アカウント名:
パスワード:
意外と若かったんだ。
私がLinuxを使い始めて17年目だけど、きっかけは書店でVineLinuxのインストールCDが付録でついていたLinuxMagazineを手に取ったことだったなぁ。最初はホイールマウスのホイールを使うのにも/etc/X11/XF86Configに一行書き足してやらないとダメだった。それを思うと、何だかんだ言ってLinuxも使いやすくなった気がする。ところで、私のように仕事ではまったく必要無いのに、自宅でLinuxをメインに使ってる人ってどれくらいいるんだろ。
92年の半ば辺り(記憶が定かではない上に、当時のログをサルベージできてない)からクビ突っ込んでたので、前と同じこと書きそうな気もしますが、少し。
最初にLinuxというものを知ったのは、FM-Townsに移植されて公開されてからそう遠くない時期ですから、大体1992年の夏から冬にかけてだったと思います [linux.or.jp]。
当時、夏前年の休みにバイトで荒稼ぎしたお金で中古のTowns 2Hを買ったのですが、その前から少しパソコン通信に手を出していたのもあってNIFTYの課金沼にハマってまして、そういう中でTowns関連のフォーラムに出入りしてたら、LinuxなるUnixライクなOSを移植してみたので試用してほしいという書き込みが眼に入りました。確か、92年の秋か冬の始め。
で確か、最初は最低限のlibcに相当するライブラリとカーネルとvi clone(stevieだったかな?)などの最低限のツールが入ったFDDイメージ一枚と、後は拡張ツール的に多少のツールとドキュメントが入った(そこにgcc等が含まれてた気がするけど自信がない)FDDイメージ五枚分くらいが掲示された訳ですね。
それを使ってみて思ったのは、高校時代に部活でいじっていたミニコンと一緒の部屋にひっそりと置かれていたUnix WSそのまんま(からGUIを省いたもの)じゃないか…こんなもん、当時いた大学の研究室でも情報工学やってる所しかないよな(;´Д`)と言う辺りでしたか。
実際、前年Townsを買って最初に買ったのが、Towns OSの最新版以外では、バイトで東京出てきてる間にビレッジセンターで買ったRUN386ベースのGCCで、それはフロッピー台とコピー手数料で二千円せず安いから(今の人には信じられないでしょうが、Cコンパイラ等のツールチェインを入手するには、最低でも五六万円で買うか、8086用のLSI-Cの試用品と言う、非常に機能に制限のあるけどパソ通で無料。と言う究極に近い二択だったんですね)と言う懐事情でしたので。しかもこのGCCはデバッグ環境が(未だgdbとか真面目に移植されてなくて)貧弱だったので、頭抱えてた所から、Linux入れたらいきなしUnixライクOSでCもBISONもあるわスクリオプト言語は便利だわ、デバッグ環境も必要最低限はあるわ。と言うところに行けたわけですね。この最初にダウンロードしたセットにEmacsがあったかどうかは自信ないですが、早々にEmacsのバイナリがアップロードされて、これ突っ込んだらTurbo-C並みの楽な環境を構築できたりもした訳です。
これは、ハマらずにはいられなかったです(^_^;当時二ヶ月〜三ヶ月ごとくらいに行われてた「フロッピー回覧」(フロッピー40枚位に分割されてる各種ソフトのバイナリやソース、ハッカー文書を、全国に分散してる人たちの間で宅急便で回覧するという今は考えにくい行為です。フロッピーに書かれてるデータをLinuxがHDDにあるパソコンで解凍してインストールしたら、次の順番の方に、宅急便で送るのを繰り返す訳です。)は当然の如く毎回入りましたし、片っ端から色んなソフトのソースコードを入手して、大抵はLinux対応してないかPC-AT互換機向けLinuxの癖が残っててFTBFSしてたり動かなかったりしたのを、ハードウェア寄りでない物に限ったとは言え、手で修正を掛けたりとか。
プログラミングテクニックの面で非常に勉強になったし、AWKやSEDやその他のスクリプト言語を使った半自動化テクニックも参考になったし、そもそも日本語での対応と言えば初歩的な所しかやりようのないコミュニティの状況だったので、もう、英語文書読むよりなくて…高校でも大学の一般教養でも英語は赤点がデフォだった私が…、「ハッカー英語」だけは相当慣れてしまいました。
色々とあって留年をしたのもあって就職大変だったし、最初はハード屋さんだったけどその後はIT業界に転んでいった中で、なんだかんだで仕事にありつけていたのは、この当時の経験と、後は8ビット機全盛期に趣味でコピープロテクト潰しやってたのが大きかったですね。# 最後のは、無許可のソフトレンタル屋もソフトのコピーもグレーゾーンで許された時代の話ですが、リバースエンジニアリングの基礎力を付けられたので。
なんと言うか、「芸は身を助ける」を地で行ってしまったと言うか…
と言う事があって、Linusとか日本でTownsにLinuxを移植された方々に限らず、FOSS界隈には足を向けて寝られない状態です(^_^;
Linuxであっても、私が当時ハマってた大半の不便を意識しないで済む時代になって、いいところもあるけど、私の子供にはそういう基礎力つけるために独学で何とかする。と言う部分の非常な楽しさをなかなか教えこめてなくて、そこがどうももにょってしまうのではありますが。
より多くのコメントがこの議論にあるかもしれませんが、JavaScriptが有効ではない環境を使用している場合、クラシックなコメントシステム(D1)に設定を変更する必要があります。
UNIXはシンプルである。必要なのはそのシンプルさを理解する素質だけである -- Dennis Ritchie
Linuxの歴史は良く知らないけど (スコア:0)
意外と若かったんだ。
私がLinuxを使い始めて17年目だけど、きっかけは書店でVineLinuxのインストールCDが付録でついていたLinuxMagazineを手に取ったことだったなぁ。
最初はホイールマウスのホイールを使うのにも/etc/X11/XF86Configに一行書き足してやらないとダメだった。
それを思うと、何だかんだ言ってLinuxも使いやすくなった気がする。
ところで、私のように仕事ではまったく必要無いのに、自宅でLinuxをメインに使ってる人ってどれくらいいるんだろ。
Re:Linuxの歴史は良く知らないけど (スコア:2)
92年の半ば辺り(記憶が定かではない上に、当時のログをサルベージできてない)からクビ突っ込んでたので、前と同じこと書きそうな気もしますが、少し。
最初にLinuxというものを知ったのは、FM-Townsに移植されて公開されてからそう遠くない時期ですから、大体1992年の夏から冬にかけてだったと思います [linux.or.jp]。
当時、夏前年の休みにバイトで荒稼ぎしたお金で中古のTowns 2Hを買ったのですが、その前から少しパソコン通信に手を出していたのもあってNIFTYの課金沼にハマってまして、そういう中でTowns関連のフォーラムに出入りしてたら、LinuxなるUnixライクなOSを移植してみたので試用してほしいという書き込みが眼に入りました。確か、92年の秋か冬の始め。
で確か、最初は最低限のlibcに相当するライブラリとカーネルとvi clone(stevieだったかな?)などの最低限のツールが入ったFDDイメージ一枚と、後は拡張ツール的に多少のツールとドキュメントが入った(そこにgcc等が含まれてた気がするけど自信がない)FDDイメージ五枚分くらいが掲示された訳ですね。
それを使ってみて思ったのは、高校時代に部活でいじっていたミニコンと一緒の部屋にひっそりと置かれていたUnix WSそのまんま(からGUIを省いたもの)じゃないか…こんなもん、当時いた大学の研究室でも情報工学やってる所しかないよな(;´Д`)
と言う辺りでしたか。
実際、前年Townsを買って最初に買ったのが、Towns OSの最新版以外では、バイトで東京出てきてる間にビレッジセンターで買ったRUN386ベースのGCCで、それはフロッピー台とコピー手数料で二千円せず安いから(今の人には信じられないでしょうが、Cコンパイラ等のツールチェインを入手するには、最低でも五六万円で買うか、8086用のLSI-Cの試用品と言う、非常に機能に制限のあるけどパソ通で無料。と言う究極に近い二択だったんですね)と言う懐事情でしたので。
しかもこのGCCはデバッグ環境が(未だgdbとか真面目に移植されてなくて)貧弱だったので、頭抱えてた所から、Linux入れたらいきなしUnixライクOSでCもBISONもあるわスクリオプト言語は便利だわ、デバッグ環境も必要最低限はあるわ。と言うところに行けたわけですね。
この最初にダウンロードしたセットにEmacsがあったかどうかは自信ないですが、早々にEmacsのバイナリがアップロードされて、これ突っ込んだらTurbo-C並みの楽な環境を構築できたりもした訳です。
これは、ハマらずにはいられなかったです(^_^;
当時二ヶ月〜三ヶ月ごとくらいに行われてた「フロッピー回覧」(フロッピー40枚位に分割されてる各種ソフトのバイナリやソース、ハッカー文書を、全国に分散してる人たちの間で宅急便で回覧するという今は考えにくい行為です。フロッピーに書かれてるデータをLinuxがHDDにあるパソコンで解凍してインストールしたら、次の順番の方に、宅急便で送るのを繰り返す訳です。)は当然の如く毎回入りましたし、
片っ端から色んなソフトのソースコードを入手して、大抵はLinux対応してないかPC-AT互換機向けLinuxの癖が残っててFTBFSしてたり動かなかったりしたのを、ハードウェア寄りでない物に限ったとは言え、手で修正を掛けたりとか。
プログラミングテクニックの面で非常に勉強になったし、AWKやSEDやその他のスクリプト言語を使った半自動化テクニックも参考になったし、そもそも日本語での対応と言えば初歩的な所しかやりようのないコミュニティの状況だったので、もう、英語文書読むよりなくて…高校でも大学の一般教養でも英語は赤点がデフォだった私が…、「ハッカー英語」だけは相当慣れてしまいました。
色々とあって留年をしたのもあって就職大変だったし、最初はハード屋さんだったけどその後はIT業界に転んでいった中で、なんだかんだで仕事にありつけていたのは、この当時の経験と、後は8ビット機全盛期に趣味でコピープロテクト潰しやってたのが大きかったですね。
# 最後のは、無許可のソフトレンタル屋もソフトのコピーもグレーゾーンで許された時代の話ですが、リバースエンジニアリングの基礎力を付けられたので。
なんと言うか、「芸は身を助ける」を地で行ってしまったと言うか…
と言う事があって、Linusとか日本でTownsにLinuxを移植された方々に限らず、FOSS界隈には足を向けて寝られない状態です(^_^;
Linuxであっても、私が当時ハマってた大半の不便を意識しないで済む時代になって、いいところもあるけど、私の子供にはそういう基礎力つけるために独学で何とかする。と言う部分の非常な楽しさをなかなか教えこめてなくて、そこがどうももにょってしまうのではありますが。