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聖典の日」記事へのコメント

  • たぶん同じの読んだ事あるけど「イエスさん大暴れ」って感じですねぃ。
    # 宴に呼ばれて「もまいらパリサイ人は形式ばかりだ」とか言ってみたり。
    • >イエスさん大暴れ

      私が読んだのは旧訳聖書の方(イエスが生まれる前の話)ですた(^^;
      一言でいうと、「正しい人にも苦難は来て、そんなときでも神様を
      "正しく"畏れ敬わないといけないよ」という感じですかねぃ☆

      旧訳
      • >私が読んだのは旧訳聖書の方(イエスが生まれる前の話)ですた(^^;
        あ、ちがいましたか。

        >昔の神様は元気というか感情豊かというか...
        んー。私ゃ「今より人間が傲慢だった」からなんじゃないかと思うナ。
        もっとも、傲慢だったからこそ宗教として力を持てたわけなんだけど。
        例えば人格神を認めないとするとその宗教には救いがないからね。

        でも人格神、特に唯一神な宗教では善悪の判断と責任が他律的なので、いつまで経っても現実は救いがないままで、宗教なんてものが必要になる悪循環なんじゃないか。

        と、そんな風に思ったりします。
        親コメント
        • 昔の神様が元気いっぱいだったのは、昔の人間が元気いっぱいだったから、っていう意味ですか?
          私には傲慢さかどうかを時系列で評価することができないのですが
          (時系列上にあるという点からも、他人を評価する能力に欠けるという点からも)
          神様も人も、宗教自体にも力があったということですか。。

          宗教が必要かどうか、とか、宗教の意味について、とかを考えるとき、
          私はいつも、宗教と信仰の関係/違い/etc・・・についての
          自分の無知とか曖昧さにつまづいてしまって、考えがなかなか
          展開できないのです。。

          自分一人の問題だと信仰で、システムが宗教?
          だとすると、システム(社会とかコミュニティ)が健全であれば、神様の人格とコミュニティの人格は別なところにあって、うーん
          ますます宗教は必要なのかも。
          #コミュニティとして、という意味で
          親コメント
          • >昔の神様が元気いっぱいだったのは、
            昔は人が無力で、それゆえに/その分神様と宗教に力があったという意味です。
            それとは別に、人が無知ゆえに人自身を絶対的な存在と捉えていた(ここが傲慢)から神様が人格を持ったんでしょう。
            あるいは逆に、当時の人々には人格神をもつ宗教でないと理解できなかったり、ちっとも魅力的でなかったりしたので人格伸を持つ宗教が残ったのかも知れません。

            >宗教と信仰の関係/違い
            信仰は個々人の世界解釈の一種で、宗教は特定の信仰のミームが流布している集団だと考えています。
            例えば預言者の信仰のミームが宗教といった具合に。
            この辺の言葉の定義は各自異なるでしょうから、使う前に定義しないといけないかもです。
            で、重要なのは預言者の信仰は共有されない点です。
            #「神の御名の下に」なされてきた事をちょっとでも知ってればこれがどういうことかはわかるんじゃないかと。

            それから、原罪は死ぬ事そのものなんじゃないかと思います。
            # 原罪が「入る」前は死ぬ事はなかったとされてるんじゃなかったっけ?
            # だから、逆接的に「人が何故死ぬのか」の単なる説明が原罪というわけ。
            親コメント
            • ユダヤ神話(創世記三章)では、原罪は「神と同じように」善悪の判断ができることです。
              知恵の木から実を取って食べたことで身に付けたものです。
              神は「食べたら死ぬ」と脅しを掛けていたのですが、
              蛇がイヴに食べるよう勧め、食べたイヴがアダムに勧めたのです。

              神は、さらに不死にならないよう、生命の木に近づけないよう、
              ケルビム(高位の天使)と炎の剣を置き、アダムとイヴを追放したのです。
              「土は土に、塵は塵に、灰は灰に」という祈祷文を聞いたことがありませんか。
              すなわち、最初から死すべき存在なのです。
              The Book of Common Prayer にある言葉です。

              英語訳や日本語訳だと判らないのですが、
              アラム語(ヘブライ語方言でイエスも話していたとされる)で
              蛇 hewya_ 教える hawa_ イヴ Hawah_ となり、常に「知識」が暗喩されています。
              異端な考え方ではあるのですが。
              親コメント
              • それを承知の上で書いてるんだけどなぁ...それは仕方がないが。
                # その部分にはどんな物語が入っても構わないんだってば。

                物語を排除してみると違う姿が見えてくると思いますよ。
                親コメント
              • 聖書についての話だったから、キリスト教的世界観での「原罪」かと思ってました。
                なので「私の個人的な意見」を書きますね。

                死は苦痛からの開放だと思っています。
                床に伏したまま呼吸するのも辛かった時期、
                死んだ方がよほど楽だとも思いました。
                死んだ後には魂なんてものも残らないと思っていながら。
                生きていること自体とそれを自覚することが苦痛でした。
                けれど、苦痛だからといって、罪に対する罰だとも思いません。
                最初から「そういうもの」だと思っています。
                親コメント
            • >原罪は死ぬ事そのものなんじゃないかと思います。

              私が聞きかじったキリスト教の知識だと、
              人間の原罪は心が神様の方を向いていないことだそうで、
              その説明だと蛇の誘いに乗ったことも、神様を畏れない態度も
              神の子を死なせたことも、納得がいく気がします。

              仏教だと「人には迷いとか煩悩がつきものだから、精進しないと
              いけませんよ」って感じで、根元の探求のところがわりと
              すっぱり抜けていて、こうなっちゃったのはしょうがないから、
              ちょっとでも楽になる方法を考えようってしてるのかなあー
              なんて勝手なイメージを持っています。
              親コメント
              • by Ragamuffin (14676) on 2005年01月16日 7時45分 (#679745)
                > 仏教だと(snip)根元の探求のところがわりとすっぱり抜けていて

                当然といえば当然です。
                今の日本の仏教はわけわからないことになっていますが、
                「絶対的なものなぞ存在しない」の一言に尽きますから。

                そして仏教では煩悩も否定してはいません。
                他の生命を奪わなければ餓死して個体存続ができなくなりますし、
                性を否定してしまえば種の存続ができなくなります。
                だからそれらは全然悪いものではないと考えます。

                ただ、仏教が否定しているのは「煩悩にとらわれること」です。
                たとえば座禅で空腹や眠気を感じても構わないけれど
                それに心をとらわれるな、って感じです。

                また、性善説的であることもキリスト教と大きく異なります。
                仏教の視点から見ると原罪なんてものはないのです。

                キリスト教の原罪については
                傲慢で妬む神への抵抗を抹殺する考えだと思います。
                それが罪だとは私には思えないのです。
                「心の目が開かれた」のを神が妬んだことに抵抗してどこが悪い、と。
                ええ、異端だってことは判っています。
                政治の道具として使う時に便利な考え方だったのですね。
                「宗教なんて政治の道具に使われるのでろくなものでない」
                という主旨のことを言ったのは、他ならぬナザレのヨシュアなのですが。
                親コメント

普通のやつらの下を行け -- バッドノウハウ専門家

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