた違うと思う。
結論としては、教育現場に「死」について考える機会をもっと設けたほうがよいと思う。ただ、教師の哲学的力量が問われるのは確かで、 「先生、なぜ人は死ぬのでしょう?生きる意味とはあるのでしょうか?」というような生徒の質問に、ごまかさずに宗教にならずに答えるのは難しい。そこが問題になると思う。