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義務教育で教えているぐらい一般に広く周知されていて、なおかつそれに反対する団体が存在する点から選ばれたのでは。別に宗教心のみを理由とした話でもないので具体的なイメージのしやすいネタを選んだんでしょう。
しかし、科学的事実より宗教的事実を優先する傾向自体が信仰心に由来しなくてなんなのでしょう?もちろん両立させる人もいるだろうけど信仰心由来なのは間違いと思うのですが。
その前提だと「信仰心が高い人の信念が科学的事実に対する知識の量に左右されない」という命題はトートロジーに過ぎないのでは?という疑問です。むしろ興味深いのは、ある仮説に対して「信じているかどうか」と「その仮説を裏付ける知識の量」が相関しないという結果でしょうね。話の流れが、「進化論を信じない人はどれだけ客観的な事実を提示しても信じない」みたいな方向になってるけど、この研究か、分かることは、「進化論を信じている人も対した根拠なく信じている人がいる」っことじゃないかな。
「進化論を信じている人も対した根拠なく信じている人がいる」っことじゃないかな。
そーゆー人に限って、根拠も無く「自分は科学的な主張をしている」とか「自分は科学的だ」とか『頑迷に』思いこんでたりするのよね。
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アレゲは一日にしてならず -- アレゲ研究家
信仰心と進化論 (スコア:2)
もしかして進化論を否定することや科学的事実より宗教的事実を優先する傾向自体が信仰心の高さを測る基準になっていないのだろうか?
Re: (スコア:0)
義務教育で教えているぐらい一般に広く周知されていて、なおかつそれに反対する団体が存在する
点から選ばれたのでは。別に宗教心のみを理由とした話でもないので具体的なイメージのしやすい
ネタを選んだんでしょう。
しかし、科学的事実より宗教的事実を優先する傾向自体が信仰心に由来しなくてなんなのでしょう?
もちろん両立させる人もいるだろうけど信仰心由来なのは間違いと思うのですが。
Re:信仰心と進化論 (スコア:1)
しかし、科学的事実より宗教的事実を優先する傾向自体が信仰心に由来しなくてなんなのでしょう?
もちろん両立させる人もいるだろうけど信仰心由来なのは間違いと思うのですが。
その前提だと「信仰心が高い人の信念が科学的事実に対する知識の量に左右されない」という命題はトートロジーに過ぎないのでは?という疑問です。
むしろ興味深いのは、ある仮説に対して「信じているかどうか」と「その仮説を裏付ける知識の量」が相関しないという結果でしょうね。
話の流れが、「進化論を信じない人はどれだけ客観的な事実を提示しても信じない」みたいな方向になってるけど、この研究か、分かることは、「進化論を信じている人も対した根拠なく信じている人がいる」っことじゃないかな。
Re: (スコア:0)
そーゆー人に限って、根拠も無く「自分は科学的な主張をしている」とか「自分は科学的だ」とか『頑迷に』思いこんでたりするのよね。