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数学者だっていろいろだから、数学者が NSA で働きたいと考えるのも自由だけど、何をするにしても行動の結果に責任を持つべきだと思う。「私は純粋に知的好奇心から研究をしたいだけで、私の研究が社会に及ぼす影響になど興味はないし私の知ったことではない」というような考えで研究をしてほしくはない。
限界へ探求のためには他のことなんて気にしてる暇はないし探求した真理が社会にどう影響するかは使い手次第社会に悪影響を及ぼすからと言ってその真理がなくなるわけじゃない
そういう考えの人がいることは理解していて、その考えを僕は悪だと思うから #2591043 を書いたわけだけど、意味が通じていないのか、意味は通じているけれど反論したいのか、がわからない。
意味が通じていないなら、以下の補足が役に立つかもしれない。意味が通じていて、単にあなたが僕の意見には反対だというだけなら、そりゃ違う意見を持つ人もいるよね、というだけの話。
限界へ探求のためには他のことなんて気にしてる暇はないし
わかっているかもしれないけど、そういう人に対して僕の意見は、極論すれば「その程度の能力しかない人が研究者になどなるな」だよ。自分の選択が引き起こす結果に責任を持つのは人間
(#2591062) とは別の人間です。
原爆やNSAの話で研究倫理の問題があるのは理解できます。ただ、最も有能な数学者X(つまりこの世で一番数学の問題を解くのがうまい人間)というのが仮にいたとして、fcpさんがそのXに研究をやめさせるのだとしたら、その「選択」をしたのはfcpさんですし、その能力分の損失を人類に支払う必要があるはずです。原爆やNSAにしても、責任をとるのは「選択をした」人間です。fcpさんがXでない限り、その代償を払うことはできない、つまり責任は取れないはずです。
(まあ、それ以前に、知的にシビアな分野の研究者を「その程度の能力しかない」と表現するのは、少なくとも彼らに失礼だと思いますが、あくまで極論とのことですので特に申しません。なお自分は数学徒じゃないです)
「一番有能なXでも苦労するような問題」 [wikipedia.org]なんて存在しない、というスタンスならわかりますが、現実そうではない。そこでXを研究の舞台から降りさせるというのなら、誰ならその問題を解けると言うんですか? 将来同じ人間が現れるのを待つというにしても、そうそう二度偶然が起きるかどうか・・・。
もちろん、研究の能力がそんな一次元の指標で図れるものではないというのはわかります。それでも、概算として一次元から始めるのはどの分野でも適当でしょう。
あと、解けない場合の損得と解けた場合の損得、それを比較する必要があります。NSAの脅威はせいぜい50年から100年でしょうが、解けた場合の利益は、文明が衰退しない限り、人類滅亡まで永遠に続くことになります。原爆の製造はかなりの犠牲を払いましたが、その後70年間の科学の進展及び生活の向上は相対性理論うんぬんのおかげなわけです。長期的視野を楽観的に持てば、どんな種類の発見でも許容できる、とまあ、そういう視点もありえます。
fcpさんの話と私の話も、あまり噛み合っていない気がしますが、まあこういう考え方もできるのではないでしょうか。
僕は「社会への影響も考えて進路を選択してくれ」と言っているだけで、僕に人の研究をやめさせる権限はありません (おわかりとは思いますが)。
最も有能な数学者X(つまりこの世で一番数学の問題を解くのがうまい人間)というのが仮にいたとして、 fcpさんがそのXに研究をやめさせるのだとしたら、 その「選択」をしたのはfcpさんですし、その能力分の損失を人類に支払う必要があるはずです。
仮にこの数学者 X が僕の意見を読んで、そのせいで X が研究をやめて、そのせいで何か人類にとって有用な結果が出なかったとしても、僕の責任がゼロとは言いませんがきわめて限定的だと思います。
「その程度の能力しかない人が研究者になどなるな」とまで言っておいて、自分については「責任は極めて限定的」ですか。ふーん。
あなた (が誰か知らないけれど) は、僕の意見がそのまま有能な人の行動を決めるという錯覚でも持っているんですかね……。
僕が「研究者であっても行動の結果に責任を持て」と言ったら、「限界へ探求のためには他のことなんて気にしてる暇はない」などと、まるで研究者という職業には自分の行動の責任に対する免罪符があるような言い方をする人が現れたから、僕は「免罪符がなければ研究できないような人は、究極的には研究者にならなければよい」と言ったわけです。
これを読んで、「私は研究をしたいから責任を自覚しよう」と思う人がいたら結構だし、「私には責任を自覚しながら研究するなんて高度なことは無理だから研究はやめよう」と思う人がいたらそれはそれで仕方ないし、「研究者の責任とか馬鹿じゃねーのぷぷー」と思う人がいてもちろん本人の考えだから僕には変えられません。僕が意見を述べたことを、僕が誰かの「研究をやめさせ」たと呼ぶのはおかしな表現だと思います。
別人ですが、数学者も、自分の研究成果の悪用を決定するわけでも、強制するわけでもないじゃないですか。「私は研究をするが、研究結果をどう使うかは使う人の決定であり問題だ」というのと「私は人にある行動を取るように促す意見を言うが、それに従うかどうかは私の意見を読んだ人の決定で、私に強制力はないのだから責任は限定的」というのはどう違うんですか。
これを読んで、「私は研究をしたいから責任を自覚しよう」と思う人がいたら結構だし、「私には責任を自覚しながら研究するなんて高度なことは無理だから研究はやめよう」と思う人がいたらそれはそれで仕方ないし、
「私が何を他人に言おうが、他人がその影響を受けるかどうかは他人の勝手だ」それを正とするならば、「私が何を研究しようが、他人がそのどう影響を受けるかは他人の勝手だ」これも正である。
つまるところ、あなたは自分の言論には自由を、他人の研究には不自由をしようとする意見を言っている。あなたの言論も、他人の研究も、同様に自由だし、同程度に責任が存在する。
> 自分の選択が引き起こす結果に責任を持つのは人間として当然のこと
良い結果を得るために、選択する当人を免責して自由を確保してやるのは組織や集団がよく利用する手段であり、人間の知恵です。
そもそも、「〜は当然」と決めつける論理は一番危険な思想ですね。そうした理屈ほど他人に責任を取らせるのに便利な手段はないからです。その程度の見識の人に研究者のマネージメントについて意見を求めるのは、はっきり言って無駄でしかない。
>極論すれば「その程度の能力しかない人が研究者になどなるな」だよ。馬鹿馬鹿しい。
だとすると科学者になれる人など、この世に存在しないだろうね。自分で何もしない奴ほど、こういうことを言うんだ。
アインシュタインが相対性理論を発表した時、東西冷戦で全人類を皆殺しに出来る核兵器が配備されることが、一体誰に想像できただろうか?
アインシュタインは原爆製造を進言する書類にサインするのしぶったそうだし、十分わかっていたんでしょう。戦争の臭いがするようになると原子物理の論文は発表できなくなったりしたそうだし。
数学者の場合は、24時間夢の中でも数学のことを考えていないとものにならないそうなので、グロタンディークみたいに軍から資金提供されたら数学やめてしまうとかの方が例外で、定理発見の先までは考えていないか興味のない人はいるでしょう。もし研究するなと言っても夢の中まではどうにもならないですから。
アインシュタインは特殊相対性理論を発表した時、爆弾になるとは想像もしなかったのではないかな。1905年ですよ。現実的な、お湯が沸かせるようなエネルギーとして取り出せるとは、当時の技術水準では想像もできないはず。想像しても、それこそSFとして一笑に付されてる。
ちゅーか特殊相対性理論は電磁気の理論なんだから、実はアインシュタインが天才的に思いついたのではなく、時代の流れとしてそのうち誰かが気づいてたんだけどね…。(たとえばローレンツの成果など。同時代の複数の研究者がほぼ同じ結論に至る寸前だった。)一般相対性理論の方は、いくぶん天才的なひらめきが必要だったと思うのだけれども。
結局、人類は知識を悪用するから知ってはならない、ってそれは宗教的洗脳だよ。為政者が権力を維持するための愚民政策みたいなものだ…。
馬鹿じゃないんだからある程度は想像できるよ。それに数学者の場合は完全に諜報機関だし。
だからと言って数学者はどうやって飯を食っていくんだ?という疑問が出てくる。
現代社会でパブリックな学会(学術界)で生きていくためには,研究倫理の遵守が求められる。倫理は学問領域や地域によって差はあれど,みな制約の下で競争している。研究資金側にも公の拠出には研究倫理の遵守確認が求められる。
もし,制約から逃れて研究したいなら,どこかの企業か,国家か,金持ちの庇護下でしか行えない。
でも,研究倫理を逸脱した研究成果は,いまの科学界では受け入れられないので,その成果は,仮に真理であっても「私的なもの」でしかないだろう。
確かに、自由に責任は付き物だと思います。しかし倫理やら何やらを重視するばかりの一体何がいいというのでしょう?個人的な意見を申し上げると、正直倫理という概念はくだらない物だと考えています。昨今よく言われるようになった「倫理」というものは、我々が普段日常生活で識者であれば誰でも理解している「道徳」というものとは違う。道徳は日常生活に馴染み深く、またその根本的な考え方は成熟しています。しかし一方の倫理はやれ「自然の摂理に反する」だの「戦争の元になる」だの、あいまいで理由付けとしても弱い。
技術というものは競争下で成長を遂げるものであって、進化した技術は時に過去の常識(自然の摂理とやらも含む)を覆すことだってあるのに、どうして技術の進化を妨げるような倫理なんてものをそこまで重視するのかがわかりませんね。倫理は二の次です。いくら市民に倫理を以ってあーだこーだ言われたとしても、研究者としては伸びしろのある研究を続けざるを得ないのですよ。
どうして技術の進化を妨げるような倫理なんてものをそこまで重視するのかがわかりませんね。
僕は技術が発展することを絶対的な正義だとは思っていないので、たぶん根本的に話にずれがあると思いますが、
いくら市民に倫理を以ってあーだこーだ言われたとしても、研究者としては伸びしろのある研究を続けざるを得ないのですよ。
現実問題としてそうであっても、研究者は市民があーだこーだ言っていることに耳を傾けるべきだと思います。研究に対する倫理面からの批判について考えて、それでも自分はこの研究を続けるのだ、というのなら、それも一つの選択として「あり」でしょう。倫理面からの批判には耳を塞いで考えないようにする、というのは無責任です。
元々の話とずれてませんか?スポンサーが 自分の技術を悪用(倫理的な悪?)することがわかりきっているのに、その元で働くべきかどうか、ということが 元々の話でしょう。
スポンサーが(倫理的な基準で)悪用するか、本人にとって不明確な場合、純粋なアカデミズムの精神で研究をすすめるのを妨げる理由はやはり何もないんじゃないでしょうか。
市民のあーだこーだを聞け、というのは (研究意義を理解しない、自分の理解できない気持ち悪いことはしてほしくないという)俺のコントロールの下で働け、と言っているように聞こえますが、そんなもん、研究者だけに負わせるのは不公平でしょう。
「市民の言うことを聞け (=市民の言うことに従え)」とは僕は言っていないので念のため。市民の言うことに耳を傾けろ、と言っています。その上で何を選択するかは研究者の自由だとも僕は言っています。
そうした責任を意識しながら研究できる数学者と、あまりそういう方向に意識が回らないで数学に没頭する数学者は、能力の高低の問題ではなく単にタイプの違いなのですよ。安全カミソリと包丁の違いというか、サッカーの司令塔やゴールキーパーと点取り屋の違いというか、後者のタイプを前者のタイプに無理に変えようとするよりは、適材適所でそれぞれが存分に数学をできる環境に置く方がずっと生産的です。(一応言っておきますが、前者のようなタイプの数学者もちゃんと大勢いますよ。)
大学(アカデミア)というのはある意味、後者のような「危なっかしい」才能を安全な場所で発揮させるための仕組みだと思うのです。NSAで働く数学者が社会的責任を負うのはもっともなことですが、全ての数学者がNSAのような場所で働かなければならないわけではありません。
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「毎々お世話になっております。仕様書を頂きたく。」「拝承」 -- ある会社の日常
個々の数学者の自由だけど責任は持ってほしい (スコア:1)
数学者だっていろいろだから、数学者が NSA で働きたいと考えるのも自由だけど、何をするにしても行動の結果に責任を持つべきだと思う。「私は純粋に知的好奇心から研究をしたいだけで、私の研究が社会に及ぼす影響になど興味はないし私の知ったことではない」というような考えで研究をしてほしくはない。
Re:個々の数学者の自由だけど責任は持ってほしい (スコア:2, 参考になる)
限界へ探求のためには他のことなんて気にしてる暇はないし
探求した真理が社会にどう影響するかは使い手次第
社会に悪影響を及ぼすからと言ってその真理がなくなるわけじゃない
Re: (スコア:0, フレームのもと)
そういう考えの人がいることは理解していて、その考えを僕は悪だと思うから #2591043 を書いたわけだけど、意味が通じていないのか、意味は通じているけれど反論したいのか、がわからない。
意味が通じていないなら、以下の補足が役に立つかもしれない。意味が通じていて、単にあなたが僕の意見には反対だというだけなら、そりゃ違う意見を持つ人もいるよね、というだけの話。
わかっているかもしれないけど、そういう人に対して僕の意見は、極論すれば「その程度の能力しかない人が研究者になどなるな」だよ。自分の選択が引き起こす結果に責任を持つのは人間
Re:個々の数学者の自由だけど責任は持ってほしい (スコア:3)
(#2591062) とは別の人間です。
原爆やNSAの話で研究倫理の問題があるのは理解できます。ただ、
最も有能な数学者X(つまりこの世で一番数学の問題を解くのがうまい人間)というのが仮にいたとして、
fcpさんがそのXに研究をやめさせるのだとしたら、
その「選択」をしたのはfcpさんですし、その能力分の損失を人類に支払う必要があるはずです。
原爆やNSAにしても、責任をとるのは「選択をした」人間です。
fcpさんがXでない限り、その代償を払うことはできない、つまり責任は取れないはずです。
(まあ、それ以前に、知的にシビアな分野の研究者を「その程度の能力しかない」と表現するのは、少なくとも彼らに失礼だと思いますが、あくまで極論とのことですので特に申しません。なお自分は数学徒じゃないです)
「一番有能なXでも苦労するような問題」 [wikipedia.org]なんて存在しない、というスタンスならわかりますが、現実そうではない。そこでXを研究の舞台から降りさせるというのなら、誰ならその問題を解けると言うんですか? 将来同じ人間が現れるのを待つというにしても、そうそう二度偶然が起きるかどうか・・・。
もちろん、研究の能力がそんな一次元の指標で図れるものではないというのはわかります。それでも、概算として一次元から始めるのはどの分野でも適当でしょう。
あと、解けない場合の損得と解けた場合の損得、それを比較する必要があります。
NSAの脅威はせいぜい50年から100年でしょうが、解けた場合の利益は、文明が衰退しない限り、人類滅亡まで永遠に続くことになります。原爆の製造はかなりの犠牲を払いましたが、その後70年間の科学の進展及び生活の向上は相対性理論うんぬんのおかげなわけです。長期的視野を楽観的に持てば、どんな種類の発見でも許容できる、とまあ、そういう視点もありえます。
fcpさんの話と私の話も、あまり噛み合っていない気がしますが、まあこういう考え方もできるのではないでしょうか。
新人。プログラマレベルをポケモンで言うと、コラッタぐらい
Re:個々の数学者の自由だけど責任は持ってほしい (スコア:2)
僕は「社会への影響も考えて進路を選択してくれ」と言っているだけで、僕に人の研究をやめさせる権限はありません (おわかりとは思いますが)。
仮にこの数学者 X が僕の意見を読んで、そのせいで X が研究をやめて、そのせいで何か人類にとって有用な結果が出なかったとしても、僕の責任がゼロとは言いませんがきわめて限定的だと思います。
Re: (スコア:0)
「その程度の能力しかない人が研究者になどなるな」とまで言っておいて、自分については「責任は極めて限定的」ですか。ふーん。
Re:個々の数学者の自由だけど責任は持ってほしい (スコア:2)
あなた (が誰か知らないけれど) は、僕の意見がそのまま有能な人の行動を決めるという錯覚でも持っているんですかね……。
僕が「研究者であっても行動の結果に責任を持て」と言ったら、「限界へ探求のためには他のことなんて気にしてる暇はない」などと、まるで研究者という職業には自分の行動の責任に対する免罪符があるような言い方をする人が現れたから、僕は「免罪符がなければ研究できないような人は、究極的には研究者にならなければよい」と言ったわけです。
これを読んで、「私は研究をしたいから責任を自覚しよう」と思う人がいたら結構だし、「私には責任を自覚しながら研究するなんて高度なことは無理だから研究はやめよう」と思う人がいたらそれはそれで仕方ないし、「研究者の責任とか馬鹿じゃねーのぷぷー」と思う人がいてもちろん本人の考えだから僕には変えられません。僕が意見を述べたことを、僕が誰かの「研究をやめさせ」たと呼ぶのはおかしな表現だと思います。
Re: (スコア:0)
別人ですが、
数学者も、自分の研究成果の悪用を決定するわけでも、強制するわけでもないじゃないですか。
「私は研究をするが、研究結果をどう使うかは使う人の決定であり問題だ」というのと「私は人にある行動を取るように促す意見を言うが、それに従うかどうかは私の意見を読んだ人の決定で、私に強制力はないのだから責任は限定的」というのはどう違うんですか。
これを読んで、「私は研究をしたいから責任を自覚しよう」と思う人がいたら結構だし、「私には責任を自覚しながら研究するなんて高度なことは無理だから研究はやめよう」と思う人がいたらそれはそれで仕方ないし、
Re: (スコア:0)
「私が何を他人に言おうが、他人がその影響を受けるかどうかは他人の勝手だ」それを正とするならば、
「私が何を研究しようが、他人がそのどう影響を受けるかは他人の勝手だ」これも正である。
つまるところ、あなたは自分の言論には自由を、他人の研究には不自由をしようとする意見を言っている。
あなたの言論も、他人の研究も、同様に自由だし、同程度に責任が存在する。
Re:個々の数学者の自由だけど責任は持ってほしい (スコア:2, 参考になる)
> 自分の選択が引き起こす結果に責任を持つのは人間として当然のこと
良い結果を得るために、選択する当人を免責して自由を確保してやるのは
組織や集団がよく利用する手段であり、人間の知恵です。
そもそも、「〜は当然」と決めつける論理は一番危険な思想ですね。
そうした理屈ほど他人に責任を取らせるのに便利な手段はないからです。
その程度の見識の人に研究者のマネージメントについて意見を求めるのは、
はっきり言って無駄でしかない。
Re:個々の数学者の自由だけど責任は持ってほしい (スコア:1)
>極論すれば「その程度の能力しかない人が研究者になどなるな」だよ。
馬鹿馬鹿しい。
だとすると科学者になれる人など、この世に存在しないだろうね。
自分で何もしない奴ほど、こういうことを言うんだ。
アインシュタインが相対性理論を発表した時、東西冷戦で全人類を皆殺しに出来る
核兵器が配備されることが、一体誰に想像できただろうか?
Re:個々の数学者の自由だけど責任は持ってほしい (スコア:1)
アインシュタインは原爆製造を進言する書類にサインするのしぶったそうだし、十分わかっていたんでしょう。戦争の臭いがするようになると原子物理の論文は発表できなくなったりしたそうだし。
数学者の場合は、24時間夢の中でも数学のことを考えていないとものにならないそうなので、グロタンディークみたいに軍から資金提供されたら数学やめてしまうとかの方が例外で、定理発見の先までは考えていないか興味のない人はいるでしょう。もし研究するなと言っても夢の中まではどうにもならないですから。
Re: (スコア:0)
アインシュタインは特殊相対性理論を発表した時、爆弾になるとは想像もしなかったのではないかな。1905年ですよ。
現実的な、お湯が沸かせるようなエネルギーとして取り出せるとは、当時の技術水準では想像もできないはず。
想像しても、それこそSFとして一笑に付されてる。
ちゅーか特殊相対性理論は電磁気の理論なんだから、実はアインシュタインが天才的に思いついたのではなく、時代の流れとしてそのうち誰かが気づいてたんだけどね…。(たとえばローレンツの成果など。同時代の複数の研究者がほぼ同じ結論に至る寸前だった。)
一般相対性理論の方は、いくぶん天才的なひらめきが必要だったと思うのだけれども。
結局、人類は知識を悪用するから知ってはならない、ってそれは宗教的洗脳だよ。
為政者が権力を維持するための愚民政策みたいなものだ…。
Re: (スコア:0)
馬鹿じゃないんだからある程度は想像できるよ。
それに数学者の場合は完全に諜報機関だし。
だからと言って数学者はどうやって飯を食っていくんだ?という疑問が出てくる。
Re: (スコア:0)
現代社会でパブリックな学会(学術界)で生きていくためには,研究倫理の遵守が求められる。
倫理は学問領域や地域によって差はあれど,みな制約の下で競争している。
研究資金側にも公の拠出には研究倫理の遵守確認が求められる。
もし,制約から逃れて研究したいなら,
どこかの企業か,国家か,金持ちの庇護下でしか行えない。
でも,研究倫理を逸脱した研究成果は,いまの科学界では受け入れられないので,
その成果は,仮に真理であっても「私的なもの」でしかないだろう。
Re: (スコア:0)
確かに、自由に責任は付き物だと思います。しかし倫理やら何やらを重視するばかりの一体何がいいというのでしょう?
個人的な意見を申し上げると、正直倫理という概念はくだらない物だと考えています。昨今よく言われるようになった「倫理」というものは、我々が普段日常生活で識者であれば誰でも理解している「道徳」というものとは違う。道徳は日常生活に馴染み深く、またその根本的な考え方は成熟しています。しかし一方の倫理はやれ「自然の摂理に反する」だの「戦争の元になる」だの、あいまいで理由付けとしても弱い。
技術というものは競争下で成長を遂げるものであって、進化した技術は時に過去の常識(自然の摂理とやらも含む)を覆すことだってあるのに、どうして技術の進化を妨げるような倫理なんてものをそこまで重視するのかがわかりませんね。倫理は二の次です。いくら市民に倫理を以ってあーだこーだ言われたとしても、研究者としては伸びしろのある研究を続けざるを得ないのですよ。
Re:個々の数学者の自由だけど責任は持ってほしい (スコア:1)
僕は技術が発展することを絶対的な正義だとは思っていないので、たぶん根本的に話にずれがあると思いますが、
現実問題としてそうであっても、研究者は市民があーだこーだ言っていることに耳を傾けるべきだと思います。研究に対する倫理面からの批判について考えて、それでも自分はこの研究を続けるのだ、というのなら、それも一つの選択として「あり」でしょう。倫理面からの批判には耳を塞いで考えないようにする、というのは無責任です。
Re: (スコア:0)
元々の話とずれてませんか?
スポンサーが 自分の技術を悪用(倫理的な悪?)することがわかりきっているのに、
その元で働くべきかどうか、ということが 元々の話でしょう。
スポンサーが(倫理的な基準で)悪用するか、本人にとって不明確な場合、
純粋なアカデミズムの精神で研究をすすめるのを妨げる理由は
やはり何もないんじゃないでしょうか。
市民のあーだこーだを聞け、というのは (研究意義を理解しない、
自分の理解できない気持ち悪いことはしてほしくないという)俺の
コントロールの下で働け、と言っているように聞こえますが、
そんなもん、研究者だけに負わせるのは不公平でしょう。
Re:個々の数学者の自由だけど責任は持ってほしい (スコア:2)
「市民の言うことを聞け (=市民の言うことに従え)」とは僕は言っていないので念のため。市民の言うことに耳を傾けろ、と言っています。その上で何を選択するかは研究者の自由だとも僕は言っています。
Re: (スコア:0)
そうした責任を意識しながら研究できる数学者と、あまりそういう方向に意識が回らないで数学に没頭する数学者は、能力の高低の問題ではなく単にタイプの違いなのですよ。安全カミソリと包丁の違いというか、サッカーの司令塔やゴールキーパーと点取り屋の違いというか、後者のタイプを前者のタイプに無理に変えようとするよりは、適材適所でそれぞれが存分に数学をできる環境に置く方がずっと生産的です。(一応言っておきますが、前者のようなタイプの数学者もちゃんと大勢いますよ。)
大学(アカデミア)というのはある意味、後者のような「危なっかしい」才能を安全な場所で発揮させるための仕組みだと思うのです。NSAで働く数学者が社会的責任を負うのはもっともなことですが、全ての数学者がNSAのような場所で働かなければならないわけではありません。