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テレビは、根拠のない「塊」「集団」意識を造成しことさらに強調するのに役立っている、という点で責められるべきであるだけではなく、その「塊」「集団」が「国」だけに偏りすぎているという点でも責められるべきだと思います。(同一の話題を提供する、というだけなら、「同じ国の人」ということにただちに結びつくわけではありません)。
つまり、「個」に対する「塊」「集団」は、「国」だけではない。「国」だけであるべきではないのです。むしろ、国は、人が属する様々な集団のうちのひとつにすぎない。人は、地域、年齢層、性別、家族、学校や職場、任意団体、思想信条、宗教、など様々なものに同時に属しているのです。そのなかで、「××国人である自分」だけがホンモノで、あとの「男性/女性である自分」とか「××会社に勤める自分」とか「××語をしゃべる自分 (これは日本においてはほぼ一致しますが)」とかは仮の姿なのでしょうか? そんなことはないはずです。もちろん、それとは別に、「自分は自分」という個人も存在する。
テレビの本質がその中央集権性にあるのだとすれば (技術的な観点からのみその中央集権性を改めようとしても [たとえば多チャンネル化]、それはテレビじゃなくなってしまう)、その権力を (国だけが独占するのではなく) いかに分散させるか、ということが課題になります。「国」に対する「個」の優位とまではいかなくとも、せめて、「国」以外の様々な集団が「国」と対等の立場くらいにならないものか。テレビの中央集権性がもしその役に立つなら、それはそれで悪いことではないと思うのです。が、もしそれが不可能なのなら、解体されてしまうべきだということになるでしょう。
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長期的な見通しやビジョンはあえて持たないようにしてる -- Linus Torvalds
単にメディアのハードの問題ではないと思う (スコア:3, 興味深い)
対してインターネットとは自分が見たいものしか見ないよ、とか、使いたいから使う、とかいう「個人個人をつなぐ」メディアだと思うんですね。ネットで作られた一体感もあって、これは国家とかが公認したものじゃなくてもできちゃうし、全く価値観や世界観の違う人たちどうしを簡単に結びつけてくれます。これは放送ではできないことだよね。
つまり、この両方があって、はじめて国という固まりも、個人の自由というものも、バランスが取れるようなものじゃないかな?
つまり、メディアとしては全く性格が違うものだと思うわけですね。技術的にではなく、文化的にね。
このおっちゃんはこういうことを言いたかったのではないかと思うな。そして「放送の視聴者」がそれを聴取する時間を減らしている、ということはこのバランスが崩れるから、放送を維持できる経済力が放送事業者になくなってくるかも知れないのが心配、ということだと思うわけです。
つまり、放送の衰退があるとすれば、それは人間の集団のまとまりをバラバラにしてしまう可能性が「加速度的に」高くなる可能性を含んでいる、ということだね。
でも、私は別にどっちでもいいと思う。むしろ、今までは放送というものに、個人の権利が侵害され続けてきたから、むしろこれは良い傾向であり、推進すべきと思います。意識して推進すべき、と思うわけですね。こういうことを。
肥大化した「放送事業者」がいまや日本の政治を決める、といっても過言じゃない、というこの状況は、やはり異常と思う。Y社のグループはじめA社のグループとか、みんなそういう利権の上にあぐらをかいてやり放題でしょ。そろそろ引退してもらってもいいと思うよ。
「国」だけが「集団」ではない (スコア:2, すばらしい洞察)
テレビは、根拠のない「塊」「集団」意識を造成しことさらに強調するのに役立っている、という点で責められるべきであるだけではなく、その「塊」「集団」が「国」だけに偏りすぎているという点でも責められるべきだと思います。(同一の話題を提供する、というだけなら、「同じ国の人」ということにただちに結びつくわけではありません)。
つまり、「個」に対する「塊」「集団」は、「国」だけではない。「国」だけであるべきではないのです。むしろ、国は、人が属する様々な集団のうちのひとつにすぎない。人は、地域、年齢層、性別、家族、学校や職場、任意団体、思想信条、宗教、など様々なものに同時に属しているのです。そのなかで、「××国人である自分」だけがホンモノで、あとの「男性/女性である自分」とか「××会社に勤める自分」とか「××語をしゃべる自分 (これは日本においてはほぼ一致しますが)」とかは仮の姿なのでしょうか? そんなことはないはずです。もちろん、それとは別に、「自分は自分」という個人も存在する。
テレビの本質がその中央集権性にあるのだとすれば (技術的な観点からのみその中央集権性を改めようとしても [たとえば多チャンネル化]、それはテレビじゃなくなってしまう)、その権力を (国だけが独占するのではなく) いかに分散させるか、ということが課題になります。「国」に対する「個」の優位とまではいかなくとも、せめて、「国」以外の様々な集団が「国」と対等の立場くらいにならないものか。テレビの中央集権性がもしその役に立つなら、それはそれで悪いことではないと思うのです。が、もしそれが不可能なのなら、解体されてしまうべきだということになるでしょう。
放送というメディアは Re:単にメディアのハードの問題 (スコア:1)
今回のニュースを見て、放送業界は、自己保身の体質から抜け切らないようですね。
放送というメディアは、その危険性を多くはらんでいます。第二次世界大戦時のメディアってそうだったでしょう。それを一方向から押し付ける・・・換言すれば、自分たちだけが正義と考える。近年、ニュース番組で、世論調査をやっているようですが、それも本当に公正な意見の吸い上げでしょうか?
事件の場合、加害者の人権しか考慮しない・・・完全な方手落ちですね。
特に民放においては、視聴率のためにはコンテンツ(手段)を選ばない的なところを懸念します。コンテンツと技術とは、分けて考えて欲しいですね。
>みんなそういう利権の上にあぐらをかいてやり放題でしょ。
>そろそろ引退してもらってもいいと思うよ。
異論ありません。