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アレゲは一日にしてならず -- アレゲ見習い
へぇ~x20 (スコア:1)
東京銀行と横浜銀行は両方とも地方名がついてる銀行だけど、
両者はぜんぜん違う形態の銀行だったんですね。
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Re:へぇ~x20 (スコア:1)
なんてのは昔よくあったそうです(w
取引顧客層も、富裕層が多くそういう意味で興銀や信託銀行と重なる部分もありましたが
地方名がついているのに、地方銀行ではない銀行としては、他に以下のようなものがあります
・旧埼玉銀行 都市銀行。埼玉りそな銀行も特例都市銀行
・旧北海道拓殖銀行 戦前は特殊銀行。戦後は都市銀行(経営の一部を日本長期信用銀行に譲渡)。実態は地方銀行に近かった。経営破
おひさしぶりっ (スコア:1)
横浜正金銀行といえば、あの永井荷風がNYとリヨンで勤めていた銀行ですね。
なるほど、昔はそういうボンボンの受け皿でしたか。。。その流れで
荷風もいたということでしょうかねぇ。
--- 天婦羅★三杯酢 temp@sunbuys.co.jp ---
Re:おひさしぶりっ (スコア:1)
考査担当や海外勤務はエリートが配属されていて、とくにニューヨーク支店は重要支店なので幹部候補にとってはエリートコースですね
リヨンは工業都市でもあるのですが、領事館が置かれていたのと横浜正金銀行の支店が置かれた重要拠点(パリよりも先にリヨンに支店が置かれた)だったので永井荷風も派遣されたのでしょう。というのは、当時のリヨンはフランスの金融の中心地で、ヨーロッパの金融センターでもありました。横浜正金銀行は、貿易銀行(言ってみれば両替屋・為替屋)であると同時に、外貨調達や外貨建て日本国債・債券を発行する投資銀行でもあったので、こういう拠点は当時は重要だったのだと思います。何しろ、国内の官営工場建設や国鉄路線建設だけでなく、日清・日露戦争の戦費はほとんど外国での債券発行で賄っていたほどですし
#リヨンは横浜と姉妹都市です
ちなみに、リヨンの銀行で有名なのが、先ほどクレディ・アグリコルに吸収された旧四大国有銀行の一つのクレディ・リヨネです。第二次世界大戦後に国有化されたのですが、実は本店はリヨンではなくパリにあります。本店がパリに移転したのは1878年のことで、その歴史の大半はリヨンに本店を置かなかった銀行だったりします
Re:おひさしぶりっ (スコア:1)
多分横浜正金は日本にとって非常に重要な銀行だったでしょう。
ただ、永井荷風という人は、あまり実業には向かなかったらしく、
NYの時も支店のお荷物扱いだったらしいです。
だけど、頭取(かな?)の知り合いの子息ということで守られ、
本人の「とにかくフランスへ行きたい」という希望もリヨンへという
事でかなえられたということです。
リヨンへの辞令を渡される時に荷風は「馘首の宣告だろう」と覚悟して
いたそうです。
フランスはパリ一極集中だとか言われますが、金融とか産業に関しては
リヨンもそれなりのチカラがあったと言うことでしょうか?
--- 天婦羅★三杯酢 temp@sunbuys.co.jp ---
Re:おひさしぶりっ (スコア:1)
絶対王政が確立した時期になると、商品経済が高度に発達し、金融の重要性が高まっていきますが、しばしば王国はリヨンなど金融都市で年金型国債を発行しています。これは、元本の一括返済がない代わりに、年金方式で元本部分と利子部分を償還する方式の国債で、近世に入ると大陸諸国でも一般的に発行されるようになりました。ただ、当時の王権の信用は著しく低く、償還終了までの期間が長かったために、国債や債券を取引する市場が発達しました。今で言うジャンク債ブームが何度もおきたため、王権はしばしば先物を含めた投機を禁止する勅令を出しています
フランスの金融市場が、パリに一極集中するようになるのは、革命後の19世紀に入ってからで、国家による経済への介入が強まるのは19世紀半ば頃だと思います。実例としては、イギリスとアメリカではこの時期鉄道に対する投機が発生し、いくつかの金融機関が破綻していますが、フランスでは鉄道建設を工兵隊が行うなど、国家主導の産業インフラが進められました
クレディ・リヨネはこの時期に設立され、第三共和制下の20世紀初頭には世界最大の金融機関となりました。この頃にはすでにパリに本店が移転していたのですが、この頃には四大国有金融機関となるBNP、パリバ、ソシエテ・ジェネラルなどが巨大な勢力を誇っていました。一方で、財閥による強力な産業支配が定着していたのもこの頃で、植民地の拡大に伴い世界的に進出する金融機関も現れました。たとえば、現在欧州最大の金融機関であるクレディ・アグリコルと合併したインド・スエズ銀行という金融機関がありますが、これはイギリスの香港上海銀行と同様に、植民地銀行として発展した銀行の一つです(インドはインドシナ、スエズは中東を意味)
こういった体制が崩壊するのは、第二次世界大戦後に成立した第四共和制のことです。ナチスによる傀儡政権であったビシー政権は、多くの財閥が協力したことで知られますが、第四共和制の主導権を握った元パルチザンによる強烈な拒否に遭い、戦後のフランスの経済システムの特徴となった産業と金融の国有化が断行されました。この時期に四大商業銀行も国有化され、国内では圧倒的な勢力を誇るものの、国際的にはこじんまりとした金融機関となってしまいました。社会主義的な指令経済とまではいかなくても、金融機関は政府による統制を受ける組織と化しました
この時期に四大国有銀行のほかに発達した金融機関として、農協の中央系統的金融機関(日本で言う農林中央金庫)として発達したクレディ・アグリコルがあります
こういった金融に対する国家の支配も、1980年代からの金融自由化・グローバル化の波を受け、90年代半ばから国有金融機関の民営化が行われました。クレディ・リヨネも、その例外ではなく、90年代後半に事実上の経営破綻と、政府による公的資金の注入を経て民営化され、先ほどクレディ・アグリコルに吸収合併されました