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弘法筆を選ばず、アレゲはキーボードを選ぶ -- アレゲ研究家
オープンモデルの品質保証 (スコア:3, 参考になる)
Mercury News 12/11
この記事では、Mike・Langberg氏によって、既にWeb上では多くの人の力で優良なものが作り出される事を保証する仕組みが動いている、と指摘されています。 [mypress.jp]
複数のオープンソース・ソフトウェア・プロジェクトが、非常に上手く動いている、と。
話の前提
「百科事典」、というのは「reference(参照、参考)」です。例えば教科書に誤記が有れば、子どもはそれが誤りであると判断できない為、誤った知識を覚えてしまう危険性があります。百科事典も同様です。
当然ですが、Web上にあろうと、多くのボランティアによって編纂されていようと、それが百科事典を名乗る限り、それを形作る事には、責任が伴います。
今回の話についてこれだけ怒っている人が多いというのは、「Wikipedia」が「いいかげんな事が書き散らされている掲示板」では無く「百科事典」だと認識されて参照されている、という事実が広がってきている証拠でしょう。
今の段階では、内容が「百科事典」のレベルだとは思えない記述は沢山あります。今回のように冗談を書き込むことも可能ですし、悪意を持って人を誹謗中傷する事も可能です。
現在、新しい記事を書くための資格は「登録メンバー」のみに限られる事になっていますが、間もなく書き換え戦争が起きている項目に対する「遅延モード」や読者による「品質評定ボタン」も導入されるそうです。でも、多分それでは記事の品質は保てない、とこの記事は語っています。
Web上では、誰でも自分の意見を言うことが出来ます。
それは万人に認められる権利です。
でも、それは百科事典の編纂に求められる見識を、百科事典に求められる文章の水準を、そこに文章を書く全ての人が持っている事を保証しません。また、多数の人間が事実だと思っている事が、「正しい情報」だという保証は一切ありません。多数決は、正しさを保証しないのです。
記述を監視し、それを取り締まっている人間に関しても同様の事が言えます。本質としては、「私が見張っているので大丈夫」、と自分で語る事は無意味なのです。Web上で必要なのは、「あの人が見張っているなら大丈夫」という、自己以外の多数の人達による信頼の付託です。今の「Wikipedia」には、それが存在しているでしょうか?
大切なことは、大勢の人が安心して使える「百科事典」を提供すること。そしてそれが発展してゆくのを妨げないようにすること。そうだとしたら、「gatekeeper」モデルをプログラム開発モデルから借用せよ、というMike・Langberg氏の提案はとても示唆に富むものだと思えます。 百科事典に第一に求められる条件は、「誰でも自由に書ける」事では無いはずですから。
オープンソース・ソフトウェア・プロジェクトにしても、上手くいっているものばかりでは無い、という事は知られています。でも、今の「Wikipedia」よりは、遙かに安定した良質な物が提供される事が期待できるなら、考慮しても損は無いと思いますが、どうでしょう?
# いい加減な項目が山のようにある本に、自分の文章を追加したがる人は多くないです
Re:オープンモデルの品質保証 (スコア:5, 参考になる)
実はそもそも順番が逆なんですよ。Wikipediaは、そういう「品質保証」を第一に考えたNupedia [wikipedia.org]プロジェクトの失敗を踏み台にして生まれたものなんですから。
「ウィキペディアの信頼性」について批判している人の大半が考えてるような伽藍方式のシステムというのは、すでに実験された上で「少なくともその当時は」記事が全然集まらず上手くいかなかったことが「既に実証済み」なわけです。ウィキペディアの現在のシステムというのは、その反省を踏まえた上で敢てバザール方式を選択して記事を集めることを重視する方針に切り替えたわけです。
その結果として、「質」はともかくとして記事の「量」について(少なくとも英語版は)かなりのものが集まった。その点は成功した部分として評価すべきでしょう。
ただ、確かに現在のシステムでは「全体として見ると」品質がかなり低くなってしまっている、というのは致命的な欠点だと言えます。ただ忘れてならないのは、Wikipediaの文書というのはGFDL下で公開されてるので、もしかしたらNupedia、Wikipediaの次に用意されるかもしれない、新たなピアレビュー付きのオンライン百科事典プロジェクトが立ち上がるときに、その叩き台として再利用することも可能なわけです。もちろん、wikipediaよりも優れた内容が書かれたサイトはネット上にごろごろしています。けれども著作権の問題をクリアすることなく、それを「自由」に扱うことはできませんし、またそれぞれの作者に対して個別にライセンス許諾を求めることも実際問題として不可能です。現在のWikipediaは、まさに「情報を発信するところに情報が集まる」の典型で、GFDL利用可能な文章を蓄積する場所として有効に機能しています。このあたりはまさに自由利用ライセンスならではの利点だと言えるでしょう。
それが果たして、wikipediaの標榜する「百科事典として」どうなのか、という点については評価が大きく分かれるでしょうが、少なくともそういう面で「価値があるもの」になっていることは評価できると思います。
Re:オープンモデルの品質保証 (スコア:0)
Re:オープンモデルの品質保証 (スコア:2)
参考までにWikipediaでの記事 [wikipedia.org]も。
(昔誰かがタレ込んだはずだけれど、記事が見つからず)
Jimmy・Wales氏自身の見解 (スコア:0)
でも、Wikipediaというものがどういう物なのか、という事についても、
もしかしたら認識されていないかもしれない、と思います。
Wikipedia's Chief: Don't Quote Us [businessweek.com]
私は、個別の水準の高い記事では、既にピアレビューは成立していると見ている人です。私自身の要求水準は引用した記事の著者と同程度なので、品質保証としてはそれで十分だと思っています。でも現在は、それは制度的に保証されているものでは無いですから … 記事をリンクしたら、改変されていないかどうか定期的に見回るという仕事
Re:オープンモデルの品質保証 (スコア:1, 興味深い)
現在のWikipediaの規模を考慮すると、Linuxのように最終的な管理が少数のメンバーに大きく依存するような体制は無理だと思います。しかし、例えばFreeBSDの少数のcore team+多数のcontributerのように、信頼できる者であれば自由に参加できる(信頼を得ていない者は信頼を得る努力をしなければならない)ような体制で開発しているププロジェクトは多数あるわけで、Wikipediaもそういった方向に進むべきなんでしょう。
もし、Wikipedaがすでにそういう体制になっているならゴメンナサイです。
Re:オープンモデルの品質保証 (スコア:0)
>Web上で必要なのは、「あの人が見張っているなら大丈夫」という、自己以外の多数の人達による信頼の付託です。
「あの人」の信頼性が多数決に依存するってのは「多数決は正しさを保証しない」ってのと矛盾するんでない?
それとも物事が分からん奴が直接審査するよりは、分かってそうな奴に委任して間接的に審査した方が良いって話?
Re:オープンモデルの品質保証 (スコア:0)
実際には、現在でも登録して同じ記事を継続的に編集している執筆者達の間では、それは既に成立してるんですけどね。また、今は登録していなくても記事は勝手に書き換えられますから、例えば、自分が読んでリンクした後にその記述が悪意を持って改変されない保証なんて、ま
Re:オープンモデルの品質保証 (スコア:0)