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例えば、新しい理論や技術を生み出す土壌というのを考えると、 0. 知の吸収と創造 他の人も述べているとおり、基礎的な部分が無いとどうしようもない。あと、自分でトピックを探して本を読めるだけの忍耐と国語力(英語力の方が有用かな)。あと、教科書丸暗記だけじゃなくて、答えを自分で考え出せる能力。
1. 知の多様性と寛容 あと前提は現時点で金にならない分野への寛容と、色んなタイプの人間がいることへの寛容。全員詰め込みタイプとか全員独創(独走)タイプとか多様性が無い土壌ってのはちょっとした時代や環境の変化に適応できない。
2. 知の協調と寛容 色んなタイプの人間がいる時に、それぞれの知をいかに協調させるか、その方法を欠いてると意味がない。競争と点数だけが全てではなくて、知を他人に説明し、また他人の知を受け入れたり時には議論しあえる能力が必要。
3. 知の工学 合成された知をいかに現実社会に応用させるかという工学的な視点も大切。もっと言うと、その技術を社会に受け入れられる形で分かりやすく提供してビジネスにしていく野心とそれを受け入れられる環境。
僕は専門家じゃないので、素人考えですが、多様性への寛容などは必須だと思います。で、行き着くのは個という概念の形成になって、そういうことをすると困る人も多いのかもしれません。 # 社員が肩書きで呼び合っているうちは知も個も無いと思うのは僕だけかな。
で、どうするの?って思うんですが、やる事多すぎて「ゆとり」とか言ってる暇無いような気がするんだよな。毎日塾行って、週末も古代日本史を意味も無く暗記したり、数学ばっかりやってて、学力に一番大切な好奇心ってのを育む暇も無いってのはアホすぎるとしか言いようがないけどね。
日本人に限った話なのかどうかは知らないけど、 学校教育には妙に貧乏性なところがあって、 カリキュラムがどうしても「時間があるならあれもこれも」になってしまう。 小学校、中学校、高校、大学と、ずっとそんな感じだったような。
ゆとりが足りないことも確かなんだけど、 それ以上に「勉強したい」と思わせるモチベーションを用意することや、 「勉強したい」と思ったタイミングで、とことん勉強できるようにサポートするような体制が 今の教育には決定的に足りないんだと思う。
繰りかえされる定期試験で落ちこぼれ扱いされないための勉強では、 みんな勉強嫌いになってもしょうがないでしょう。 たとえ、時間的余裕があったとしても。
そういえば、小学校から高校までの間で、 ちゃんと勉強の仕方をしつけてもらった事なんて一度もないなあ。 大学受験までは、それこそ徒手空拳だったような気がする。
勉強するための土壌が痩せこけている、というのがもしかすると現状なのかも知れない。
> 日本人に限った話なのかどうかは知らないけど、 > 学校教育には妙に貧乏性なところがあって、 > カリキュラムがどうしても「時間があるならあれもこれも」になってしまう。 > 小学校、中学校、高校、大学と、ずっとそんな感じだったような。
貧乏性ってのはまさにその通りだけど、「あれもこれも」ってのは疑問。昔から同じような事を画一的なつまらない形で教えてないですか、日本の学校って。 「ゆとり」とか「モチベーション」以前に勉強することそのものの目的とか楽しさってのを教えてくれない。偏差値と点数という薄っぺらな画一化があるだけ。成績とかテストなんてどうでもよくて、実際に何かを習い、得るものがあったかってのがポイントなのに。
山登りとか水泳とかサッカーとかプログラミングみたいな事を真面目に週に何回も教えてもいいと思う。そして、それに点数をつけない。平均点とか言わない。全然泳げなくても、本人が楽しめればそれでいいって云う態度が小学生ぐらいには必要な気がする。
で、画一的に生徒全員が同じことをやる必要も全くなし。国語、英語、算数、地理、政治経済ぐらいは全員いるだろうけど、そこから先はもっと自由度があっていいと思う。 当然金はかかります。けど、教育に金かけないでどうする。 例えば、英語なら、アメリカ人をがんがん雇って中学生ぐらいまでには作文と議論を英語でできるように仕上げたら面白いと思うんだよな。小一の「A, エーーイ, B, ビーーイ」から積み上げてけば日本人英語教師って存在そのものを廃止できるはず。加工貿易やってグローバル化とか言ってるならそんぐらいしなきゃダメ。成功すれば、二十年後には一億総バイリンガル。大学でいざ専門的な事やるって時に原書に直で当たれるし、ビジネスも潤う。
あと、政治経済、倫理学とか、人格形成みたいなのを真面目にやるべき。金のために人を刺したり、服のために売春とか、親のシツケもあるけど、社会とか学校にも十分に責任がある。点数主義が拝金主義と等価であるのは明らか。なんのために社会ってもんがあるのか、なんで法律とか税金とか政治家とかいるのか、中学生ぐらいまでにその辺分からなきゃ政治も変わらないでしょ。
あと、大学生になるまでは、週末とか学校終わった後に塾に行かなくちゃダメなような正確さを求める必要も無い気がする。九九さえ暗記できれば、後は計算機も教科書見ながらのテストも上等。他にやる事あるだろ、ガキのうちは。要するに、親とか納税者とか学校とか、大人が面倒なだけなんじゃないかな。外で遊びなさいって言える「外」なんか無くて、コンクリートと通勤電車しかない環境で、テレビゲームばっかやらせるのもダメだし、塾にでも入れておくかみたいな。
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私はプログラマです。1040 formに私の職業としてそう書いています -- Ken Thompson
で、これからどうするの? (スコア:2, すばらしい洞察)
例えば、新しい理論や技術を生み出す土壌というのを考えると、
0. 知の吸収と創造
他の人も述べているとおり、基礎的な部分が無いとどうしようもない。あと、自分でトピックを探して本を読めるだけの忍耐と国語力(英語力の方が有用かな)。あと、教科書丸暗記だけじゃなくて、答えを自分で考え出せる能力。
1. 知の多様性と寛容
あと前提は現時点で金にならない分野への寛容と、色んなタイプの人間がいることへの寛容。全員詰め込みタイプとか全員独創(独走)タイプとか多様性が無い土壌ってのはちょっとした時代や環境の変化に適応できない。
2. 知の協調と寛容
色んなタイプの人間がいる時に、それぞれの知をいかに協調させるか、その方法を欠いてると意味がない。競争と点数だけが全てではなくて、知を他人に説明し、また他人の知を受け入れたり時には議論しあえる能力が必要。
3. 知の工学
合成された知をいかに現実社会に応用させるかという工学的な視点も大切。もっと言うと、その技術を社会に受け入れられる形で分かりやすく提供してビジネスにしていく野心とそれを受け入れられる環境。
僕は専門家じゃないので、素人考えですが、多様性への寛容などは必須だと思います。で、行き着くのは個という概念の形成になって、そういうことをすると困る人も多いのかもしれません。
# 社員が肩書きで呼び合っているうちは知も個も無いと思うのは僕だけかな。
で、どうするの?って思うんですが、やる事多すぎて「ゆとり」とか言ってる暇無いような気がするんだよな。毎日塾行って、週末も古代日本史を意味も無く暗記したり、数学ばっかりやってて、学力に一番大切な好奇心ってのを育む暇も無いってのはアホすぎるとしか言いようがないけどね。
空白地帯 (スコア:1)
日本人に限った話なのかどうかは知らないけど、
学校教育には妙に貧乏性なところがあって、
カリキュラムがどうしても「時間があるならあれもこれも」になってしまう。
小学校、中学校、高校、大学と、ずっとそんな感じだったような。
ゆとりが足りないことも確かなんだけど、
それ以上に「勉強したい」と思わせるモチベーションを用意することや、
「勉強したい」と思ったタイミングで、とことん勉強できるようにサポートするような体制が
今の教育には決定的に足りないんだと思う。
繰りかえされる定期試験で落ちこぼれ扱いされないための勉強では、
みんな勉強嫌いになってもしょうがないでしょう。
たとえ、時間的余裕があったとしても。
そういえば、小学校から高校までの間で、
ちゃんと勉強の仕方をしつけてもらった事なんて一度もないなあ。
大学受験までは、それこそ徒手空拳だったような気がする。
勉強するための土壌が痩せこけている、というのがもしかすると現状なのかも知れない。
Re:空白地帯 (スコア:1)
> 日本人に限った話なのかどうかは知らないけど、
> 学校教育には妙に貧乏性なところがあって、
> カリキュラムがどうしても「時間があるならあれもこれも」になってしまう。
> 小学校、中学校、高校、大学と、ずっとそんな感じだったような。
貧乏性ってのはまさにその通りだけど、「あれもこれも」ってのは疑問。昔から同じような事を画一的なつまらない形で教えてないですか、日本の学校って。
「ゆとり」とか「モチベーション」以前に勉強することそのものの目的とか楽しさってのを教えてくれない。偏差値と点数という薄っぺらな画一化があるだけ。成績とかテストなんてどうでもよくて、実際に何かを習い、得るものがあったかってのがポイントなのに。
山登りとか水泳とかサッカーとかプログラミングみたいな事を真面目に週に何回も教えてもいいと思う。そして、それに点数をつけない。平均点とか言わない。全然泳げなくても、本人が楽しめればそれでいいって云う態度が小学生ぐらいには必要な気がする。
で、画一的に生徒全員が同じことをやる必要も全くなし。国語、英語、算数、地理、政治経済ぐらいは全員いるだろうけど、そこから先はもっと自由度があっていいと思う。
当然金はかかります。けど、教育に金かけないでどうする。
例えば、英語なら、アメリカ人をがんがん雇って中学生ぐらいまでには作文と議論を英語でできるように仕上げたら面白いと思うんだよな。小一の「A, エーーイ, B, ビーーイ」から積み上げてけば日本人英語教師って存在そのものを廃止できるはず。加工貿易やってグローバル化とか言ってるならそんぐらいしなきゃダメ。成功すれば、二十年後には一億総バイリンガル。大学でいざ専門的な事やるって時に原書に直で当たれるし、ビジネスも潤う。
あと、政治経済、倫理学とか、人格形成みたいなのを真面目にやるべき。金のために人を刺したり、服のために売春とか、親のシツケもあるけど、社会とか学校にも十分に責任がある。点数主義が拝金主義と等価であるのは明らか。なんのために社会ってもんがあるのか、なんで法律とか税金とか政治家とかいるのか、中学生ぐらいまでにその辺分からなきゃ政治も変わらないでしょ。
あと、大学生になるまでは、週末とか学校終わった後に塾に行かなくちゃダメなような正確さを求める必要も無い気がする。九九さえ暗記できれば、後は計算機も教科書見ながらのテストも上等。他にやる事あるだろ、ガキのうちは。要するに、親とか納税者とか学校とか、大人が面倒なだけなんじゃないかな。外で遊びなさいって言える「外」なんか無くて、コンクリートと通勤電車しかない環境で、テレビゲームばっかやらせるのもダメだし、塾にでも入れておくかみたいな。