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Winny騒動や輸入CD全面禁止などの記事を書いたり読んでいて、法律や目的など問題の現場よりもはるかに高いレベルにある、基本的な疑問にぶち当たりました。そもそも、Entertainmentって一体何なんでしょう? 今までいろいろいわれた通り、法律や権力を考えると流通者だけが得になっている事実はありそうです。一方、ファイル交換などを正しい権利として主張する側からは、受け手だけがハッピーになれる世界しか垣間見ることができません。少なくとも、entertainmentの作り手や流通者も含め、全員が幸せになれるような世界像というのは見たことがありません。誰が描く理想を見ても、作り手、流通者、受け手の誰かが損をしているのです。そんなものをentertainmentと呼んでいいのでしょうか?
この疑問に答えてくれたのが、辞書での定義でした。例えば、The Pocket Oxford Dictionaryはentertainを以下のように定義しています。
enternain, v 1 occupy agreeably. 2 a receive as a guest. b receive guests. 3 cherish, consider (an idea etc.).
1の説明では「快い」ことを表すために、agreeablyと書いています。決してa funやcheerfullyではありません。単に楽しいだけではなく、作り手と受け手の間に何らかの共感がある事を示唆しています。これはagreeablyの用法を見れば明らかで、agreeably humourousやagreeably surprisedという表現(いずれも英辞郎より)ではagreeablyを「共感」と訳すことができます。
一方、entertainmentの日本語訳「娯楽」は、広辞苑第二版では以下のように定義されています。
娯楽 [詩経唐風]人間の心をたのしませ、なぐさめるもの。<日葡>
Entertainと異なり、こちらは単に受け手の感情を表しているに過ぎません。作り手は意味の中には存在せず、それゆえ共感などあり得ません。
これを踏まえ、「共感」の有無に言及した書き物がないかと「エンターテイメント 作り手 受け手 [google.co.jp]」でGoogleにあたっていたら、「バレエを見に行こう! [plala.or.jp]」というページがありました。その中に、以下の一節があります。
バレエでは音楽の演奏会とは異なり、演技の最中でも拍手喝采が起こりますが、別段細かいルールが決まっているわけではなく、主役が登場した時や素晴らしい技が披露された時などがそのタイミングとなるだけです。またそれは義務ではないので、無理に周りにあわせて拍手をする必要はありません。拍手は感動の表現なのですから、自分が感動した時にすればいいのです。
これは、先に出したentertainの定義1に含まれるagreeablyを忠実に説明しています。単に演技を見て聞くだけでなく、それに対する自分の反応を素直に表現することにより、観衆が演者へ応答することができるのです。この自由が観衆や聴衆に与えられない限り、entertainmentは成立しないのでしょう。そうなると、最初に呈示した疑問の答えはNOになりそうです。
ついでながら、観衆や聴衆の自由というのは、単純に公演を観衆や聴衆に見せるだけでは得られません。例えば満員電車並みの立ち見しかできない場合、観衆にとっては身体を動かしての表現はごく限られたものになってしまいます。また、安全上の理由から演者と観衆の間に空間を作ることがありますが、これは観衆の表情を見づらくするという問題を抱えています。そうなると、演者にとっては観衆がどのように共感しているかが分かり難くなってしまいます。もっとも、公演主催者(演者ではない)が意図を持ってこれを分かり難くすることにより、観衆が一方的に盛り上がっている雰囲気をかもし出すという手は技術的または商売的にはありなのかも知れませんが...
では、entertainment businessではなく、例えば個人が行っているストリートパフォーマンスではどうでしょうか? 一人当たりせいぜい100円ぐらいしか置いていかないでしょうが、それでも演技のうまい人が来ると人だかりができますし、歓声も上がりますよね。似たようなものでは、空き地とかでスケボーのトレーニングを楽しんでいる人達もいます。危険だという声もありますが、眺めていると鮮やかにテクニックが決まることがあって楽しいです。たまに失敗してスケボーが自分の方へ飛んでしまい、キャッチしにいったこともありました。
最初にバレエの例を出したのがまずかったかも知れませんが、あの時本当にいいたかったのは「完成された演技のみならず、細かい動作や工夫をも観衆は見逃さない。そこには、観劇料などの金銭関係により保証されるものとは別のentertainmentがあるのではないか」ということ。上述のストリートパフォーマンスやスケボーなどにもそういうものがあれば、金銭に縛られないentertainmentも十分存在し得るはずです。バレエだって、細かい演技の工夫を金銭でやってもらうのはそう簡単ではないですよ。
よくゲームソフトで「初回限定版ビジネス」というのがあります。これは、もはや構想に留まらず成功事例と理解してもよいのではないでしょうか? これをさらに発展させて、例えば同じ初回限定でもパッケージ毎に特典を変えてみるなどの方法もありかも知れません。福袋みたいなもので、特典を網羅しようとして複数まとめ買いという人も出てくる可能性はあります。
では、現代人が、何に対して違和感を感じているのかと言うと、 『世界の中心で、愛をさけぶ』の過剰な商業戦略について書かれている、 http://rftb.com/archives/000718.php [rftb.com] ↑このBLOGのオーナーさんと同じように、 「なんだか変だぞ」「なんだか納得できないな」と感じているんじゃないのかな? と思います。
そういう趣旨は見えるしコメントもついてるけど、その割に対抗で出てくる作品もやっぱり読んだり見たことがない人には決して分からないといわれかねないようなものしかないので説得力がありません。有名な童話でも出してくれるんだ
いわゆる「大人が好む幸せの基準」を考えているうちに、ある本質的な発見に至りました。「大人が好む幸せの基準」を適用したがる人間が集まると、その結果「幸せの基準が均一な集団」ができ上がってしまうのです。この集団の中では、全員が同意する基準だけが善。個々人が持つ独自の価値観は排除され、無理にこれを行使すればその行為者は集団の中で殺されてしまう。そんな集団です。
2chや/.のACは間違いなくこのような集団でしょうが、それ以外にもこのような集団はいろいろあります。例えばはてなダイアリー。たとえ名前を出したところで、話題の合わない人間(自分はそうだった、だれもBruce Forsyth's Generation Gameのことを知らなかったし)は結局排除されるのです。私が知る限り、およそwebで何かモノを書いている人は、すべて本質的に基準が均一化された集団を好むようです。Blogが流行っているおかげで、その傾向はますます強くなっています。
では、なぜwebで価値基準が均一な集団ができ上がってしまうのか。私の予想ですが、HTMLのハイパーリンクによる文書間関係の記述が実世界における人間関係を完全にモデリングできていないことが原因のように思えます。実世界で任意の2名を取り出した場合、真っ先に出てくる関係は「互いに面識があるか」です。面識がなければそこで終わり、一方面識があれば、「好きか嫌いか」などさらに踏み込んだ関係が意味を持ちます。ところが、HTMLのハイパーリンクは文書間関係を2値(関係の有無のみ)でしか表現できません。ハイパーリンクだけでは、関係が面識なのか好き嫌いなのかさえ表現できないのです。残念ながら、多くの読み手はハイパーリンクの存在を「文書間に類似性がある」と解釈してしまいます。そうなるともはや関係の意味は忘れ去られ、現実にはありもしない連携感を感じてしまうのです。書き手が手で張ったハイパーリンクならまだ手修正で救えるのですが、多くのblogシステムがサポートする自動リンク(トラックバックやキーワードなど)はだれもが書き手の介在なしに勝手にリンクを張れてしまうため、さらに事態を悪化させています。
少なくとも自分では、そういう世界が非常に恐ろしいものに見えてしまいます。面識がないはずの人間同士が機械の誤った判断によって勝手にマッチメークされてしまう、そんな世界に住みたいと思う人って何れくらいいるんでしょう? 現状を見ると、多いように思えるのが悲しくてなりません。
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日々是ハック也 -- あるハードコアバイナリアン
Entertainmentの本質 (スコア:4, 興味深い)
Winny騒動や輸入CD全面禁止などの記事を書いたり読んでいて、法律や目的など問題の現場よりもはるかに高いレベルにある、基本的な疑問にぶち当たりました。そもそも、Entertainmentって一体何なんでしょう? 今までいろいろいわれた通り、法律や権力を考えると流通者だけが得になっている事実はありそうです。一方、ファイル交換などを正しい権利として主張する側からは、受け手だけがハッピーになれる世界しか垣間見ることができません。少なくとも、entertainmentの作り手や流通者も含め、全員が幸せになれるような世界像というのは見たことがありません。誰が描く理想を見ても、作り手、流通者、受け手の誰かが損をしているのです。そんなものをentertainmentと呼んでいいのでしょうか?
この疑問に答えてくれたのが、辞書での定義でした。例えば、The Pocket Oxford Dictionaryはentertainを以下のように定義しています。
1の説明では「快い」ことを表すために、agreeablyと書いています。決してa funやcheerfullyではありません。単に楽しいだけではなく、作り手と受け手の間に何らかの共感がある事を示唆しています。これはagreeablyの用法を見れば明らかで、agreeably humourousやagreeably surprisedという表現(いずれも英辞郎より)ではagreeablyを「共感」と訳すことができます。
一方、entertainmentの日本語訳「娯楽」は、広辞苑第二版では以下のように定義されています。
Entertainと異なり、こちらは単に受け手の感情を表しているに過ぎません。作り手は意味の中には存在せず、それゆえ共感などあり得ません。
これを踏まえ、「共感」の有無に言及した書き物がないかと「エンターテイメント 作り手 受け手 [google.co.jp]」でGoogleにあたっていたら、「バレエを見に行こう! [plala.or.jp]」というページがありました。その中に、以下の一節があります。
これは、先に出したentertainの定義1に含まれるagreeablyを忠実に説明しています。単に演技を見て聞くだけでなく、それに対する自分の反応を素直に表現することにより、観衆が演者へ応答することができるのです。この自由が観衆や聴衆に与えられない限り、entertainmentは成立しないのでしょう。そうなると、最初に呈示した疑問の答えはNOになりそうです。
ついでながら、観衆や聴衆の自由というのは、単純に公演を観衆や聴衆に見せるだけでは得られません。例えば満員電車並みの立ち見しかできない場合、観衆にとっては身体を動かしての表現はごく限られたものになってしまいます。また、安全上の理由から演者と観衆の間に空間を作ることがありますが、これは観衆の表情を見づらくするという問題を抱えています。そうなると、演者にとっては観衆がどのように共感しているかが分かり難くなってしまいます。もっとも、公演主催者(演者ではない)が意図を持ってこれを分かり難くすることにより、観衆が一方的に盛り上がっている雰囲気をかもし出すという手は技術的または商売的にはありなのかも知れませんが...
Re:Entertainmentの本質 (スコア:2, すばらしい洞察)
ルールを作り、ルールそのものが金を作る。
ルールが生産的かどうかなんて関係ない。客は一時の夢の為に金を貢ぎ続ける哀れな中毒者。
Re:Entertainmentの本質 (スコア:1)
要は、競馬場がボロ儲けするのではなく、馬主への金の流れがもう少し太くなるべきだって事でしょ?
もう少し、場の提供者は資金プールと競技する場を提供する事が主目的である事をわきまえろ、と。
ギャンブルでなく投資で考えると、株式を発行している会社に対し投資しているわけで、
株式市場や証券会社に対してではない、と。
ところでバクチと他エンターテイメントとで、流通・提供にあたる人と生産・著作にあたる人の割合を
考えるとどれくらい違うんでしょう?
Re:Entertainmentの本質 (スコア:0)
ちがう。
競馬場=市場、馬主=ホルダー、牧場=クリエイター だろ。
場合によっては、馬=クリエイターなだろうけどな。
Re:Entertainmentの本質 (スコア:1)
では、entertainment businessではなく、例えば個人が行っているストリートパフォーマンスではどうでしょうか? 一人当たりせいぜい100円ぐらいしか置いていかないでしょうが、それでも演技のうまい人が来ると人だかりができますし、歓声も上がりますよね。似たようなものでは、空き地とかでスケボーのトレーニングを楽しんでいる人達もいます。危険だという声もありますが、眺めていると鮮やかにテクニックが決まることがあって楽しいです。たまに失敗してスケボーが自分の方へ飛んでしまい、キャッチしにいったこともありました。
最初にバレエの例を出したのがまずかったかも知れませんが、あの時本当にいいたかったのは「完成された演技のみならず、細かい動作や工夫をも観衆は見逃さない。そこには、観劇料などの金銭関係により保証されるものとは別のentertainmentがあるのではないか」ということ。上述のストリートパフォーマンスやスケボーなどにもそういうものがあれば、金銭に縛られないentertainmentも十分存在し得るはずです。バレエだって、細かい演技の工夫を金銭でやってもらうのはそう簡単ではないですよ。
Re:Entertainmentの本質 (スコア:0)
そりゃ不粋ってもんでしょ?
つくる側楽しむ側の関係に「業界」だのというターム突っ込むことで
必死に我田引水してるようだけど、
あなたは作り手受け手の関係
Re:Entertainmentの本質 (スコア:1)
現実としてその「業界」てものがあるわけですよ。
音楽を例に取るとJASRACだのレコード会社だのがそれに当たります。
ほんの数年前まではこれらの人たちがいないと音楽がこちらに
届かないという現実がありました。表現者と楽しむ側(我々)を
つなぐ役割として必要だったわけです。
ですが、技術の進歩により表現者が我々に直接作品を届ける手段が現れました。
かくして「業界」の存在意義が薄れつつあります。
もちろん、まだ表現者が我々に直接作品を届けている例は少ないですし、
技術の進歩により齎されている現状は不法コピーの方が目立ちます(私にはそう見えます)。
「業界」が不正コピーに怒っているのは確かなことですが、
それ以外にもはっきりと意識しているか否かは別として、
自分の存在価値が薄れつつあるのを自覚してるんじゃないかなと思います。
これからどうなるかはわかりません。
極端な方向として、音楽のデジタルコピーが禁止されるかもしれません。
それが作り手受けての双方にとってハッピーなのかどうかよくわかりません。
もしくは、「業界」が衰退していくのかもしれません。
というか衰退はもう始まってると思います。
そうなったとき、自分の好きな作品を生み出す作り手に対し我々がどう対処するのか。
音楽家はストリートパフォーマーの程度まで身を窶してしまうのか。
ひょっとすると、ここ半世紀ばかりが大衆音楽なるものが存在し得た希有な時代だったと
歴史に記録されるのかもしれません。
それは我々「パトロン」のあり方次第でしょう。
# 差別する気はないんですが、ストリートパフォーマンスによって
# 莫大な収入を得ている人っていませんよね。
# もちろん音楽家のなかにもひどい貧乏をしている人がいることも知ってははいます。
もちろん、作品そのものから殆どあるいは全く収入を
得られなくても素晴らしい作品をものにした芸術家は沢山います。
しかしそれは例外だと思います。収入は重要です。
「生産性」の問題は作り手にとって切実な問題だと思います。
いくら野暮だろうがなんだろうが、現実の問題ですから。
「業界」がどう絡むとかそういう問題ではなく、その存在意義が薄れていること、
少なくとも立場が変わりつつあることという現状があって、
つまりパトロンがパトロンとして振る舞えなくなってきている現状で、
今後どうなるかわからないときに「エンターテインメント」
の原点に立ち返って考えるのは当たり前のことだと思いますが、
いかがでしょうか?
Re:Entertainmentの本質 (スコア:1, 興味深い)
京都だったかの演劇シーンに、「パトロン」を積極的に募集している集団がいたっけ。
あと、俺の知り合いの劇作家に、公演打つための出資者を広く募って、
月一度の新作公演なんて荒技を成功させた人がいる。
こと演劇に関する限り、業界(ちゅうか民間企業による援助)は、
もうどうしようもないくらい欲しい状態らしい。
バブルの頃のメセナに乗る格好で旗揚げた連中が、不況になってバッタバッタつぶれたそうだ。
自分はまだバブル景気以前にインディーズでレコード出したりしてたけど、
演劇の連中見てるとずいぶん恵まれてたと思っている。
それは今でもそう。
インディのレーベルが何より音楽で若い子を発掘しようとしているし、
そういう集団がCDを出して、ごく普通のレコード屋で購入できる。
音楽について言えば、バンド側とオーディエンス側だけで、流通のしくみは既に完結できてるわけだから。
業界とやらにルールつくってもらわなくても、
自分らだけでちゃんとやってる連中はなんぼでもいるよ。
それだけで食えるかといえばまあ別問題だけど、
逆にメジャーに拾ってもらったからってそれだけで食えるわけでもないんだし。
それでも何でみんなメジャーを目指すかと言えば、
それはパワフルな広告戦略。(このサイト的にはおしつけがましいルールということになるみたいだが)
できるだけ多くの人に聴いて欲しい、気づいて欲しいという願望には、本当にぴったりの仕事をしてくれる。
ライブのブッキング、現地での宣伝、そういうことを自分達だけでやるのは、
それはもうとんでもない労力なんだから。そういうことを引き受けてくれる専門業者としての
メジャーのメリットは大きいよ。
だからはっきり言って、インターネットでの流通というものを前提にしないと成り立たないような、
このサイトで騒がれてる著作権問題というのは、
音楽に関する限り、正直、現実感がないよ。
本当に聞きたい。「どうしたいの?」
Re:Entertainmentの本質 (スコア:1)
>かくして「業界」の存在意義が薄れつつあります。
そこでですね。
直接流通をおこなっていくと、結局のところ著作物利用の
一括交渉口として、著作権管理団体というのは非常に
便利だってことに消費者側は気づかされてしまうでしょう。
いちいち著作権者と交渉していると、場合によっては利用が
断られることもある。利用料金も(JASRACと交渉する場合に比べて)
高価になる可能性もある(当然逆になる可能性もありますが)。
それに比べてJASRACのような著作権管理団体と一括交渉をすれば、
利用を断られたり、法外な料金を吹っかけられるって事がないわけです。
悲しいかな、著作物を多く扱えば扱うほど、交渉窓口としての
著作権管理団体というのは便利になってしまうと。
もっとも昨今では、
利用者:著作権管理者=n:1
の関係ではなく、
利用者:著作権管理者=n:k
の関係に変化しつつあります。
参考:http://nmrc.jp/hikaku4.html
ここを踏まえ、本当に著作権管理団体が果たすべき役割を、
著作権者側・利用者側の双方が考えていき、よりよき変化へと
もって行かなければいけないのでしょうけど…
まだまだ、JASRAC以外の管理団体があることの周知がされてない
ように感じる今日この頃。
# そしてそう思いながらどのようにしていくのがいいか、
# そのなかで私はどのようなことが出来るのかを考えていない今日この頃(ダメじゃん
Re:Entertainmentの本質 (スコア:2, 興味深い)
予告編と「作品」の中間のようなものをフリーで配付して、サーバでのゲームとか携帯のアクセサリーコンテンツとかで稼ぐとか。テーマパークのようなものをネット上に催すとか(これは集客力がどうかな)。
消費者の個々の要望に応じたオーダーメイド「作品」ということで、コピーを売るのではなくオリジナルを売るとか。
エンターテイメントが「作品」のコピーを再生・鑑賞することから脱却できれば、そこに新しいビジネスモデルが生まれるような気がします。
Re:Entertainmentの本質 (スコア:1)
よくゲームソフトで「初回限定版ビジネス」というのがあります。これは、もはや構想に留まらず成功事例と理解してもよいのではないでしょうか? これをさらに発展させて、例えば同じ初回限定でもパッケージ毎に特典を変えてみるなどの方法もありかも知れません。福袋みたいなもので、特典を網羅しようとして複数まとめ買いという人も出てくる可能性はあります。
Re:Entertainmentの本質 (スコア:0)
オーダーメイドというよりも、ユーザIDを作品に埋め込んでおけば、コピーされにくくなるっていうのは前からやっていますね。どうせなら、過激にユーザの個人情報をステガノグラフィーかなにかで埋め込
Re:Entertainmentの本質 (スコア:0, 荒らし)
生物機構が誕生する以前の地球上にEntertainmentは、どんな形だったのでしょうか。
ウイルスやバクテリアが誕生した頃の地球上でのEntertainmentは、どんな形だったのでしょうか?
人類が誕生した後のEntertainmentは、どんな形だったのでしょうか。
「娯楽」「楽しみ」
1人の人間が、人間を相手にして「楽しみ」を得ても、
1人の人間が、川原に転がっている石ころを見て「楽しみ」を得ても、
1人の人間が、自慰行為をしたり空想したりして「楽しみ」を得ても、
それは、どれも「娯楽」でしょう。差は無い。
では、現代人が、何に対して違和感を感じているのかと言うと、
『世界の中心で、愛をさけぶ』の
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# CheapGbE!GbE!!TheKLF!KLF!!TheRMS!RMS!! And a meme sparks...
Re:Entertainmentの本質 (スコア:0, オフトピック)
そういう趣旨は見えるしコメントもついてるけど、その割に対抗で出てくる作品もやっぱり読んだり見たことがない人には決して分からないといわれかねないようなものしかないので説得力がありません。有名な童話でも出してくれるんだ
一億総均一基準化とwebの致命的な欠陥 (スコア:1)
いわゆる「大人が好む幸せの基準」を考えているうちに、ある本質的な発見に至りました。「大人が好む幸せの基準」を適用したがる人間が集まると、その結果「幸せの基準が均一な集団」ができ上がってしまうのです。この集団の中では、全員が同意する基準だけが善。個々人が持つ独自の価値観は排除され、無理にこれを行使すればその行為者は集団の中で殺されてしまう。そんな集団です。
2chや/.のACは間違いなくこのような集団でしょうが、それ以外にもこのような集団はいろいろあります。例えばはてなダイアリー。たとえ名前を出したところで、話題の合わない人間(自分はそうだった、だれもBruce Forsyth's Generation Gameのことを知らなかったし)は結局排除されるのです。私が知る限り、およそwebで何かモノを書いている人は、すべて本質的に基準が均一化された集団を好むようです。Blogが流行っているおかげで、その傾向はますます強くなっています。
では、なぜwebで価値基準が均一な集団ができ上がってしまうのか。私の予想ですが、HTMLのハイパーリンクによる文書間関係の記述が実世界における人間関係を完全にモデリングできていないことが原因のように思えます。実世界で任意の2名を取り出した場合、真っ先に出てくる関係は「互いに面識があるか」です。面識がなければそこで終わり、一方面識があれば、「好きか嫌いか」などさらに踏み込んだ関係が意味を持ちます。ところが、HTMLのハイパーリンクは文書間関係を2値(関係の有無のみ)でしか表現できません。ハイパーリンクだけでは、関係が面識なのか好き嫌いなのかさえ表現できないのです。残念ながら、多くの読み手はハイパーリンクの存在を「文書間に類似性がある」と解釈してしまいます。そうなるともはや関係の意味は忘れ去られ、現実にはありもしない連携感を感じてしまうのです。書き手が手で張ったハイパーリンクならまだ手修正で救えるのですが、多くのblogシステムがサポートする自動リンク(トラックバックやキーワードなど)はだれもが書き手の介在なしに勝手にリンクを張れてしまうため、さらに事態を悪化させています。
少なくとも自分では、そういう世界が非常に恐ろしいものに見えてしまいます。面識がないはずの人間同士が機械の誤った判断によって勝手にマッチメークされてしまう、そんな世界に住みたいと思う人って何れくらいいるんでしょう? 現状を見ると、多いように思えるのが悲しくてなりません。