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> #それにしてもなぜ日本では愛国者は目の敵にされるんだ? この枝の伸び具合を見るに確かに仰る通りですね。^_^; やはり戦後教育の影響が大きいと思います。 そしてその始まりはアメリカの政策だったのですが…。 # 50年も経てば他人のせいにはできませんが。
『神のもとに』の捉え方ですが、政教分離の原則に反しているかといえば 一概にそうとも言えないと思います。正教の『教』とは教義であって信仰自体を指すものではない。 教義の違いは対立を生むけれども、信仰する精神は政(まつりごと)の基本です。 政治に祭り(祖先や倫理観との語らい)がなければそれは乱れる。 祭政は不可分であって、今の日本はまさに祭政不一致の乱れた状態だと思います。 日本がアメリカを見習うべきは、(形だけにせよ)政治から祭りの精神が失われていない点だと思います。 正教分離と祭政一致は両立するものです。
もちろん『神のもとに』の神をキリスト(あるいはキリスト教の神)だと明言してしまえば、 そこに対立が出てくるのは明白です。しかしunder Godが特定宗教に限定されない神 あるいは良心としての意味を50年の間に得てきたのであれば、 それを政教分離に対して不当だとする主張は一面的過ぎると思います。 (もちろん主張する自由はありますし、現にそれが行使されたわけですが) 今回の圧倒的市民の反対によって裁判所が留保したという経緯はとても妥当な気がします。
信仰と政治を一致させるというのは人類の知恵だと思うのです。 本来政治というのは利害対立の調節であり、人と人の対立の狭間にあるもので、 その熾烈な争いの只中にいる人間の行動は足の引っ張り合いにならざるを得ず、 環境問題や国際問題といったグローバルな課題に対して 優れた解を与えることができないのはあらゆる歴史が証明しています。 その低きに流れる抗い難い力に対抗するためのシステムとして 多くの社会が採用してきたものが政治の中心に信仰を据えるというものです。 アメリカでは議会や裁判、大統領就任などにおける聖書の前での宣誓。 戦前の日本では天皇の勅などが例えになるでしょうか。
> でも、やはりその「祭り」というのは宗教的価値観にかなり影響されますよね? 各人の宗教的価値観に左右されると思います。それは悪いことではないと思います。
> 「祭」と「教」を分けることは「政」と「教」を分けるよりもはるかに難しいと思います。 「教」というのは各宗教宗派が持つ教義(たぶんに啓蒙的な解釈)であり信仰そのものではありません。 そして教義とは得てして派閥を構成するものであり これが政争を熾烈なものにしたという歴史の反省から 現代の多くの国家で政教分離が実践されていることは周知の通りです。 しかし教義と信仰は不可分のものではないことは実感として理解できると思います。 つまり「教」を強制せずとも祭りの精神を維持することは十分に可能です。 例えば別の枝でもありましたが「いただきます」という感謝の気持ちが 手を合わせる儀式とは(ある程度)独立したものであるように。
> 永遠に決着のつかない論争 極めて根深い問題ですが、そこを乗り越えていくのが人類の叡智かと。 # 政治の堕落による悲劇は言い尽くせぬほどの苦痛を人々に与えてきたのですから。
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物事のやり方は一つではない -- Perlな人
アメリカ人としては (スコア:5, 参考になる)
国旗に対する「忠誠の誓い」と直訳すると、すごく日本人には抵抗を感じる表現になるとおもいますが、現地のニュアンスでいうと、「自由と平等の国であるアメリカの一員であることを誓う」というかんじで、アメリカが自由でなくて平等でもなければ抗議をするという信条を思い出させてくれる、なかなか良い文章なのです。
今回の裁判をおこした人も、そういうアメリカの主権を尊重して、自らの信ずるとおりに行動したのでしょう。
問題となったのは、最後の部分にある、"one nation, under God" で、「神のもとに一つの国」という 195
Re:アメリカ人としては (スコア:1, すばらしい洞察)
> #それにしてもなぜ日本では愛国者は目の敵にされるんだ?
この枝の伸び具合を見るに確かに仰る通りですね。^_^;
やはり戦後教育の影響が大きいと思います。
そしてその始まりはアメリカの政策だったのですが…。
# 50年も経てば他人のせいにはできませんが。
『神のもとに』の捉え方ですが、政教分離の原則に反しているかといえば
一概にそうとも言えないと思います。正教の『教』とは教義であって信仰自体を指すものではない。
教義の違いは対立を生むけれども、信仰する精神は政(まつりごと)の基本です。
政治に祭り(祖先や倫理観との語らい)がなければそれは乱れる。
祭政は不可分であって、今の日本はまさに祭政不一致の乱れた状態だと思います。
日本がアメリカを見習うべきは、(形だけにせよ)政治から祭りの精神が失われていない点だと思います。
正教分離と祭政一致は両立するものです。
もちろん『神のもとに』の神をキリスト(あるいはキリスト教の神)だと明言してしまえば、
そこに対立が出てくるのは明白です。しかしunder Godが特定宗教に限定されない神
あるいは良心としての意味を50年の間に得てきたのであれば、
それを政教分離に対して不当だとする主張は一面的過ぎると思います。
(もちろん主張する自由はありますし、現にそれが行使されたわけですが)
今回の圧倒的市民の反対によって裁判所が留保したという経緯はとても妥当な気がします。
Re:アメリカ人としては (スコア:1)
歴史的に見ればそうですが、今現在の政(まつりごと)においてもその考え方でいいのかどうかかなり疑問です。
>政治に祭り(祖先や倫理観との語らい)がなければそれは乱れる。
でも、やはりその「祭り」というのは宗教的価値観にかなり影響されますよね?
少なくとも「政治」に比べれば「宗教」との結びつきの方が強い場合がほとんどではないでしょうか。
>正教分離と祭政一致は両立するものです。
「祭」と「教」を分けることは「政」と「教」を分けるよりもはるかに難しいと思います。
個人の価値観などによって永遠に決着のつかない論争になりそうです。
私はここで触れられている「祭」の役割は認めますが、それは宗教と同様に身近で日常的なものであって、政治が関わるべき領域ではないと思います。
うじゃうじゃ
Re:アメリカ人としては (スコア:1)
信仰と政治を一致させるというのは人類の知恵だと思うのです。
本来政治というのは利害対立の調節であり、人と人の対立の狭間にあるもので、
その熾烈な争いの只中にいる人間の行動は足の引っ張り合いにならざるを得ず、
環境問題や国際問題といったグローバルな課題に対して
優れた解を与えることができないのはあらゆる歴史が証明しています。
その低きに流れる抗い難い力に対抗するためのシステムとして
多くの社会が採用してきたものが政治の中心に信仰を据えるというものです。
アメリカでは議会や裁判、大統領就任などにおける聖書の前での宣誓。
戦前の日本では天皇の勅などが例えになるでしょうか。
> でも、やはりその「祭り」というのは宗教的価値観にかなり影響されますよね?
各人の宗教的価値観に左右されると思います。それは悪いことではないと思います。
> 「祭」と「教」を分けることは「政」と「教」を分けるよりもはるかに難しいと思います。
「教」というのは各宗教宗派が持つ教義(たぶんに啓蒙的な解釈)であり信仰そのものではありません。
そして教義とは得てして派閥を構成するものであり
これが政争を熾烈なものにしたという歴史の反省から
現代の多くの国家で政教分離が実践されていることは周知の通りです。
しかし教義と信仰は不可分のものではないことは実感として理解できると思います。
つまり「教」を強制せずとも祭りの精神を維持することは十分に可能です。
例えば別の枝でもありましたが「いただきます」という感謝の気持ちが
手を合わせる儀式とは(ある程度)独立したものであるように。
> 永遠に決着のつかない論争
極めて根深い問題ですが、そこを乗り越えていくのが人類の叡智かと。
# 政治の堕落による悲劇は言い尽くせぬほどの苦痛を人々に与えてきたのですから。
Re:アメリカ人としては (スコア:1)
>各人の宗教的価値観に左右されると思います。それは悪いことではないと思います。
はい、別に悪いことではありません。
というか、よい/悪いというレベルで判断をすべきではないと思います。
よりスムーズである程度多くの人が納得できる「手段」について論じているだけですから。
>そして教義とは得てして派閥を構成するものであり
かといって、「祭」の部分なら共通の基盤を持てると考えているならかなり違うと思います。
むしろ地域性などが目立ってくると思います。日本国内での地域による差というのは日本と外国の違いに比べれば小さなものでしょうが、だからといって必ずしも共有できているともいえません。
明治以前は外国の存在を意識する人などほとんどいなかったでしょうし、意識の上での「日本人」というものは「標準語」のように歴史的に見ればつい最近のものだと考えています。
結局、「仲間」として意識を共有できるのは「仲間じゃない」人間の存在があってこそなんだよなあ。
>現代の多くの国家で政教分離が実践されていることは周知の通りです。
>しかし教義と信仰は不可分のものではないことは実感として理解できると思います。
>つまり「教」を強制せずとも祭りの精神を維持することは十分に可能です。
本当にそんなことができる可能性があるのは日本と共産主義国だけでしょうね。
イスラム教やキリスト教の世界では「いただきます」のような非常に身近な、日常生活そのものにまでその価値観は入り込んでいます。
「政教分離」なんてのは特定の宗教を支援しない、個人の信仰の自由を妨害しないのが精一杯です。
日本以外の多くの人にとっては宗教的な部分を取り除いていったあとに宗教に依存しない精神的な何かが残っていると考えることはほとんどできないでしょう。
あったとしたらそれは人類の共通基盤であって、国の単位にとどめる必要はないですね。
>> 永遠に決着のつかない論争
>極めて根深い問題ですが、そこを乗り越えていくのが人類の叡智かと。
それを人類の叡智によって解決できると考えるのなら、「政」と「祭」を融合しない方法で人類の叡智による解決の可能性だってあると思いますが。
というか、「祭」に依存していたら仮に国内はまとまったとしても国同士の対立は残ったままになりそうです。
#個人的には会ったこともない天皇や総理大臣なんかよりも
#日本人じゃなくても友人である人の方を大切にしたいです。
#実際、在日の友人もいるので。
うじゃうじゃ