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まず桃に道徳を教えてもらうという発想自体に問題があります。 もしこの実験で逆に「ありがとう」の方が早く腐ったら、 我々は「ありがとう」という言葉を使うべきではないのでしょうか?
「ありがとう」「ばかやろう」というような言葉が、全く文脈とは 独立に「悪い言葉」「いい言葉」に分けられるという発想にも問題があると思います。 嫌味で相手の気分を悪くさせる「ありがとう」、 また愛情を込めているからこそ発する「ばかやろう」という言葉も、実際にはあると思います。 このへんは我々の言霊思想というか、忌み言葉のような習慣にも現れているので、 実験者やその賛同者だけの問題でもないのですが、 とにかく、言葉とその意味は文脈で判断するべきもので、 それらと切り離して道徳を論じることはかなり無理があると思います。
百歩譲って「ありがとう」と書いた紙から彼らの主張する何らかの「波動」が発していて 植物を腐敗させる微生物の活動を抑制していたとして、それは本当に 我々の体によいものなのでしょうか? 微生物にとって毒ならば、人間にとっても毒なのではないでしょうか? 逆に「ばかやろう」と書いた紙から微生物の活動を促進するような「波動」が発せられていたとして、 それはうまく使えば発酵を促進させることに使えるはずです。 そうすると、納豆やヨーグルト、日本酒、ウイスキーやワインの生産現場では、 みんな喜んでそこら中に「ばかやろう」と書いてまわるはずです。 これは「ばかやろう」が悪い言葉という発想には矛盾しませんか?
サンタクロースの話との違いは、(科学実験を装っていることにも問題があるのですが) サンタクロースは人間であり、桃は植物であるという点だと私は思います。 桃が擬人化され、フィクションとして示されるならば問題ありませんが、 植物としての桃が直接我々の言葉を理解し、道徳を教えてくれるという発想は、 結局子供が人の道としての道徳を考える機会を奪うと思います。 我々一人ひとりの中にある、良心や理性に対する考察を、桃に任せてしまってよいという 思想は、それはもう教育ではなく、ある種の政治活動であり、悪い意味での宗教活動だと思います。
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UNIXはシンプルである。必要なのはそのシンプルさを理解する素質だけである -- Dennis Ritchie
道徳教育としては (スコア:-1, フレームのもと)
気を利かせた母親が子供がいない時間帯だけ冷蔵庫に入れてたとかそんなオチでしょうか。
いい子にしているとプレゼントをくれるサンタクロースみたいなもんですよね。
# 一方でFBでの大人たちのコメント欄が怖すぎる。みなさんネタですよね?ね?
Re:道徳教育としては (スコア:5, すばらしい洞察)
まず桃に道徳を教えてもらうという発想自体に問題があります。 もしこの実験で逆に「ありがとう」の方が早く腐ったら、 我々は「ありがとう」という言葉を使うべきではないのでしょうか?
「ありがとう」「ばかやろう」というような言葉が、全く文脈とは 独立に「悪い言葉」「いい言葉」に分けられるという発想にも問題があると思います。 嫌味で相手の気分を悪くさせる「ありがとう」、 また愛情を込めているからこそ発する「ばかやろう」という言葉も、実際にはあると思います。 このへんは我々の言霊思想というか、忌み言葉のような習慣にも現れているので、 実験者やその賛同者だけの問題でもないのですが、 とにかく、言葉とその意味は文脈で判断するべきもので、 それらと切り離して道徳を論じることはかなり無理があると思います。
百歩譲って「ありがとう」と書いた紙から彼らの主張する何らかの「波動」が発していて 植物を腐敗させる微生物の活動を抑制していたとして、それは本当に 我々の体によいものなのでしょうか? 微生物にとって毒ならば、人間にとっても毒なのではないでしょうか? 逆に「ばかやろう」と書いた紙から微生物の活動を促進するような「波動」が発せられていたとして、 それはうまく使えば発酵を促進させることに使えるはずです。 そうすると、納豆やヨーグルト、日本酒、ウイスキーやワインの生産現場では、 みんな喜んでそこら中に「ばかやろう」と書いてまわるはずです。 これは「ばかやろう」が悪い言葉という発想には矛盾しませんか?
サンタクロースの話との違いは、(科学実験を装っていることにも問題があるのですが) サンタクロースは人間であり、桃は植物であるという点だと私は思います。 桃が擬人化され、フィクションとして示されるならば問題ありませんが、 植物としての桃が直接我々の言葉を理解し、道徳を教えてくれるという発想は、 結局子供が人の道としての道徳を考える機会を奪うと思います。 我々一人ひとりの中にある、良心や理性に対する考察を、桃に任せてしまってよいという 思想は、それはもう教育ではなく、ある種の政治活動であり、悪い意味での宗教活動だと思います。