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20万人というと,米国の全人口に対しておおよそ1000人に1人ぐらいになるのか.結構多いような気も.
Fundamentalistのタワゴトは疑似科学/トンデモ本のネタとしてはよく出てくるので,あぁまたか,というのが正直な感想ではあるけど.
どうして聖書等の内容を文字通りに受け取ってしまうのか(物語や道徳律として読むなら分かるけど). 私のような無宗教な人間にはよく分かりません….
勿論それはそのとおり.私自身は聖書を読んだことがあるわけじゃないのであまり細かいことはつっこめませんが. ただ,現代でも通用する,思慮に値するようなエピソードもあるわけでしょう. 要はこういう部分も含めて,記述を鵜呑みにしないで一度考えてみるべきであるのに, いわゆるfundamentalistはどうして頭から信じてしまうかなぁ,という.
> その通りだと思いますが、「聖書を理解する」ということに > どれだけ意味があるのでしょうか?キリストや聖者の言葉として信じること以外に、 > 聖書やその他、もろもろの宗教の教典(経典?)の意味はあるのでしょうか。 > 「宗教」と「知恵」との違いだと思います。
確かに聖書を書いた人、編纂した人の意図からすれば、信仰のない「聖書の理解」は、大した意味はないでしょう。 しかし、そこまで信仰している人の立場になって考える必要もないのでは。宗教として信じていないならば、その立場で割り切って読めばいいでしょう。
> 宗教の言葉は、真理を越えてとてつもないパワーを生み出してしまうことがあるので、 > やっぱり麻薬的なものだと思います。
宗教の言葉が麻薬的なのは、それが多くの人にとって必要な言葉だからだと思います。もちろん多くの言葉が体系的にお互いに効果を強め合っているのでしょう。必要なものを宗教以外のものに求める人も大勢いるわけですが、しかし、その、宗教以外のもの対する態度は実に「宗教的」だったりすることがありうる。そして、とてつもないパワーを生み出すこともありうる。
だからこそ、却って、聖書やコーランなどを読んで「理解」することに意味があるような気がします。
> でも、優れた歴史書や技術書などを読む場合の一番の喜びは、そのエッセンス(?)に触れたと感じたときではないでしょうか。 > 聖書を宗教心なしで読むことで、そのエッセンス(?)にふれることができるのでしょうか? > もし仮にふれることができるとしたら「そのとき宗教に目覚めた」といえるのでは。
「理解」の意味をそう捉えているのだろうな、と思ったので、ああいう書き方をしたのですが、実はとても共感していたりもします。 基本的には、絶対に埋まらぬ溝があると割り切って、節度ある無関心とでもいう態度を貫くか、それでも理解しようとしつづけるしかないでしょう。でなければ、誤解の、場合によっては憎悪の無限連鎖を生むだけです。
だから宗教の経典の善悪や正誤を判断するような読み方はしたくありません。もちろん納得できないところは多々ありますが、それに出会うことがまずは大事なのです。
# すんなり理解出来てしまうところにも落とし穴はあるのですが
> 宗教の言葉をあなどることはさけるべきだと思います。 > いたずらに宗教の言葉をもてあそぶことは予期せぬ事態をまねきかねません。
そのとおりだと思います。あえて付け加えるなら、危険な言葉は宗教のそれだけではありません。例えば政治の言葉も非常に危険です。
ルカの福音書 6章37節 さばいてはいけません。そうすれば、自分もさばかれません。 人を罪に定めてはいけません。そうすれば、自分も罪に定められません。 赦しなさい。そうすれば、自分も赦されます 。
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クラックを法規制強化で止められると思ってる奴は頭がおかしい -- あるアレゲ人
20万人 (スコア:2)
アメリカでさえ聖書の内容が絶対だ、と信じる「キリスト教原理主義者」が20万人もいる、なんて、/.のどこかに誰かが書いていましたね。
そういう人たちも「許している、生きていける」国である、という面がもっと強調されていれば、あの国ももっと幸せになるんだろうに。
Re:20万人 (スコア:1)
20万人というと,米国の全人口に対しておおよそ1000人に1人ぐらいになるのか.結構多いような気も.
Fundamentalistのタワゴトは疑似科学/トンデモ本のネタとしてはよく出てくるので,あぁまたか,というのが正直な感想ではあるけど.
どうして聖書等の内容を文字通りに受け取ってしまうのか(物語や道徳律として読むなら分かるけど).
私のような無宗教な人間にはよく分かりません….
Re:20万人 (スコア:0)
古い時代の物なのですから、現代ではそのまま通用しない部分も多いです。
# 分りやすいところでは出エジプトの長子皆殺しとか。
Re:20万人 (スコア:1)
> 古い時代の物なのですから、現代ではそのまま通用しない部分も多いです。
勿論それはそのとおり.私自身は聖書を読んだことがあるわけじゃないのであまり細かいことはつっこめませんが.
ただ,現代でも通用する,思慮に値するようなエピソードもあるわけでしょう.
要はこういう部分も含めて,記述を鵜呑みにしないで一度考えてみるべきであるのに,
いわゆるfundamentalistはどうして頭から信じてしまうかなぁ,という.
Re:20万人 (スコア:1)
やってはいけないこととか伝統は捨てて、最低限守るべきことだけは守り、あとは個人の裁量にまかすという、180度の転回を主張したため、キリストは怒りを買って殺されたのです。
なので、本来キリスト教徒が守るべき規則って数えるほどしかないんですよね。
やばげな道徳律 (スコア:0)
父親と娘で子を儲けたり、
そういう表現も聖書にはあるんすよね~
Re:やばげな道徳律 (スコア:0)
ホントは自慰じゃなくて外出ししたことを罰せられたらしいですよ。
兄に代わって子を作る役目を疎かにしたからだ、というような話。
ポイントは、性的な問題ではなく、己の役割を全うしなかった、という点のようです。
当時は兄に代わって子をもうける、というのが一般的だったとする
bible (スコア:0)
it seems like those christians forget one of the basic rules:
do not judge and you will not be judged.
do not condemn, and you will not be condemed.
forgive and you will be forgiven. (luke 6:37)
or they has another religion ?
部分的引用 (スコア:2)
聖書でもなんでも、全体を無視した文脈抜きの部分的引用をすることによって、自分の意見を正当化する道具として、これらの言葉の権威に間借りする、というやり方は一般的です。
その言葉は「どんな文脈の上で」「どんな意図で」書かれたか?ということをちゃんと説明しなければ、どんなに立派なことばも、我田引水をしたい人たちに、利用のされ放題でしょう。
「神の口から吐かれる一言」も、「神の本来の意図」をちゃんと理解した人たちのあいだでしか有効ではない。だから、聖書というバックグラウンドのない人たちを目の前に「聖書のひとこと」を引用しても、なんの意味もない。「あ、そう?」で終わり。
仏教だろうがイスラムだろうがゾロアスターだろうが、ここいらへんはおんなじでしょ。
要するに、「信じてない人には見えない」んですよ。ということは信じてる人には見えないものを、信じてない人は見えるんです。
だから、聖書のことばの引用なんて、信者のあいだだけにしときなさいね。いい子だから。
Re:部分的引用 (スコア:2)
全体を理解していない人を騙すために使われるのもそのとおり。
でも聖書を理解するかどうかと、信者であるかどうかは別の話でしょう。
聖書だって論語だって般若心経だって、それなりに知恵のある人の至言に満ち溢れているわけで、それを信者でないから切り捨てるのはいかがなものかと。
聖書のことばを前にして、宗教書というだけで読む必要なしとして、「あ、そう?」で終わっちゃう人はちょっともったいないですな。
-- wanna be the biggest dreamer
Re:部分的引用 (スコア:1)
その通りだと思いますが、「聖書を理解する」ということに
どれだけ意味があるのでしょうか?キリストや聖者の言葉として信じること以外に、
聖書やその他、もろもろの宗教の教典(経典?)の意味はあるのでしょうか。
「宗教」と「知恵」との違いだと思います。
宗教の言葉は、真理を越えてとてつもないパワーを生み出してしまうことがあるので、
やっぱり麻薬的なものだと思います。
役に立つ一面もあるのでしょうが、人間が克服すべき課題だと思います。
「2100年宇宙の旅」(あやしい?)だったと思いますが、
宗教について、そのような記述がありました。
オフトピックぎみですね。すいません。
Re:部分的引用 (スコア:2)
意味あるかと問われれば、どんな知識も意味は無いとしか答えられないな。
知恵に至るために有用かと問われれば、有用、むしろ必須と答えます。
宗教でも神話でも、そこに書かれていることを鵜飲みにするのはよくないです。多くの人々はそれをそのまま信じていて、それは心の安定など良い面もあり、焚書など悪い面もある。そろそろ蒙を啓くべきだという主張だと思います。
でもそれは、宗教書のうち不合理な出来事を否定することにはなるけれど、それを持ち出して伝えようとしたことまで否定することにはなりません。むしろ蒙が啓けたならそういう表面的なことに固執しないはずで。
神やら悪魔やらは何らかの比喩、色々の困難や矛盾にどう対抗したかということを読んで学ぶことは何も無いんでしょうか。
例えばつい数日前、「夜になるまえに」というある作家の伝記的な映画を見ましたが、「まず聖書を読め、信じなくても構わん、文学として読め。」と大家に言われてました。そして同時にカフカを手渡す。これが合理的な態度と思います。
# ちょっと前に流行った『小説「聖書」』と一緒にしないでね^^;
宗教書を宗教というだけで無視するのもひとつのありかたですが、その態度は信仰の麻薬とそれほど違っているようには見えません。
-- wanna be the biggest dreamer
Re:部分的引用 (スコア:1)
>キリストや聖者の言葉として信じること以外に、
>聖書やその他、もろもろの宗教の教典(経典?)の意味はあるのでしょうか。
え?単に「読んで文面を理解」すれば良いのでは?
(特に信徒でないならば)経典かどうかなんか気にせずに。
#蛇足だと期待したいですが、「理解」と「賛同」と「信仰」を混同してないですよね?
ついでに蛇足ですがコーラン(の和訳。岩波文庫だっけ?)は俺には「面白かった」です。
(信徒の人には悪いけど)「おもしろおかしい」という面も含めて(^^;;;。
で、読んで、良いと思った文には賛同し、駄目だと思った文には反対すりゃいいわけで。
なおこの読み方をするにあたり、万一世界を本当にあの神が創っていた場合、死後に地獄に落とされるリスクは、自己責任となります(笑)
#おふとぴだが、多くの人は、死ぬと苦しみが「無くなる」と、なぜ信じてるのか不思議だ。
#肉体の死は単に苦しみを「表現」できなくなるだけなのに。
>宗教の言葉は、真理を越えてとてつもないパワーを生み出してしまうことがあるので、
>やっぱり麻薬的なものだと思います。
うーん?それはどっちかってーと、言葉そのものというよりも、
その言葉に「by聖書」とかいう鑑定書(笑)がつくことによって
そういう困ったパワーが生まれるのでわないかと。
内容じゃなく表紙の力。
Re:部分的引用 (スコア:1)
>その通りだと思いますが、「聖書を理解する」ということに
>どれだけ意味があるのでしょうか?キリストや聖者の言葉として信じること以外に、
>聖書やその他、もろもろの宗教の教典(経典?)の意味はあるのでしょうか。
>「宗教」と「知恵」との違いだと思います。
「聖書を読む価値がない」という意味ではありません。
多くの経典は「信者」が信仰心をもって読むことを想定していると思われ、
信仰心なしで「読む」場合は、単なる理解であると思います。
信仰心なしで聖書を読む(理解する)ことは、
目をつぶって象をさわることとおなじではないでしょうか。
私自身は無宗教なのに、偉そうな言い方になって申し訳ありません。
また、宗教と知恵を比較してしまいましたが、ここでの「知恵」は
単なる道具としての知識、といった意味で書きました。
どちらが良いとか、悪いとかといっているつもりはありませんでした。
もちろん、宗教にも知恵にもそれぞれに存在意義があると思います。
科学と宗教はときどき比較されますね。
科学は理論が正しいことを証明できなければ意味がない、
宗教は神の存在を信じなければ意味がない、
と思います。
科学という宗教? (スコア:1)
#同じように、価値観の枠組みを定めているからなのかな?
ちなみに、いわゆる科学にも宗教的な側面はあると思うです。
「世界の全ての現象は理論的に説明できる」とかって言われると、
すんごく宗教っぽく感じません?
とりあえず、全てが説明できるってのはまだ正確じゃないから、
根拠のない願望としかおもえんのに、それを信じてる人の多いこと。
#人間は人間のからだの中も、精神と言われるものがなんなのかとか、
#生命の本質すらも理解も説明も出来てないのにねぇ。
あ、ちなみに一つツッコミ(苦笑)。
>理論が正しいことを証明できなければ意味がない、
理論ってのは正しいのじゃなくて、それで妥当な説明が出来る例が多いかどうか、
ってのが重要です。
#例外が多く見つかれば、また別の理論を構築して、その現象を説明しようとするだけです。
まぁ、元々は多くのものを分類して説明できるようにまとめる、ってことから
はじまったものですからねぇ。
ヒトの考えた説明ありき、なんで、本当に正しいかどうかは論外のことであって、
多くの例についてどれだけ妥当な道筋で説明できるか、って事の方が重要です。
#人間が観測や経験から構築した理論ってものが正しいなんて、だれが
#判定できるでしょう?
#それこそ、絶対の知識、全知全能を持った神様でもない限り、それが本当に
#正しいかなんて判別できゃしません。
ちなみに、理論が(絶対的に)正しいかどうか、なんて観点で考えるのは、科学じゃありません。
似非科学という宗教です。
---- redbrick
Re:科学という宗教?(オフトピ) (スコア:1)
前の記事、「ちなみに」が多すぎ。
#これじゃ、「ちなみに教」だ(苦笑)。
---- redbrick
Re:科学という宗教? (スコア:1)
>>理論が正しいことを証明できなければ意味がない、
>理論ってのは正しいのじゃなくて、それで妥当な説明が出来る例が多いかどうか、
>ってのが重要です。
>#例外が多く見つかれば、また別の理論を構築して、その現象を説明しようとするだけです。
科学的に「正しい」というのは、既に証明された事実をベースにして
矛盾なく説明できる、ということですよね。
科学的に正しくないと思われる理論は、科学的には意味がない、
つまり、その理論をベースにして新しい理論を展開することはできない、
と思います。
科学的に正しいことと、その理論が利用できるかどうかとは無関係です。
証明されていない理論から新しい有効な技術が生まれることはありますよね。
科学は手法ですね、信念ではないと思います。
科学者の中には「唯一の真理」を唱える人がいるようですが、
あれはキリスト教的願望のようで、可愛げがありますね。
科学者も人の子ですね。
Re:科学という宗教? (スコア:1)
一応、科学史と科学そのものをかじった個人の主張として考えてくださいね。
#わたしの主張が全面的に正しいとも限らない、って事です。
#間違いや勘違い、誤解なども当然ありえます。
#そういったところは指摘していただければ、謝罪の上訂正させていただきます。
>科学的に「正しい」というのは、既に証明された事実をベースにして
>矛盾なく説明できる、ということですよね。
概ねその通りですが、既に証明された事実でなくてもいいんです。
自分で予測して、妥当な実験で得た観測結果が説明できれば、
それも一つの理論ですから。
#あんまり、「正しい理論」とは言いたくないな・・・。
また、理論のベースは既存の理論だけとは限りません。
しいて言えば、科学者のひらめきでもいいんです。
観測結果を説明できれば。
#科学者のひらめきってのが、それまでの知識や経験の蓄積によって
#起こり得たもの、って説明もこじつけられはしますが、そんなことは
#ここでは特に意味ないですね。
#ひらめきって話で有名なのは、アルキメデスの「エウレカ!」とか、
#ケクレのベンゼン環の発見(自分のしっぽを飲み込んで輪になった蛇の夢から発想)
#とかの逸話が有名かな? まぁ、真実かどうかは明らかではないですが。
で、それを他の者が検証できる手段を提供し確認されれば、妥当だと
初めて認められるわけです。
#追試が出来なけりゃ、その理論は妥当なものとして認められるモノじゃないわけです。
#最近では常温核融合の話とか、初期の人造ダイヤモンドの逸話がありますね。
>科学的に正しいことと、その理論が利用できるかどうかとは無関係です。
>証明されていない理論から新しい有効な技術が生まれることはありますよね。
これは、わたしもその通りだと思います。
>科学は手法ですね、信念ではないと思います。
ですよねぇ。
---- redbrick
Re:科学という宗教? (スコア:1)
>しいて言えば、科学者のひらめきでもいいんです。
>観測結果を説明できれば。
混乱していますね。
まっとうな科学者が「ひらめき」を理論のベースにすることはありえません。
発想のきっかけになることはよくある話ですが。
理論のベースになりえるのは「既に証明された理論」か、
「科学的に正しい方法で確認された事実」では。
ただ、証明が困難だが広く正しいと認識された事象を便宜的に
採用することはあるみたいですね。その場合、ことわっておく必要があるかと。
Re:科学という宗教? (スコア:1)
そうですか? ・・・ちょっと混乱してるかな(汗)?
>まっとうな科学者が「ひらめき」を理論のベースにすることは
>ありえません。
スタートポイントは「ひらめき」でもいいんじゃないんですかね?
実験などの観測や、理論からの推測の検証などが要らないとは
わたしは書いてないですよ。
#ベース、ベース・・・ベースと自分で書いておきながら、
#それが具体的になんなのか説明できない(汗)。
#始点であり、理論のキモでもあり・・発想そのもの、
#または理論のストーリーといったところでしょうか。
#明確にしたい疑問と書いた方がわかりやすいかな?
---- redbrick
Re:科学という宗教? (スコア:1)
>#それが具体的になんなのか説明できない(汗)。
>#始点であり、理論のキモでもあり・・発想そのもの、
>#または理論のストーリーといったところでしょうか。
>#明確にしたい疑問と書いた方がわかりやすいかな?
[ベース]=[base]=[基礎、根拠]
ここでは理論を構成する論理展開のベース、といった意味です。
あなたの「ベース」は発想の出発点という意味ですか?
そのような用法は一般的でなないかと。あなた独自ですね。
発想は自由でかまいませんが、論理の展開は厳密にしなければ、
空想科学の世界に突入してしまいます。
その結果が、リアルな科学の結果と似ていることはありますが。。。
Re:部分的引用 (スコア:1)
> その通りだと思いますが、「聖書を理解する」ということに
> どれだけ意味があるのでしょうか?キリストや聖者の言葉として信じること以外に、
> 聖書やその他、もろもろの宗教の教典(経典?)の意味はあるのでしょうか。
> 「宗教」と「知恵」との違いだと思います。
確かに聖書を書いた人、編纂した人の意図からすれば、信仰のない「聖書の理解」は、大した意味はないでしょう。
しかし、そこまで信仰している人の立場になって考える必要もないのでは。宗教として信じていないならば、その立場で割り切って読めばいいでしょう。
> 宗教の言葉は、真理を越えてとてつもないパワーを生み出してしまうことがあるので、
> やっぱり麻薬的なものだと思います。
宗教の言葉が麻薬的なのは、それが多くの人にとって必要な言葉だからだと思います。もちろん多くの言葉が体系的にお互いに効果を強め合っているのでしょう。
必要なものを宗教以外のものに求める人も大勢いるわけですが、しかし、その、宗教以外のもの対する態度は実に「宗教的」だったりすることがありうる。そして、とてつもないパワーを生み出すこともありうる。
だからこそ、却って、聖書やコーランなどを読んで「理解」することに意味があるような気がします。
Re:部分的引用 (スコア:1)
Re:部分的引用 (スコア:1)
>しかし、そこまで信仰している人の立場になって考える必要
>もないのでは。宗教として信じていないならば、その立場で
>割り切って読めばいいでしょう。
宗教や民族を研究したり、文学的背景を宗教に求める場合には、その通りだと思います。
また、経典が文学的にすぐれているという判断なら、さらにその通りだと思います。
でも、優れた歴史書や技術書などを読む場合の一番の喜びは、そのエッセンス(?)に触れたと感じたときではないでしょうか。
聖書を宗教心なしで読むことで、そのエッセンス(?)にふれることができるのでしょうか?
もし仮にふれることができるとしたら「そのとき宗教に目覚めた」といえるのでは。
>宗教の言葉が麻薬的なのは、それが多くの人にとって必要な
>言葉だからだと思います。
宗教は言葉を媒体として伝達されるものです。
宗教の言葉をあなどることはさけるべきだと思います。
いたずらに宗教の言葉をもてあそぶことは予期せぬ事態をまねきかねません。
宗教の言葉は良き伝道師を通してはじめて、本来の宗教の言葉として成立するのでは。
宗教への接し方は、良き信者になるか、触れないか、のどちらしかないのでは。
触れないことは、排除することではありません。
楽観論者は宗教を制御できると考えているようですが、ある時点でその宗教が正しいか間違っているか(?)を判定するのは困難です。
宗教と法律、社会の一般常識、教育、個人の自由と権利とが矛盾している場合、それはどちらが正しい(?)のか。
ただ、結果として、生命への脅威になることがあるのは間違いありません。
Re:部分的引用 (スコア:1)
> でも、優れた歴史書や技術書などを読む場合の一番の喜びは、そのエッセンス(?)に触れたと感じたときではないでしょうか。
> 聖書を宗教心なしで読むことで、そのエッセンス(?)にふれることができるのでしょうか?
> もし仮にふれることができるとしたら「そのとき宗教に目覚めた」といえるのでは。
「理解」の意味をそう捉えているのだろうな、と思ったので、ああいう書き方をしたのですが、実はとても共感していたりもします。
基本的には、絶対に埋まらぬ溝があると割り切って、節度ある無関心とでもいう態度を貫くか、それでも理解しようとしつづけるしかないでしょう。でなければ、誤解の、場合によっては憎悪の無限連鎖を生むだけです。
だから宗教の経典の善悪や正誤を判断するような読み方はしたくありません。もちろん納得できないところは多々ありますが、それに出会うことがまずは大事なのです。
# すんなり理解出来てしまうところにも落とし穴はあるのですが
> 宗教の言葉をあなどることはさけるべきだと思います。
> いたずらに宗教の言葉をもてあそぶことは予期せぬ事態をまねきかねません。
そのとおりだと思います。あえて付け加えるなら、危険な言葉は宗教のそれだけではありません。例えば政治の言葉も非常に危険です。
Re:部分的引用 (スコア:1)
> キリストや聖者の言葉として信じること以外に、
> 聖書やその他、もろもろの宗教の教典(経典?)の意味はあるのでしょうか。
ここにて宗教学が存在の危機に(笑)
# 非キリスト教徒の聖書学者はいっぱいいますよ。
まぁ、聖書ってのは西洋文化の大きな根底、というか前提を成す書物なので(異論反論を含めて)、
これを読んで頭にいれないと理解できないもの(逆に読むことで見えてくるもの)
というのはいっぱいあると思います。
ことに文学や哲学をやるとなると、頷こうが投げ捨てようが
とりあえず言ってる事は理解しとかないといけなかったり。
> 宗教の言葉は、真理を越えてとてつもないパワーを生み出してしまうことがあるので、
> やっぱり麻薬的なものだと思います。
> 役に立つ一面もあるのでしょうが、人間が克服すべき課題だと思います。
> 「2100年宇宙の旅」(あやしい?)だったと思いますが、
> 宗教について、そのような記述がありました。
似たような言葉に「宗教は民衆にとっての阿片である」というのがあります。これはマルクスです。
# といっても、彼が生きた時代は、阿片の害ってのはあまり認識されてなくて
# ぼやーっと気持ちよくなるものって程度にしか思われてなかったようなので、額面通りに受け入れるわけにはいかないんですが。
Re:部分的引用 (スコア:1)
Re:部分的引用 (スコア:1)
#キリスト教なんて全てそれで押し通してきたのだし。
---- redbrick
Re:部分的引用 (スコア:1)
#中世のキリスト教って、そんな感じでしたしね。
Re:bible (スコア:1)
# 数学は科学の女王にして奴隷