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現在の工場的畜産は、倫理に悖るかも知れないが、それは動物の個体に対する動物倫理の尺度。
今度の話しは、個体を殺したうえでなお生きつづける器官群を利用した器官培養であり、生命の尊厳を考える生命倫理の尺度。 生命を頂くという感覚を共有する人の倫理観においては、このことは、生命に対する冒涜であると言える。(自称ベジタリアンの倫理観では問題にならないのでしょうけれど)
一方、細胞や組織のレベルでの培養はどうか。細胞培養、組織培養のレベルでの生命現象の活用について否定的にとらえる倫理観も在り得るが、それは極めて少数派の倫理観であろう。
では、生命倫理において、生命を頂くという感覚を共有する人の倫理観の位置はどうか。そのような人はこの世に少なからず在ろうとも残念ながら多数派ではない。
今まで生きていた個体を殺し、血が流れ、食肉に加工することに嫌悪感を覚える人が多いのはよいとして、しかしながら、脳死してれば苦痛を与えないとし、生ける死体を産業化することに疑問を呈さぬ倫理観が多数派であってほしくないものである。
他人の価値観に口を挟みたがる奴はいますぐ首を吊ったほうがいいよ
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私はプログラマです。1040 formに私の職業としてそう書いています -- Ken Thompson
嫌悪感は、生命への冒涜に対して (スコア:1)
現在の工場的畜産は、倫理に悖るかも知れないが、それは動物の個体に対する動物倫理の尺度。
今度の話しは、個体を殺したうえでなお生きつづける器官群を利用した器官培養であり、生命の尊厳を考える生命倫理の尺度。 生命を頂くという感覚を共有する人の倫理観においては、このことは、生命に対する冒涜であると言える。(自称ベジタリアンの倫理観では問題にならないのでしょうけれど)
一方、細胞や組織のレベルでの培養はどうか。細胞培養、組織培養のレベルでの生命現象の活用について否定的にとらえる倫理観も在り得るが、それは極めて少数派の倫理観であろう。
では、生命倫理において、生命を頂くという感覚を共有する人の倫理観の位置はどうか。そのような人はこの世に少なからず在ろうとも残念ながら多数派ではない。
今まで生きていた個体を殺し、血が流れ、食肉に加工することに嫌悪感を覚える人が多いのはよいとして、しかしながら、脳死してれば苦痛を与えないとし、生ける死体を産業化することに疑問を呈さぬ倫理観が多数派であってほしくないものである。
Re: (スコア:0)
他人の価値観に口を挟みたがる奴はいますぐ首を吊ったほうがいいよ