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実は、意味解析におけるフレーム問題は、30年以上停滞したままなのです。prologやLispを使ったルールベースの論理型の人工知能の研究がとん挫して下火になったのは、自然言語解析における意味解析でこのフレームも問題を論理的に処理することができなかったからである。現在主流なのは、意味解析そのものをあきらめて、単語の羅列のパターンからパターン解析でテンプレートに従って特定の動作を行うようにしたものです。パターンマッチングとテンプレートの適用だけなので、システムが意味を理解して判断しているわけではないのです。要するに、常識とか関連知識による裏付けが何もない状態で、機械的に動作しているだけなのです。この段階ではパターンに対応するテンプレートは人間が作らなければならないので、人間を超えることなどできないのである。
つまり、人間を越えうるようなモノは、できたとしても人工知能ではない(現代の基準で人工知能とは呼べない)モノであろう、ということかな?
これは宗教やSFの文脈でもしばしば指摘されるところで、(ふつーの)人が語る知性とは、人の知性の枠内、延長線上でしかないんですよね。人より計算が速いとかよりミスをしないとかいう尺度は結局「すごいヒト」でしかなく、ヒトの枠を超えた知性は測れない(というかそれを知性と感じない)
ヒトから見て下位にあたる知性について語るのはともかく、ヒトを超えた知性とは、ヒトから見たら理不尽、非合理的、支離滅裂に写る可能性がある。しかしヒトはそれが「ヒトを超えた超知性」と判断することはできず、「なんか未熟だな」とか「狂っている」としか評価できない
> 「目の前の餌にかみついて全て飲み込む」ことしか知らない生物は、「自分より素早くかみつき漏れなく飲み込む」ことを評価できるが、「後のために一部残しておく」という選択肢を誤りか狂気としか把握できないのだな。
「感情とは何かね?」「私の意見では、感情とは定型化された行動パターンで、それが生存価を持つことが証明されたために自然淘汰を通じて強化されたものだ。明らかに怒って闘ったり怖がって逃げたりする動物は、何もせずに食われてしまう動物よりも無事でいる可能性は大きい。」(JPホーガン、「未来の二つの顔」。マーヴィン・ミンスキーも協力した超有名なAI物ハードSF
たとえばAlphaGoに関して言えば、「囲碁に勝つ」ことが「本能」で、それ以上の機能は実装されてない。なので、AlphaGoが打つ個々の手が理解できようとできまいと、最終的に囲碁に勝利する確率を見ることで、その行動が知的であるかどうかは評価できる。
結果に知性を感じる事ができれば、それは知性があると呼んでもかまわない vs知性って結果だけじゃなく課程が重要
・・・俺は後者を推したいね。結果よけりゃいいじゃんって考えは受け入れづらいんだ。
結果より過程を重要視すると、雨が降るまで雨乞いし続ける巫女さんの方が、天気予報を司るスパコンや気象予報士より知的ってことになりかねない。
結果を伴わない過程に、いったいどれほどの価値があるというのだろう。
結果を伴わない過程自体に価値があるという信念は、もはや単なる迷信ではないだろうか。
無理筋な方向に誘導して何がしたいんだろうなあ
結果が伴わないものとして雨が降るまで祈祷する巫女さんを例に挙げてるけど、ミコスキーとしては許さざるべき事態であると言わざるを得ない。冷却ファンが唸る部屋に鎮座ましましてるラックの列を掃除のおばさんこねーかなーって死んだ目で眺めるよりも、巫女さんが僕たちのために雨が降ってくれるよう一所懸命雨乞いをしている姿の方を見たいだろう?
見たく無い? じゃこの話はもうここで終わりだ。いいか?もう一度いうが、雨が降ろうが振るまいが、あのスリットから見え(銃声
# 伊勢型改二早く来ないかなあ _(:3 」∠)_
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長期的な見通しやビジョンはあえて持たないようにしてる -- Linus Torvalds
フレーム問題 (スコア:4, 興味深い)
実は、意味解析におけるフレーム問題は、30年以上停滞したままなのです。prologやLispを使ったルールベースの論理型の人工知能の研究がとん挫して下火になったのは、自然言語解析における意味解析でこのフレームも問題を論理的に処理することができなかったからである。
現在主流なのは、意味解析そのものをあきらめて、単語の羅列のパターンからパターン解析でテンプレートに従って特定の動作を行うようにしたものです。パターンマッチングとテンプレートの適用だけなので、システムが意味を理解して判断しているわけではないのです。
要するに、常識とか関連知識による裏付けが何もない状態で、機械的に動作しているだけなのです。
この段階ではパターンに対応するテンプレートは人間が作らなければならないので、人間を超えることなどできないのである。
Re: (スコア:1)
つまり、人間を越えうるようなモノは、できたとしても人工知能ではない(現代の基準で人工知能とは呼べない)モノであろう、ということかな?
Re: (スコア:2)
Re: (スコア:2)
これは宗教やSFの文脈でもしばしば指摘されるところで、
(ふつーの)人が語る知性とは、人の知性の枠内、延長線上でしかないんですよね。
人より計算が速いとかよりミスをしないとかいう尺度は結局「すごいヒト」でしかなく、ヒトの枠を超えた知性は測れない(というかそれを知性と感じない)
ヒトから見て下位にあたる知性について語るのはともかく、ヒトを超えた知性とは、ヒトから見たら理不尽、非合理的、支離滅裂に写る可能性がある。
しかしヒトはそれが「ヒトを超えた超知性」と判断することはできず、「なんか未熟だな」とか「狂っている」としか評価できない
Re: (スコア:0)
> 「目の前の餌にかみついて全て飲み込む」ことしか知らない生物は、「自分より素早くかみつき漏れなく飲み込む」ことを評価できるが、「後のために一部残しておく」という選択肢を誤りか狂気としか把握できないのだな。
「感情とは何かね?」
「私の意見では、感情とは定型化された行動パターンで、それが生存価を持つことが証明されたために自然淘汰を通じて強化されたものだ。
明らかに怒って闘ったり怖がって逃げたりする動物は、何もせずに食われてしまう動物よりも無事でいる可能性は大きい。」
(JPホーガン、「未来の二つの顔」。マーヴィン・ミンスキーも協力した超有名なAI物ハードSF
Re: (スコア:1)
たとえばAlphaGoに関して言えば、「囲碁に勝つ」ことが「本能」で、それ以上の機能は実装されてない。
なので、AlphaGoが打つ個々の手が理解できようとできまいと、最終的に
囲碁に勝利する確率を見ることで、その行動が知的であるかどうかは評価できる。
結果に知性を感じる事ができれば、それは知性があると呼んでもかまわない
vs
知性って結果だけじゃなく課程が重要
・・・俺は後者を推したいね。結果よけりゃいいじゃんって考えは受け入れづらいんだ。
Re: (スコア:0)
結果より過程を重要視すると、雨が降るまで雨乞いし続ける巫女さんの方が、
天気予報を司るスパコンや気象予報士より知的ってことになりかねない。
結果を伴わない過程に、いったいどれほどの価値があるというのだろう。
結果を伴わない過程自体に価値があるという信念は、もはや単なる迷信ではないだろうか。
Re:フレーム問題 (スコア:1)
無理筋な方向に誘導して何がしたいんだろうなあ
結果が伴わないものとして雨が降るまで祈祷する巫女さんを例に挙げてるけど、
ミコスキーとしては許さざるべき事態であると言わざるを得ない。
冷却ファンが唸る部屋に鎮座ましましてるラックの列を掃除のおばさんこねーかなーって
死んだ目で眺めるよりも、巫女さんが僕たちのために雨が降ってくれるよう一所懸命
雨乞いをしている姿の方を見たいだろう?
見たく無い? じゃこの話はもうここで終わりだ。
いいか?もう一度いうが、雨が降ろうが振るまいが、あのスリットから見え(銃声
# 伊勢型改二早く来ないかなあ _(:3 」∠)_