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未就学児の状況についても注視すべき状況なのでしょうか?幼稚園は文科省、保育所は厚労省と管轄が異なっていますが、それによる温度差なんかはあるのでしょうか?厚労省ルートもあるのでしょうか?
親学は色々と受け入れがたい物がありますけれど、特に発達障害に関する価値観は受け入れがたいです。あのようなものが保育(福祉)に影響を及ぼさない事を願います。
> 右でも左でもモダンを拒否して「共感」すれば似たようなものになるから。
この文から「共感」って言うものに否定的なものを感じるのですが、考えすぎでしょうか。私が、親学を受け入れがたい理由の1つに、発達障害を持つ子供への「共感」があります。「発達障害は脳の器質が要因」というのを信じているというのもありますが、その知識を持っている自体は、こうやって文章を書くというような行動に移す動機にはなりません。「共感」がなければ、しょせんは行動するに足りない他人事なんですよね。私にとっては。
未就学児の状況についても注視すべき状況なのでしょうか? 幼稚園は文科省、保育所は厚労省と管轄が異なっていますが、 それによる温度差なんかはあるのでしょうか? 厚労省ルートもあるのでしょうか?
未就学児も問題になっているので、昨今の報道になっています。 「親学アドバイザー」という私的な資格があり、 幼稚園・保育所の職員も取得しています http://oyagaku.org/advisor/acquire.php [oyagaku.org]。 多い地域では親学を推進している政治家がいます。 埼玉は上田知事、愛知は河村名古屋市長、大阪は維新。
厚労省への目立った影響は私の知るかぎりではありません。 注意が必要なのは官邸です。 首相自身が親学推進議員連盟の会長ですし、 官邸の「教育再生会議」の流れで文科省が使われている状況とみています。
親学は色々と受け入れがたい物がありますけれど、 特に発達障害に関する価値観は受け入れがたいです。 あのようなものが保育(福祉)に影響を及ぼさない事を願います。
私学教員
厚労省ルートがなさそうなのは安心しましたが、保育所に「親学アドバイザー」資格取得者がいるのは懸念材料ですね。推進してるのがが知事や市長も嫌ですが、府議や市議の第一党ってのも相当嫌です……。共感というのは、そもそも保育のキータームでもあります。だからこそ「親学」が入り込みやすい下地があるとも言えるかもしれません。気をつけないと。
確かにマジョリティの共感を押しつけられると苦しいと思いますが、発達障害側が自身の価値観を強硬に主張する場面ではマジョリティもストレスを感じますまたマジョリティ側は常識だの普通だので押し切れる場合も多いですが、その場合にもストレスを感じます。妥協ではなく一方的に自身の価値観を貫くのは楽しい事ではないんです。(もちろん両者でストレスを感じる場面の数はかなり違うと思います)性質から言えば相手を受容しやすいのはマジョリティの側でしょう。ああ自分とは考え方が違うんだ、面倒くさいけど言いたい事はわかるって事、結構多いと思うんです。また、マジョリティは真実や成果だけではなく、努力や気持ちといったものも評価の対象にします。非合理的と思われるかもしれませんが、これもまた発達障害の人を受容できる下地であると思います。でも自分の主張を一方的に貫き通すのもストレスですが、一方的に折れるのもストレスです。やはり妥協点というものが必要だと思います。ただし、それは真実や論理の正しさを追求する行為ではありません。発達障害の人の主張には、その特性ゆえに、視点が足りない可能性、必要な視点を排除している可能性が十分にあります。固執するなとは言いませんが、そこに自覚的であって欲しいとは思います。そうやって発達障害の側も頑張っても妥協点を探しても、認められるのは、「そういう人もいる」ってそれだけかもしれません。自分たちは正しいのに……って思うかもしれません。でも、発達障害の人は、自分とは相容れない価値観の人を「そういう人もいる」って認められるでしょうか?マジョリティが発達障害の人を受容できるのは発達障害の人とは違う特性を持っているからじゃないでしょうか?果たして発達障害を持った人が多数派なら、発達障害の人に優しい社会ができるのでしょうか?私はそれには疑問を持ちます。極論で本意でもありませんが、社会運営という視点で合理的に考えれば、マジョリティと発達障害の人がお互いに負担が少ないように社会を変えるより、発達障害という個性を認めずに、その原因を家庭の躾に求め、発達障害が社会に適応するよう求め(或いは社会不適合者の烙印を押し)発達障害側に一方的に負担を強いた方がコストや効率は良いのではないでしょうか?少なくとも人を画一的に扱うよりも、一人一人の人間の個性を見極め、その個性に合った教育をしたり人間関係を築くのは高コストなはずです。そして画一的に扱いたい人には、発達障害を持つ人は邪魔者のように感じられるでしょう。発達障害者には、その高コストに見合ったリターンがあると反論されるでしょうか?でも、そういう問題じゃないんです。コストとかリターンとか真実とか論理とかモダンとか関係ない、合理的でもなんでもない気持ち、ただ一人一人の人間がその人らしく幸せを追求できる社会であって欲しいという気持ちの中にこそ発達障害の人の負担が減る道があるのだと私は思います。共感で正しくないものを正しいと信じてるって反感を覚えるだけじゃ駄目だと思います。その正しくない思い込みによって自分がどこかで救われる場合もあるのではないでしょうか。まあ親学の発達障害の部分は差別を助長するだけで誰も救わないと思いますが。
それとマジョリティも、意味不明で困ったり、同調を求められて苦しい事もあるんです。同調しない場合もありますし、演技をする場合もあります。どっちも発達障害の人ほどではないにしろストレスを感じます。でも自分と人は違うと言うことがわかっているので、お互いにお互いの価値観を受容し合ったり、都合の悪い部分は隠し合ったりできるんです。空気が読めないとか演技ができないとかルールが守れないとかルールを厳密に守るとかそういう不器用さも受容できるんです。ただ相手に受容の気持ちが感じられない人、自分の心を表現しない人なんかを受容するのは難しいんです。私がなんとかしてあげなきゃって物好き以外。
すいません。長くなりすぎました。
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皆さんもソースを読むときに、行と行の間を読むような気持ちで見てほしい -- あるハッカー
未就学児 (スコア:0)
未就学児の状況についても注視すべき状況なのでしょうか?
幼稚園は文科省、保育所は厚労省と管轄が異なっていますが、
それによる温度差なんかはあるのでしょうか?
厚労省ルートもあるのでしょうか?
親学は色々と受け入れがたい物がありますけれど、
特に発達障害に関する価値観は受け入れがたいです。
あのようなものが保育(福祉)に影響を及ぼさない事を願います。
> 右でも左でもモダンを拒否して「共感」すれば似たようなものになるから。
この文から「共感」って言うものに否定的なものを感じるのですが、考えすぎでしょうか。
私が、親学を受け入れがたい理由の1つに、発達障害を持つ子供への「共感」があります。
「発達障害は脳の器質が要因」というのを信じているというのもありますが、
その知識を持っている自体は、こうやって文章を書くというような行動に移す動機にはなりません。
「共感」がなければ、しょせんは行動するに足りない他人事なんですよね。私にとっては。
Re: (スコア:1)
未就学児の状況についても注視すべき状況なのでしょうか? 幼稚園は文科省、保育所は厚労省と管轄が異なっていますが、 それによる温度差なんかはあるのでしょうか? 厚労省ルートもあるのでしょうか?
未就学児も問題になっているので、昨今の報道になっています。 「親学アドバイザー」という私的な資格があり、 幼稚園・保育所の職員も取得しています http://oyagaku.org/advisor/acquire.php [oyagaku.org]。 多い地域では親学を推進している政治家がいます。 埼玉は上田知事、愛知は河村名古屋市長、大阪は維新。
厚労省への目立った影響は私の知るかぎりではありません。 注意が必要なのは官邸です。 首相自身が親学推進議員連盟の会長ですし、 官邸の「教育再生会議」の流れで文科省が使われている状況とみています。
親学は色々と受け入れがたい物がありますけれど、 特に発達障害に関する価値観は受け入れがたいです。 あのようなものが保育(福祉)に影響を及ぼさない事を願います。
私学教員
Re:未就学児 (スコア:0)
厚労省ルートがなさそうなのは安心しましたが、
保育所に「親学アドバイザー」資格取得者がいるのは懸念材料ですね。
推進してるのがが知事や市長も嫌ですが、府議や市議の第一党ってのも相当嫌です……。
共感というのは、そもそも保育のキータームでもあります。
だからこそ「親学」が入り込みやすい下地があるとも言えるかもしれません。
気をつけないと。
確かにマジョリティの共感を押しつけられると苦しいと思いますが、
発達障害側が自身の価値観を強硬に主張する場面ではマジョリティもストレスを感じます
またマジョリティ側は常識だの普通だので押し切れる場合も多いですが、
その場合にもストレスを感じます。妥協ではなく一方的に自身の価値観を貫くのは楽しい事ではないんです。
(もちろん両者でストレスを感じる場面の数はかなり違うと思います)
性質から言えば相手を受容しやすいのはマジョリティの側でしょう。
ああ自分とは考え方が違うんだ、面倒くさいけど言いたい事はわかるって事、結構多いと思うんです。
また、マジョリティは真実や成果だけではなく、努力や気持ちといったものも評価の対象にします。
非合理的と思われるかもしれませんが、これもまた発達障害の人を受容できる下地であると思います。
でも自分の主張を一方的に貫き通すのもストレスですが、一方的に折れるのもストレスです。
やはり妥協点というものが必要だと思います。ただし、それは真実や論理の正しさを追求する行為ではありません。
発達障害の人の主張には、その特性ゆえに、視点が足りない可能性、
必要な視点を排除している可能性が十分にあります。
固執するなとは言いませんが、そこに自覚的であって欲しいとは思います。
そうやって発達障害の側も頑張っても妥協点を探しても、
認められるのは、「そういう人もいる」ってそれだけかもしれません。
自分たちは正しいのに……って思うかもしれません。
でも、発達障害の人は、自分とは相容れない価値観の人を「そういう人もいる」って認められるでしょうか?
マジョリティが発達障害の人を受容できるのは発達障害の人とは違う特性を持っているからじゃないでしょうか?
果たして発達障害を持った人が多数派なら、発達障害の人に優しい社会ができるのでしょうか?
私はそれには疑問を持ちます。
極論で本意でもありませんが、社会運営という視点で合理的に考えれば、
マジョリティと発達障害の人がお互いに負担が少ないように社会を変えるより、
発達障害という個性を認めずに、その原因を家庭の躾に求め、
発達障害が社会に適応するよう求め(或いは社会不適合者の烙印を押し)
発達障害側に一方的に負担を強いた方がコストや効率は良いのではないでしょうか?
少なくとも人を画一的に扱うよりも、一人一人の人間の個性を見極め、
その個性に合った教育をしたり人間関係を築くのは高コストなはずです。
そして画一的に扱いたい人には、発達障害を持つ人は邪魔者のように感じられるでしょう。
発達障害者には、その高コストに見合ったリターンがあると反論されるでしょうか?
でも、そういう問題じゃないんです。
コストとかリターンとか真実とか論理とかモダンとか関係ない、合理的でもなんでもない気持ち、
ただ一人一人の人間がその人らしく幸せを追求できる社会であって欲しいという気持ちの中にこそ
発達障害の人の負担が減る道があるのだと私は思います。
共感で正しくないものを正しいと信じてるって反感を覚えるだけじゃ駄目だと思います。
その正しくない思い込みによって自分がどこかで救われる場合もあるのではないでしょうか。
まあ親学の発達障害の部分は差別を助長するだけで誰も救わないと思いますが。
それとマジョリティも、意味不明で困ったり、同調を求められて苦しい事もあるんです。
同調しない場合もありますし、演技をする場合もあります。
どっちも発達障害の人ほどではないにしろストレスを感じます。
でも自分と人は違うと言うことがわかっているので、お互いにお互いの価値観を受容し合ったり、
都合の悪い部分は隠し合ったりできるんです。
空気が読めないとか演技ができないとかルールが守れないとかルールを厳密に守るとか
そういう不器用さも受容できるんです。
ただ相手に受容の気持ちが感じられない人、自分の心を表現しない人なんかを受容するのは難しいんです。
私がなんとかしてあげなきゃって物好き以外。
すいません。長くなりすぎました。