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なんか「人材を消耗品とみない」を「民主主義」と結びつけるのか気持ち悪い。非民主主義でも人材育成を重視した権力なんて昔からあったじゃないか。
本来、民主主義だと「消耗品扱いされる人」の意見も、政策に反映され易い。というだけのことです。自分や家族が消耗品にされそうな場合、民主国家だと、選挙とか言論とかで、反対できます。
非民主的とは、一般国民の意見を聞かなくても(政策決定に参加させなくても)許されるという体制ですから人を消耗品にする政策を、消耗品にされる側から、阻止し難い訳です。
ということで、一種の原理的、定義的なことですから、探せば例外は色々見つかるでしょうが、民主主義は人を消耗品扱いし難い体制です。
でも、リンク先の記事で悪い例とされている「ナチ」政権って、
「一度やらせてみてください! 」っていう 2年前に日本で聞いたことあるスローガンで
WWII前で一番民権的な制度のワイマール共和国で、法にのとって政権をとったのがナチですよねー
制度としての民主主義は、最低条件的な意味はあっても、民主主義であれさえいれば問題解決、みたいな元記事みたいな論点はやっぱり気持ち悪い
それは、「民主的手続きに従って、民主的制度を廃止することは可能か?」という話になりますな。立法手続きの技術論としてであれば、それは「可能」ということになります。憲法だって手続きを踏めば変えられるわけだから。ワイマール時代のドイツ人はそう考えた。
しかし、世の中にはそう考えない人もいる。たとえば、「自然権」という考え方がある。これは、キリスト教の神様から人間に与えられた権利ということになっていて、神様ではない人間どもの作った法律なんぞでは奪えない、ということになる。
でも、それは宗教的信念でしかないわけで……キリスト教の神様はそう言ったかもしれないけれど、イスラム教の神様はそんなこと言ってないぞ、とか言い出すと宗教戦争になるのでした。
もちろん日本人にはそんな宗教的信念なんぞないし、共産中国は宗教なんぞ否定するし……ねえ。一方アメリカ人は、政府が腐ったときのために国民に革命を起こす権利が必要だ、とかいって武器所有を正当化するのでした。いやはや。
>ということで、一種の原理的、定義的なことですから、探せば例外は色々見つかるでしょうが、民主主義は人を消耗品扱いし難い体制です。
もし、非民主主義で、消耗品扱いしてなければ、「一般国民の意見を聞かない」のでそのままだろうし、消耗品扱いしていれば「一般国民の意見を聞かない」のでそのままだろう。民主主義においては、消耗品扱いでも高い価格付けなら喜んで受け入れたりもするので、商法品扱いにいくのも、そう難しいことではない。ここで問題とすべきは民主制といった政治体制ではなくて、資本主義という経済体制についてを問題にすべきではないのか?と思うんだ。そもそも消耗品・耐久品(資産)といった考え方は、経済において重要で、それについてを決定するのは、政治体制というより経済体制なのだからね。
資本主義=お金を前提としてそれを目的とする=お金に収斂する=あるものを消費財消耗品とするか、耐久財資産品目とするかがわかれるというのが前提。そして、金がかかり、いつでも取り替えられて、老朽化しやすい(たとえば新技術に追いつかない技術屋があるとか、他に転用できないのができるとか)だと、消耗品扱いもむべなるかな、と思う。
金のために敢えて消耗品になるという選択肢は、資本主義だけかも知れませんが、旧ソビエトや、市場経済を取り入れる以前の中国でも、本人の意思に係わりなく人は消耗品でした。自爆テロの場合、残された家族へのテロ組織から援助という対価が大きいですが、宗教や思想の力も大きく、非常に中世的です。
権力で強制するにせよ、思想や宗教で納得させるにせよ、近代の民主国家以前は世界の何処でも、人を消耗品として扱うことは珍しくなかったはずです。
民主主義でも、人を消耗品扱いするのが、難くなるだけで、それこそ、例えば、もっと大金が必要だとか、上手に騙す必要があるとか、するものの残ってゆくでしょうね。
資本主義と言えば、上場企業に対して、短期的な見返りを求める投資家が増えている(あるいはその声が大きくなっている)のは、大問題ですね。企業もそこに係わる様々人間(顧客も従業員)も、すべて消耗品として扱って、持続的な事業を考慮していない。非常に大規模な焼き畑みたいなもので、さらに金を集めている。高度化した資本主義の大きな弊害だと思いますが、今の処、私も、よい対策を知りません。
>市場経済を取り入れる以前の中国でも、本人の意思に係わりなく人は消耗品でした。
それは当然だろうね。しかし、消耗品という概念ではなくて、単に使う道具でしかなかったわけだ。使ったら捨てる壊れる道具といった位置づけであって、消耗品についてまわるコストとかいった概念も薄かったわけ。
>民主主義でも、人を消耗品扱いするのが、難くなるだけ
資本主義においては、逆に消耗品として扱いやすくなるわけなんだな。つまり、お金が絡む場合、人を消耗品とするかどうかは、再利用性の高さとかいった面でしか判断されないってことになっちゃう。
>上場企業に対して、短期的な見返りを求める投資家が増えて>いる(あるいはその声が大きくなっている)のは、大問題ですね。
それは資本主義の当然の帰結なので、それを今更問題にするのは、すでに遅いと思いますよ。
>非常に大規模な焼き畑みたいなもので、さらに金を集めている。
企業にしろ、耐久消費財の維持にはお金がかかる。そして、資本主義においては、利得に較べてお金がかからないことが前提になっているわけで、資本主義とはそういうものというのは、結構、昔から指摘されていたことでしたよ。それについて、どう折り合いをつけるのかは、消耗品か耐久品のどちらかであるか?は関係は少ないと思いますよ。
>私も、よい対策を知りません。
消費材とすることで資本主義がよくまわるなら、消費品になるし、耐久品であればよく回るのであれば耐久材になるだけでしょう。そして、そのどちらであれ、資本主義との付き合い方に差はありません。
そうですね、同意します。継続可能な(企業、経済、社会 etc.)を善しとするのは、資本主義とは、別の主義や思想ですね。
>継続可能な(企業、経済、社会 etc.)を善しとするのは、資本主義とは、>別の主義や思想ですね。
そうなんですよね。継続することで利得があるなら継続する。どこぞの資本主義のそのももの権化というか、ファンドなんか、先細りやこれ以上稼ぎを増やせないと判断したら、そこで会社身売りやら精算やら現在の不採算部門売却やら採算部門でも「投資の比率に見合わないから」売却とかね。
「人は城、人は石垣、人は堀」..うん、城だろうが石垣だろうが堀だろうが、金になるかどうか?なんだな。
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計算機科学者とは、壊れていないものを修理する人々のことである
人は城、人は石垣、人は堀 (スコア:5, 興味深い)
なんか「人材を消耗品とみない」を「民主主義」と結びつけるのか気持ち悪い。
非民主主義でも人材育成を重視した権力なんて昔からあったじゃないか。
Re:人は城、人は石垣、人は堀 (スコア:3, すばらしい洞察)
本来、民主主義だと「消耗品扱いされる人」の意見も、政策に反映され易い。というだけのことです。
自分や家族が消耗品にされそうな場合、民主国家だと、選挙とか言論とかで、反対できます。
非民主的とは、一般国民の意見を聞かなくても(政策決定に参加させなくても)許されるという体制ですから
人を消耗品にする政策を、消耗品にされる側から、阻止し難い訳です。
ということで、一種の原理的、定義的なことですから、探せば例外は色々見つかるでしょうが、民主主義は
人を消耗品扱いし難い体制です。
Re:人は城、人は石垣、人は堀 (スコア:1, 興味深い)
でも、リンク先の記事で悪い例とされている「ナチ」政権って、
「一度やらせてみてください! 」っていう
2年前に日本で聞いたことあるスローガンで
WWII前で一番民権的な制度のワイマール共和国で、法にのとって政権をとったのがナチですよねー
制度としての民主主義は、最低条件的な意味はあっても、民主主義であれさえいれば問題解決、みたいな元記事みたいな論点はやっぱり気持ち悪い
Re:人は城、人は石垣、人は堀 (スコア:1)
それは、「民主的手続きに従って、民主的制度を廃止することは可能か?」という話になりますな。立法手続きの技術論としてであれば、それは「可能」ということになります。憲法だって手続きを踏めば変えられるわけだから。ワイマール時代のドイツ人はそう考えた。
しかし、世の中にはそう考えない人もいる。たとえば、「自然権」という考え方がある。これは、キリスト教の神様から人間に与えられた権利ということになっていて、神様ではない人間どもの作った法律なんぞでは奪えない、ということになる。
でも、それは宗教的信念でしかないわけで……キリスト教の神様はそう言ったかもしれないけれど、イスラム教の神様はそんなこと言ってないぞ、とか言い出すと宗教戦争になるのでした。
もちろん日本人にはそんな宗教的信念なんぞないし、共産中国は宗教なんぞ否定するし……ねえ。一方アメリカ人は、政府が腐ったときのために国民に革命を起こす権利が必要だ、とかいって武器所有を正当化するのでした。いやはや。
Re:人は城、人は石垣、人は堀 (スコア:1)
>ということで、一種の原理的、定義的なことですから、探せば例外は色々見つかるでしょうが、民主主義は
人を消耗品扱いし難い体制です。
もし、非民主主義で、消耗品扱いしてなければ、「一般国民の意見を聞かない」のでそのままだろうし、
消耗品扱いしていれば「一般国民の意見を聞かない」のでそのままだろう。
民主主義においては、消耗品扱いでも高い価格付けなら喜んで受け入れたりもするので、
商法品扱いにいくのも、そう難しいことではない。
ここで問題とすべきは民主制といった政治体制ではなくて、資本主義という経済体制についてを
問題にすべきではないのか?と思うんだ。そもそも消耗品・耐久品(資産)といった考え方は、
経済において重要で、それについてを決定するのは、政治体制というより経済体制なのだからね。
資本主義=お金を前提としてそれを目的とする=お金に収斂する=あるものを消費財消耗品と
するか、耐久財資産品目とするかがわかれるというのが前提。
そして、金がかかり、いつでも取り替えられて、老朽化しやすい(たとえば新技術に追いつかない
技術屋があるとか、他に転用できないのができるとか)だと、消耗品扱いもむべなるかな、と思う。
Re:人は城、人は石垣、人は堀 (スコア:1)
金のために敢えて消耗品になるという選択肢は、資本主義だけかも知れませんが、
旧ソビエトや、市場経済を取り入れる以前の中国でも、本人の意思に係わりなく
人は消耗品でした。自爆テロの場合、残された家族へのテロ組織から援助という
対価が大きいですが、宗教や思想の力も大きく、非常に中世的です。
権力で強制するにせよ、思想や宗教で納得させるにせよ、近代の民主国家以前は
世界の何処でも、人を消耗品として扱うことは珍しくなかったはずです。
民主主義でも、人を消耗品扱いするのが、難くなるだけで、それこそ、例えば、
もっと大金が必要だとか、上手に騙す必要があるとか、するものの残ってゆく
でしょうね。
資本主義と言えば、上場企業に対して、短期的な見返りを求める投資家が増えて
いる(あるいはその声が大きくなっている)のは、大問題ですね。
企業もそこに係わる様々人間(顧客も従業員)も、すべて消耗品として扱って、
持続的な事業を考慮していない。非常に大規模な焼き畑みたいなもので、さらに
金を集めている。高度化した資本主義の大きな弊害だと思いますが、今の処、
私も、よい対策を知りません。
Re:人は城、人は石垣、人は堀 (スコア:1)
>市場経済を取り入れる以前の中国でも、本人の意思に係わりなく人は消耗品でした。
それは当然だろうね。
しかし、消耗品という概念ではなくて、単に使う道具でしかなかったわけだ。
使ったら捨てる壊れる道具といった位置づけであって、消耗品についてまわる
コストとかいった概念も薄かったわけ。
>民主主義でも、人を消耗品扱いするのが、難くなるだけ
資本主義においては、逆に消耗品として扱いやすくなるわけなんだな。
つまり、お金が絡む場合、人を消耗品とするかどうかは、再利用性の高さ
とかいった面でしか判断されないってことになっちゃう。
>上場企業に対して、短期的な見返りを求める投資家が増えて
>いる(あるいはその声が大きくなっている)のは、大問題ですね。
それは資本主義の当然の帰結なので、それを今更問題にするのは、
すでに遅いと思いますよ。
>非常に大規模な焼き畑みたいなもので、さらに金を集めている。
企業にしろ、耐久消費財の維持にはお金がかかる。
そして、資本主義においては、利得に較べてお金がかからないことが
前提になっているわけで、資本主義とはそういうものというのは、
結構、昔から指摘されていたことでしたよ。
それについて、どう折り合いをつけるのかは、消耗品か耐久品の
どちらかであるか?は関係は少ないと思いますよ。
>私も、よい対策を知りません。
消費材とすることで資本主義がよくまわるなら、消費品になるし、
耐久品であればよく回るのであれば耐久材になるだけでしょう。
そして、そのどちらであれ、資本主義との付き合い方に差は
ありません。
Re:人は城、人は石垣、人は堀 (スコア:1)
そうですね、同意します。
継続可能な(企業、経済、社会 etc.)を善しとするのは、資本主義とは、
別の主義や思想ですね。
Re:人は城、人は石垣、人は堀 (スコア:1)
>継続可能な(企業、経済、社会 etc.)を善しとするのは、資本主義とは、
>別の主義や思想ですね。
そうなんですよね。
継続することで利得があるなら継続する。
どこぞの資本主義のそのももの権化というか、ファンドなんか、
先細りやこれ以上稼ぎを増やせないと判断したら、そこで
会社身売りやら精算やら現在の不採算部門売却やら
採算部門でも「投資の比率に見合わないから」売却
とかね。
「人は城、人は石垣、人は堀」..うん、城だろうが
石垣だろうが堀だろうが、金になるかどうか?なんだな。