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昔、絵本で「言葉が書かれていない」ものを見たことがありますが、ああいうのを(絵画の著作物とは言えても)言語の著作物とは言えないでしょう。同様に、沈黙が音楽の著作物でないのは自明の理です。動かないことをもって舞踊の著作物、英文をあえて翻訳せずにカタカナにした翻訳の(二次)著作物、コーディング不可能な仕様であるプログラムの著作物、いずれもバカバカしい話です。
もう少し理論的に言うならば、著作権法は「アイディア」を保護する法律ではありません。ある「アイディア」に基づく「表現」(これは著作権法の保護対象)が、いずれも同じものになってしまう場合は、その表現には「創作性」が無い、と言われます(著作物とは、思想感情を「創作的に」表現したものでなければなりません)。また、多少の修正増減は「複製」と言われる範囲です。複製には創作性が無いので、「沈黙」の発想を音楽として表現すると、いずれも同一の表現ということになってしまい、著作物の要件を欠くことになります。
ちなみに、ジョン・ケージの頭が悪かったのではなく、楽譜出版社の頭が悪かったのであろうと推測します(このテの事件で、アーティスト本人が有害であることは少なく、多くはその既得権に群がる団体ばかりです)。
沈黙=何もしない、と言うのであれば、当然著作物とは認められないと思います。 しかし、それを作品として発表している場合はどうなるのでしょうか? この場合、「作品」は録音されて「形になったもの」です。 この「作品の発表」というのが表現にあたる、という考え方もあるのではないかと思いますが。
これだけ言うと、楽譜出版社の肩を持っているようにとられそうですが、私自身は楽譜出版社の主張については否定的です。 しかし、発表された楽曲について著作権を主張出来ないかというとそれも違うような気がします。(録音物の著作とはまた別問題で) 作曲者には明確な思想があって、その表現手段として沈黙を"考え"、用いたわけですから。また、その事は「沈黙の時間の長さ(一瞬ではなく、ある程度の時間を持つという事)」から明確な意図がこめられているという様に判断されると思います。 「創作性が無い」のではなく、後から作られた楽曲において(先に述べたように、作品として発表した段階において)も「創作性が認められる」ため、著作権の侵害にあたらないという判断になるのではないかと思います。
「最後のジョン・ケージが悪かったのではなく、楽譜出版社が悪い。」というのは全く同意見です。 ;; さらにいうと、「このテの事件で~」以降についても。
別の方も誤解されていましたが、私は「何もしてないんだから、形になっていないんだから、芸術性なんか無い」とは言っていません。ケージの「沈黙」は立派な芸術行為でしょう。ただ、芸術行為だからといって著作物であるとは言えない、ということを指摘したのみです。
後段の「創作性がない」という表現は法律家独特の言い回しですので、もうすこし正しく理解されやすい言葉で言うなら「他の表現可能性」でしょうか。同じアイディアに基づく表現がみんな同じになってしまうのなら、誰が表現しても同じことになるので、創作性を欠く、ということです。元の作品が独創的であれば創作的であるというわけではありません。
あと、もしかして勘違いされているかも知れませんが、既存の著作物を創作的に加工したからといって、その既存の著作物に対する翻案権侵害にならないわけではありません。
「創作性」に関しても少し調べてみました。
「特定のアイデアとその表現方法が不可避的に一致するケースにつき、「創作性」を欠くという理由によって著作権に基づく保護を否定したものである」
とされた判例があるのですね。 納得出来ました。お騒がせして申し訳ありません。
>あと、もしかして勘違いされているかも知れませんが、既存の著作物を創作的に加工したからといって、その既存の著作物に対する翻案権侵害にならな
>「作品」は録音されて「形になったもの」
>(録音物の著作とはまた別問題で)
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あと、僕は馬鹿なことをするのは嫌いですよ (わざとやるとき以外は)。-- Larry Wall
沈黙に著作権 (スコア:1)
Re:沈黙に著作権 (スコア:1)
昔、絵本で「言葉が書かれていない」ものを見たことがありますが、ああいうのを(絵画の著作物とは言えても)言語の著作物とは言えないでしょう。同様に、沈黙が音楽の著作物でないのは自明の理です。動かないことをもって舞踊の著作物、英文をあえて翻訳せずにカタカナにした翻訳の(二次)著作物、コーディング不可能な仕様であるプログラムの著作物、いずれもバカバカしい話です。
もう少し理論的に言うならば、著作権法は「アイディア」を保護する法律ではありません。ある「アイディア」に基づく「表現」(これは著作権法の保護対象)が、いずれも同じものになってしまう場合は、その表現には「創作性」が無い、と言われます(著作物とは、思想感情を「創作的に」表現したものでなければなりません)。また、多少の修正増減は「複製」と言われる範囲です。複製には創作性が無いので、「沈黙」の発想を音楽として表現すると、いずれも同一の表現ということになってしまい、著作物の要件を欠くことになります。
ちなみに、ジョン・ケージの頭が悪かったのではなく、楽譜出版社の頭が悪かったのであろうと推測します(このテの事件で、アーティスト本人が有害であることは少なく、多くはその既得権に群がる団体ばかりです)。
Re:沈黙に著作権 (スコア:1, 興味深い)
沈黙=何もしない、と言うのであれば、当然著作物とは認められないと思います。
しかし、それを作品として発表している場合はどうなるのでしょうか? この場合、「作品」は録音されて「形になったもの」です。
この「作品の発表」というのが表現にあたる、という考え方もあるのではないかと思いますが。
これだけ言うと、楽譜出版社の肩を持っているようにとられそうですが、私自身は楽譜出版社の主張については否定的です。
しかし、発表された楽曲について著作権を主張出来ないかというとそれも違うような気がします。(録音物の著作とはまた別問題で)
作曲者には明確な思想があって、その表現手段として沈黙を"考え"、用いたわけですから。また、その事は「沈黙の時間の長さ(一瞬ではなく、ある程度の時間を持つという事)」から明確な意図がこめられているという様に判断されると思います。
「創作性が無い」のではなく、後から作られた楽曲において(先に述べたように、作品として発表した段階において)も「創作性が認められる」ため、著作権の侵害にあたらないという判断になるのではないかと思います。
「最後のジョン・ケージが悪かったのではなく、楽譜出版社が悪い。」というのは全く同意見です。
;; さらにいうと、「このテの事件で~」以降についても。
Re:沈黙に著作権 (スコア:1)
別の方も誤解されていましたが、私は「何もしてないんだから、形になっていないんだから、芸術性なんか無い」とは言っていません。ケージの「沈黙」は立派な芸術行為でしょう。ただ、芸術行為だからといって著作物であるとは言えない、ということを指摘したのみです。
後段の「創作性がない」という表現は法律家独特の言い回しですので、もうすこし正しく理解されやすい言葉で言うなら「他の表現可能性」でしょうか。同じアイディアに基づく表現がみんな同じになってしまうのなら、誰が表現しても同じことになるので、創作性を欠く、ということです。元の作品が独創的であれば創作的であるというわけではありません。
あと、もしかして勘違いされているかも知れませんが、既存の著作物を創作的に加工したからといって、その既存の著作物に対する翻案権侵害にならないわけではありません。
Re:沈黙に著作権 (スコア:0)
「創作性」に関しても少し調べてみました。
とされた判例があるのですね。
納得出来ました。お騒がせして申し訳ありません。
補足・訂正 (スコア:0)
Re:沈黙に著作権 (スコア:1)
>動かないことをもって舞踊の著作物
これはちゃんとやれば、すばらしい舞踏になる気がする。
#ダンスを見るひとです。
-- wanna be the biggest dreamer
Re:沈黙に著作権 (スコア:2, すばらしい洞察)
ところで、なんの著作物なんでしょうね?
沈黙だったら、たとえば「朗読」かも知れないし。
で、それを限定するのはあくまで著作者の解釈、ってことになるんでしたっけ。
うーん。オリジナルを保護するのと、その周囲(たぶん多数)を活気づけるのとでは、
どっちがより「文化を発展させる」効果が有るんだろう?と、首をかしげてしまいます。
作品の完成をもって「ゴール」だということにされてしまう(現行著作権法はこればかりを支援しているよね)と、その効果は薄いのだが…
>すばらしい舞踏に
ところで、歩けないので椅子に座ったまま「踊り」をする人が日本に居るよね。
#足が利かないのを舞「踏」と言うかどうかは不明だが…
こないだTVでチラっと見たときは、ヘリコプタからバラだかチューリップだかの花びらを大量に降らせて、その下で(もちろん椅子の上で)踊る、というのをしてました。
なんかかっこいいぞ。
ただ、その踊りがカッコイイかどうか?という問題と、
その踊りが氏に独占されるべきものなのかどうか?という問題は、
全然別だと思うんだな。
Re:沈黙に著作権 (スコア:0)
ジョン・ケージは故人です。 (スコア:0)