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> #それにしてもなぜ日本では愛国者は目の敵にされるんだ? この枝の伸び具合を見るに確かに仰る通りですね。^_^; やはり戦後教育の影響が大きいと思います。 そしてその始まりはアメリカの政策だったのですが…。 # 50年も経てば他人のせいにはできませんが。
『神のもとに』の捉え方ですが、政教分離の原則に反しているかといえば 一概にそうとも言えないと思います。正教の『教』とは教義であって信仰自体を指すものではない。 教義の違いは対立を生むけれども、信仰する精神は政(まつりごと)の基本です
信仰と政治を一致させるというのは人類の知恵だと思うのです。 本来政治というのは利害対立の調節であり、人と人の対立の狭間にあるもので、 その熾烈な争いの只中にいる人間の行動は足の引っ張り合いにならざるを得ず、 環境問題や国際問題といったグローバルな課題に対して 優れた解を与えることができないのはあらゆる歴史が証明しています。 その低きに流れる抗い難い力に対抗するためのシステムとして 多くの社会が採用してきたものが政治の中心に信仰を据えるというものです。 アメリカでは議会や裁判、大統領就任などにおける聖書の前での宣
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アレゲは一日にしてならず -- アレゲ研究家
アメリカ人としては (スコア:5, 参考になる)
国旗に対する「忠誠の誓い」と直訳すると、すごく日本人には抵抗を感じる表現になるとおもいますが、現地のニュアンスでいうと、「自由と平等の国であるアメリカの一員であることを誓う」というかんじで、アメリカが自由でなくて平等でもなければ抗議をするという信条を思い出させてくれる、なかなか良い文章なのです。
今回の裁判をおこした人も、そういうアメリカの主権を尊重して、自らの信ずるとおりに行動したのでしょう。
問題となったのは、最後の部分にある、"one nation, under God" で、「神のもとに一つの国」という 195
Re:アメリカ人としては (スコア:1, すばらしい洞察)
> #それにしてもなぜ日本では愛国者は目の敵にされるんだ?
この枝の伸び具合を見るに確かに仰る通りですね。^_^;
やはり戦後教育の影響が大きいと思います。
そしてその始まりはアメリカの政策だったのですが…。
# 50年も経てば他人のせいにはできませんが。
『神のもとに』の捉え方ですが、政教分離の原則に反しているかといえば
一概にそうとも言えないと思います。正教の『教』とは教義であって信仰自体を指すものではない。
教義の違いは対立を生むけれども、信仰する精神は政(まつりごと)の基本です
Re:アメリカ人としては (スコア:1)
歴史的に見ればそうですが、今現在の政(まつりごと)においてもその考え方でいいのかどうかかなり疑問です。
>政治に祭り(祖先や倫理観との語らい)がなければそれは乱れる。
でも、やはりその「祭り」というのは宗教的価値観にかなり影響されますよね?
少なくとも「政治」に比べれば「宗教」との結びつきの方が強い場合がほとんどではないでしょうか。
>正教分
うじゃうじゃ
Re:アメリカ人としては (スコア:1)
信仰と政治を一致させるというのは人類の知恵だと思うのです。
本来政治というのは利害対立の調節であり、人と人の対立の狭間にあるもので、
その熾烈な争いの只中にいる人間の行動は足の引っ張り合いにならざるを得ず、
環境問題や国際問題といったグローバルな課題に対して
優れた解を与えることができないのはあらゆる歴史が証明しています。
その低きに流れる抗い難い力に対抗するためのシステムとして
多くの社会が採用してきたものが政治の中心に信仰を据えるというものです。
アメリカでは議会や裁判、大統領就任などにおける聖書の前での宣
Re:アメリカ人としては (スコア:1)
>各人の宗教的価値観に左右されると思います。それは悪いことではないと思います。
はい、別に悪いことではありません。
というか、よい/悪いというレベルで判断をすべきではないと思います。
よりスムーズである程度多くの人が納得できる「手段」について論じているだけですから。
>そして教義とは得てして派閥を構成するものであり
かといって、「祭」の部分なら共通の基盤を持てると考えているならかなり違うと思います。
むしろ地域性などが目立ってくると思います。日本国内での地域による差というのは日本と外国の違いに比べれば小さなものでしょうが、だからといって必ずしも共有できているともいえません。
明治以前は外国の存在を意識する人などほとんどいなかったでしょうし、意識の上での「日本人」というものは「標準語」のように歴史的に見ればつい最近のものだと考えています。
結局、「仲間」として意識を共有できるのは「仲間じゃない」人間の存在があってこそなんだよなあ。
>現代の多くの国家で政教分離が実践されていることは周知の通りです。
>しかし教義と信仰は不可分のものではないことは実感として理解できると思います。
>つまり「教」を強制せずとも祭りの精神を維持することは十分に可能です。
本当にそんなことができる可能性があるのは日本と共産主義国だけでしょうね。
イスラム教やキリスト教の世界では「いただきます」のような非常に身近な、日常生活そのものにまでその価値観は入り込んでいます。
「政教分離」なんてのは特定の宗教を支援しない、個人の信仰の自由を妨害しないのが精一杯です。
日本以外の多くの人にとっては宗教的な部分を取り除いていったあとに宗教に依存しない精神的な何かが残っていると考えることはほとんどできないでしょう。
あったとしたらそれは人類の共通基盤であって、国の単位にとどめる必要はないですね。
>> 永遠に決着のつかない論争
>極めて根深い問題ですが、そこを乗り越えていくのが人類の叡智かと。
それを人類の叡智によって解決できると考えるのなら、「政」と「祭」を融合しない方法で人類の叡智による解決の可能性だってあると思いますが。
というか、「祭」に依存していたら仮に国内はまとまったとしても国同士の対立は残ったままになりそうです。
#個人的には会ったこともない天皇や総理大臣なんかよりも
#日本人じゃなくても友人である人の方を大切にしたいです。
#実際、在日の友人もいるので。
うじゃうじゃ