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いやしくも科学的に考えるなら、宗教と言うものを考える時に見逃すことはできないことが1つあります。それは、「人類は信仰心に多大な投資をしてきた」と言う明白な事実です。
この事実は明白に次の結論を導きます。すなわち「信仰心を持つことは生き残るのに有利だった」と言うことです。実際、歴史上人類が信仰心と言うものに投資してきた資源はあまりにも莫大なもので、これが単に無意味な投資だったなんてことはクソありえないことです。そんなことはたとえ神その人が許してもダーウィニズムが許しはしません。特に人類のように資源を奪いあって同族殺しを積極的にやらかし、絶え間なく戦争を繰り返すような種にあってはなおさらです。あきらかに、「信仰心を持つことは、生存に有利だった」のです。そうでなくては信仰心などと言うものは歴史の初期で途絶えていたはずです。
では、信仰心を持つことは、どのように有利だったのでしょうか?ここで、「信仰が篤いと神様が守ってくれるから!」とか言うと話が終わってしまうので、それに代わって、「信仰心を持つと、より集団の結束が強くなる」と言う仮説を提唱してみたいと思います。
つーかこれは仮説と言うより事実のように私には思えるんですが、どうでしょうか?あきらかに、信仰心と言うものは集団を団結させ、統一された行動を取らせる効能があるように思えます。人類のような社会的な群を作って生きる動物にとって、「より結束された、より意思の統一が取れた」集団が有利になるのはほとんど自明ではないでしょうか。人類が発展する過程において、農耕をやるにも、建築をやるにも、あるいは戦争をやるにも、より結束の強い集団が有利であった、と言うことは明白に思えます。現代的な民主主義国家でも、信仰心を軸にして統一された集団は有利ですね。アメリカでも、日本でも実例があるように思います。
以上より、信仰心と言うものは、明白な事実と妥当な仮説により無理なく説明できるものであるように思えますね。すなわち、科学的に言うと、信仰心と言うものは、人類が、より統一の取れた行動を取るために、各人が備えた、一種の欲望である。と言えます。この点で性欲や食欲とえらぶところはないと言えましょう。
そう、信仰心を持つことは、人が人を愛し、美味しい食べ物を楽しむのと同じように、人間としてまったく自然なことなのです。はっきり言って非科学的な要素は何一つありません。アインシュタインには好きな食べ物はなかったのでしょうか?人を愛したことはなかったのでしょうか?実際、科学の名のもとに信仰を否定することに意味があるとは思えませんね。
たとえば昆虫はろうそくの炎に飛び込んでしまいます。これは炎に飛び込む事が生存に有利だったから発達したのでしょうか? 明らかにそうではなく、これは月や太陽といった光源に対して一定の角度で飛ぶ事で進路を決められるように発達してきた性質です。しかし、ろうそくという人工的な光源があちこちに出現した事により、その性質が「誤動作」して不利に働いてしまっているのです。
この議論は面白いですね。私の回答は、「有利とか不利とか言う前に昆虫の個体数にとって火に飛び込む数なんて誤差以下」と言うことです。捕食者に食われたりその他の死因にたいしてあまりにもレアなケースで、種の存続に有利とか不利とか言う段階に達していないのでしょう。その理由は、人類が夜に火をともすようになってからもうたぶん百万年以上は経っていると考えられるのに、現在でも昆虫は火に飛び込んでいるからです。もし不利とか言う段階に達していたら、何らかの対策を講じて今はもう飛び込まないはずです。
人類が虫が火に飛び込むことを気にするのは、夜間の固定光源のそばには(ほぼ確実に)人間がいたから、ただそれだけの理由でしょう。(種としての)昆虫は夜間に固定光源があること自体いまだに気付いていない可能性があります。
# ただ、近年あまりにも増えてますから、そろそろ気付くかも知れませんね(蜘蛛が蛍光灯のそばに巣を張りだすとか)。
さて、この論法にのっとるなら、問題は結局、信仰心を持つ人の数、信仰心につぎ込まれた資源(人命とかも含め)は、人類の数や人類が今までいろんなことに費してきた資源に対して、誤差の範囲なのか?と言うことになります。
そうだ、誤差なのだ、と言い切れる人にはそれで議論は終わりなのですが、私にとっては誤差と言うにはあまりにも膨大な犠牲が信仰心によってもたらされているとしか思えないのです。今まで宗教ゆえに死んだ人の数、信仰ゆえに払われた犠牲は、世界中の夜を飛ぶ蛾の数に対して、たまたま人間が灯していたランプに飛び込んでしまった蛾の数、くらいの比率でしかないのでしょうか?本気でそう思えますか?
それに、そう考えることは、今も多くの国で、宗教をバックにした政党が政権で大きな力を握っている、と言う事実とあまりにも矛盾しませんか?好むと好まざるとにかかわらず、信仰心は、現在でも世界のパワーバランスに大きな影響をもたらしているのです。
って矛盾はどう説明するの? 信仰に殉じて「たまたま人間が灯していたランプに飛び込んでしまった蛾の数、くらいの比率」以上に人間が死んでいるなら 「信仰心を持つことは生き残るのに有利だった」とは言えないと思うんだけどなぁ。
信仰に殉じて「たまたま人間が灯していたランプに飛び込んでしまった蛾の数、くらいの比率」以上に人間が死んでいるなら
「信仰心を持つことは生き残るのに有利だった」とは言えないと思うんだけどなぁ。
いえ、矛盾してはいませんよ。莫大な(無視しがたい)コストを支払ってきたのは事実なんだから、それを上回るメリットがあったはずだ、と言っているだけです。
そんなメリット何かない、と言うのは簡単ですが、それにしてはあまりにもコストが膨大だ(虫が火に飛び込む程度のコストではない)。と言うことですよ。
そして、手前味噌に自分の主張をつけくわえると、そのメリットとは「団結を強化し、意思を統一すること」であると思われるのです。我々のように高度に複雑な群を形成する動物にとって、団結し、意思を統一することは大変メリットのあることだったのだと思います。あらゆる犠牲を払ってお釣りがくるほどに。
こんな感じでお答えになりますかね。
# 火に飛び込む虫については、ひょっとしたら本当は無視できる比率なんかじゃなくて、多数の個体が火に # 焼かれるような犠牲を支払っても虫にとって必要な何かがあって、それでやむをえず飛び込んでいるのか # も知れませんねえ。しかし、炎と月の光を見分けることがそれほど困難か、っつーとちょっと疑問です。 # やっぱわざわざ対策するようなことだと思ってないんじゃないかと…。
莫大なコストを支払ってきたら、その行為にメリットがあったはずというのは自明ではないですよね。 私は宝くじに莫大なコストを払ってきたが、その行為にメリットはなかったと思います。 でも、宝くじを運用している組織やたまたま宝くじに当たった人には、宝くじという幻想を維持するメリットはあると思いますが。
私は宝くじに莫大なコストを払ってきたが、その行為にメリットはなかったと思います。 でも、宝くじを運用している組織やたまたま宝くじに当たった人には、宝くじという幻想を維持するメリットはあると思いますが。
まず、あなたは(おそらく意図的に)個体のレベルともっと大きな集団のレベルを混同して話していますね。ものごとには例外がつきものなので、個人のレベルで運よく成功しようと、あるいは失敗しようと、それで全体を論ずるわけには行きません。
それを踏まえてあえて個人のレベルでお話ししますと、あなたが今も生きていて、その上スラドに書き込めるくらいの経済力を保っていると言うことは、1つの事実を示しています。それは、「あなたが宝くじに投じた金額は、莫大ではなかった」と言うことです。どう見ても、あなたが経済的に破綻して飢え死にするレベルに達していません。そうではないですか?あなたが個人的に莫大だと思っていても、他をきりつめれば何とかなる程度の金額ではなかったでしょうか。つーか、何ともなっていなかったら今あなたと私はこうやって議論はできないはずです。
結局、宝くじと言うあまりにも見返りの薄いギャンブルが一般に受け入れられているのは、1回に投じる金額があまりに低いからでしょう。
私は、人が宗教に投じてきた金額は、宝くじ程度のものではなかった、と思っているのです。まあ人類の滅亡レベルまで行かなくても、すくなくとも、「隣りに宗教なんてものに無駄金を投じない国があったとしたら、その国との戦争に負けるレベル」くらいの資源は投じてきた、と思っています。どうでしょう。どうもこのへん定量的な話になりようがなくてすいませんね。
そんなことはない、宝くじレベルの、「あたらなくてもともと」くらいの犠牲しか投じていない。と言う人もいるかも知れませんが、そうなると、宗教について世界中であんまり人が大騒ぎしすぎるような気がします(このスラドでの議論も含めて)。
現代においては信仰よりも会社の方が安全に生き残る手段のような気がします。
これにはまったく同意です。現代社会においては、「信仰心を通じて結束する」戦略よりも、「各人がてんでに自分の利益(金)を追求する」戦略のほうが、全体としてうまく働く、と言うことが実証されかかっているように思います。「金を求める」戦略にも欠点があると思うので、完全に決着がついたとは思っていませんが、現状ではどう見ても金が有利ですね。今後は果たしてどうなるのでしょうか。興味深く観察しています。
アインシュタインのような偉大な科学者であってさえ、宗教を否定する時には「子供じみた」とか「迷信にすぎない」とか言う非科学的な言葉を使ってしまうと言うのが人間と宗教との関わりの根深いところですね。
だって、科学的に否定出来ない事は、科学的に否定出来ないんだもん。
オッカムの剃刀で削り落とすことはできますよ。私はそれで十分だと思います。否定しようとするから話がややこしくなるのです。
もう一個、別な地球を用意して、そっちは宗教なしで発展させてみる、というような対照実験が出来たら「やっぱり科学とか技術だけじゃ駄目で、宗教も必要だったぞ」って言えるんだけどね。そんなことは神様じゃないと無理だもんね。
その実験に近いことは、すでに行われていると考えられるのではないでしょうか。何故かと言うと、すべての人間が何らかの宗教を信じるというわけでは決してないからです。信仰心の薄い人はいっぱいいます(つーか、現代ではそっちのほうが多いように思えます)。
つまり、信仰心の薄い人間の集団が発展する可能性はありました。宗教にはコストがかかります(むやみにでっかい神殿を建てたりとか、いちいち集まってお祭りをやったりとか)。そんなコストを支払わなくてすむ集団があったら、そっちのほうが発展してもおかしくはなかったのです。しかし、ご存知のように、そうはならなかった。ではそれは何故か?と言うことです。
宗教とは影響力の桁が違うプラス要素が別に存在し、その寄与によって人類は生存、繁栄をした可能性を忘れてはいけません。 例えば科学とか、技術とかね。(鉄器や火薬が、どれほど祖先達の生存の助けになったでしょう)
信仰の問題は、人間がいかにふるまうか、と言う問題なので、単なる技術である鉄器や火薬とはちょっと違うと思います。あなたは極論と言っていますが、犯罪が一番近いでしょう。同列に語っても別に問題ないと思いますが。
さて、あなたの言うように、信仰心の影響なんて大したことはなく、別に生きるのに必須と言うわけではなかった。単に邪魔にならなかったから今もあるんだ、程度のものであったと考えることもできます。しかし、それにしては世界中に見られすぎると思いませんか?ローカルなコミュニティが、様々なマツリを通じて結束している例は人類すべてに見られると言って過言ではないですし、さらに今も世界中で新興宗教がおこり続け、多数の人々が入信し続けていると言う事実があるのです。
私には、これほど普遍的に、莫大なコストを支払ってまで現在進行形で維持されている「信仰心」と言うものが、無意味で、不必要なものであると決めつけるのは、論理的な態度であるとは思えません(あなたが決めつけていると言ってるわけではないです。世の中には決めつけている人が多いので…)。
>そんなことはたとえ神その人が許してもダーウィニズムが許しはしません。 ダーウィニズムは「今残ってるものは必ず生存に有利なものだ」とは保証してくれませんよ? せいぜい「あっても困らなかった(かも)」くらいです。 環境が充分”余裕”あるなら、「余計なもの」が許される。そうじゃなきゃ多様性は産まれない。 宗教がその一つじゃないと結論付けるのは神以外には不可能ですな。
確かにおっしゃる通りなんですが、宗教が「あって困らなかった」程度のもの(かも)、と言うのには同意しかねます。何故かと言うと、余計なことで、生活の余裕を使ってやるようなことだったとしたら、「生活に余裕があるときにはやるけど、環境が厳しくなってくると止める」と言うものでなければなりません。そうでしょう?
宗教はあきらかにそうではありません。違いますか?むしろ、環境が厳しい時にこそさまざまな宗教がはびこっていませんか?そして、生活に余裕がでてくると、宗教なんてものは流行らなくなってきます(現代日本がまさにそうではありませんか?)。
「宗教=余計なもの」という解釈だと、環境が厳しいときにこそ宗教が猖獗を極める、と言う点を説明できないと思います。
# そして、結論付けるのは無理、と言うのには同意です。信仰心なんて化石に残るようなものではないですからね。
「自然なこと」と言ったのを肯定的にとらえられたようですが、別段そんなつもりはありません。「人が人に殺意を抱くように」「人が差別の心を持つように」自然だ、と言ったって別に意味は変わりません。今現在でも世界中でいろんな理由で人が人を殺していますし、差別は今も隠然と(地域によっては公然と)行われています。
「まったく自然なことだ」と言ったからと言って、それによる行動を全肯定しているとは思わないでいただきたいです。
言いかたをかえてみると、年頃の男が女性に対して性欲を抱くことは、「まったく自然なこと」です。そうでしょう?でもそれを肯定したからと言って、強姦することを肯定したと思われては困ります。いやマジで。
どうも過激な宗教否定派の人には、宗教がらみのことを全部強姦レベルで考える人がいて困ります(あなたのことではないです)。
信仰心を抱くことは「人間としてまったく自然なこと」であると考えられますが、イエス・キリストやブッダの言葉に心うたれ、正しく生きようとする人間と、宗教を理由にして人を傷つけようとする人間は、恋する青年と強姦魔くらいは違います。そのへんをご理解いただければと思いますね。
とりあえず、「信仰心」を否定されると困ることだけは伝わってきますが、ほとんど「信仰心」への信仰告白になっているのが残念です。
残念ながら、ちゃんと伝わってはいないようです…。私は、信仰心を否定することは無意味だ、と言っています。本当に、信仰心を否定して、それでおかしな宗教によって苦しむ人がいなくなるんならばどんなに良いでしょう。
さて、なんか私がどう言う人間か決めつけられたようですので、私もあなたのことを決めつけたいと思います(失礼を承知で)。
あなたは、殺人や窃盗を犯したことがなく、そんなことは自分とは違う(邪悪な)人がやることだと思っていますね?
あなたは、おかしな宗教にハマったことがなく、そんなことは自分とは違う(頭と心の弱い)人に起きるものだと思っていますね?
あなたは、公然と人を差別したことがなく、そんなことは自分とは違う(心のねじれた)人がやることだと思っていますね?
あなたは、女(or男)やギャンブルで身を持ち崩したことがなく、そんなことは自分とは違う(だらしない)人に起きることだと思っていますね?
私は、これらすべての欲望が否定されると困るわけではありません。口先だけで否定することに、意味はないと知っているだけです。
信じるものは度し難し。
まさしく。私も、口先だけで否定して、自分だけ真っ白な手をしていると思い込んでいる人間は度し難い、と思っています。
相当な断絶がありますね。
宗教なんてもんがなければ、もう少し平和な世の中になっていたんじゃないかな。
そのお気持はよくわかります。しかし分かっていただきたいのですが、私は善悪の話をしているわけではなく、生存の機能の話をしているのです。つまり、初期人類の集団が互いに資源を奪いあうにあたって、「宗教を持たず、平和的に暮す集団」と「信仰心によって団結した、平和的じゃない集団」が出会った場合、後者のほうが有利であったろう、と言う話なのです。歴史的に見ても、後者が前者を征服し、自分達の信仰を強制したと言う例はいっぱいあるのではないでしょうか。
# 実際いやな話ですね。
ちなみに、元コメントの内容は議論をするための「ネタ」だよね? 本気で信じているわけじゃないですよね?
本気で信じているわけじゃないですよね?
自分で書いたのを読みかえして見ても、信じる信じないと言う点はないようです。「事実」と書いてあるのが本当に事実なのか、提示した解釈は妥当なのかと言う議論はできると思いますが。
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最初のバージョンは常に打ち捨てられる。
アインシュタインでさえ (スコア:2, 興味深い)
いやしくも科学的に考えるなら、宗教と言うものを考える時に見逃すことはできないことが1つあります。それは、「人類は信仰心に多大な投資をしてきた」と言う明白な事実です。
この事実は明白に次の結論を導きます。すなわち「信仰心を持つことは生き残るのに有利だった」と言うことです。実際、歴史上人類が信仰心と言うものに投資してきた資源はあまりにも莫大なもので、これが単に無意味な投資だったなんてことはクソありえないことです。そんなことはたとえ神その人が許してもダーウィニズムが許しはしません。特に人類のように資源を奪いあって同族殺しを積極的にやらかし、絶え間なく戦争を繰り返すような種にあってはなおさらです。あきらかに、「信仰心を持つことは、生存に有利だった」のです。そうでなくては信仰心などと言うものは歴史の初期で途絶えていたはずです。
では、信仰心を持つことは、どのように有利だったのでしょうか?ここで、「信仰が篤いと神様が守ってくれるから!」とか言うと話が終わってしまうので、それに代わって、「信仰心を持つと、より集団の結束が強くなる」と言う仮説を提唱してみたいと思います。
つーかこれは仮説と言うより事実のように私には思えるんですが、どうでしょうか?あきらかに、信仰心と言うものは集団を団結させ、統一された行動を取らせる効能があるように思えます。人類のような社会的な群を作って生きる動物にとって、「より結束された、より意思の統一が取れた」集団が有利になるのはほとんど自明ではないでしょうか。人類が発展する過程において、農耕をやるにも、建築をやるにも、あるいは戦争をやるにも、より結束の強い集団が有利であった、と言うことは明白に思えます。現代的な民主主義国家でも、信仰心を軸にして統一された集団は有利ですね。アメリカでも、日本でも実例があるように思います。
以上より、信仰心と言うものは、明白な事実と妥当な仮説により無理なく説明できるものであるように思えますね。すなわち、科学的に言うと、信仰心と言うものは、人類が、より統一の取れた行動を取るために、各人が備えた、一種の欲望である。と言えます。この点で性欲や食欲とえらぶところはないと言えましょう。
そう、信仰心を持つことは、人が人を愛し、美味しい食べ物を楽しむのと同じように、人間としてまったく自然なことなのです。はっきり言って非科学的な要素は何一つありません。アインシュタインには好きな食べ物はなかったのでしょうか?人を愛したことはなかったのでしょうか?実際、科学の名のもとに信仰を否定することに意味があるとは思えませんね。
Re:アインシュタインでさえ (スコア:5, 興味深い)
たとえば昆虫はろうそくの炎に飛び込んでしまいます。これは炎に飛び込む事が生存に有利だったから発達したのでしょうか?
明らかにそうではなく、これは月や太陽といった光源に対して一定の角度で飛ぶ事で進路を決められるように発達してきた性質です。しかし、ろうそくという人工的な光源があちこちに出現した事により、その性質が「誤動作」して不利に働いてしまっているのです。
ドーキンスはこの例により、人類の祖先の段階で自然淘汰により有利とされたのは「宗教そのものではなく」別の要因であって、「宗教はその不幸な副産物」なのかもしれないと論じています。
そしてその「別の要因」として彼は「子供が親を妄信的に信じる事」が生存に有利に働いたのではないか。宗教はそれが誤作動したものではないかという説を提唱しています。
//Sinraptor
Re:アインシュタインでさえ (スコア:1)
この議論は面白いですね。私の回答は、「有利とか不利とか言う前に昆虫の個体数にとって火に飛び込む数なんて誤差以下」と言うことです。捕食者に食われたりその他の死因にたいしてあまりにもレアなケースで、種の存続に有利とか不利とか言う段階に達していないのでしょう。その理由は、人類が夜に火をともすようになってからもうたぶん百万年以上は経っていると考えられるのに、現在でも昆虫は火に飛び込んでいるからです。もし不利とか言う段階に達していたら、何らかの対策を講じて今はもう飛び込まないはずです。
人類が虫が火に飛び込むことを気にするのは、夜間の固定光源のそばには(ほぼ確実に)人間がいたから、ただそれだけの理由でしょう。(種としての)昆虫は夜間に固定光源があること自体いまだに気付いていない可能性があります。
# ただ、近年あまりにも増えてますから、そろそろ気付くかも知れませんね(蜘蛛が蛍光灯のそばに巣を張りだすとか)。
さて、この論法にのっとるなら、問題は結局、信仰心を持つ人の数、信仰心につぎ込まれた資源(人命とかも含め)は、人類の数や人類が今までいろんなことに費してきた資源に対して、誤差の範囲なのか?と言うことになります。
そうだ、誤差なのだ、と言い切れる人にはそれで議論は終わりなのですが、私にとっては誤差と言うにはあまりにも膨大な犠牲が信仰心によってもたらされているとしか思えないのです。今まで宗教ゆえに死んだ人の数、信仰ゆえに払われた犠牲は、世界中の夜を飛ぶ蛾の数に対して、たまたま人間が灯していたランプに飛び込んでしまった蛾の数、くらいの比率でしかないのでしょうか?本気でそう思えますか?
それに、そう考えることは、今も多くの国で、宗教をバックにした政党が政権で大きな力を握っている、と言う事実とあまりにも矛盾しませんか?好むと好まざるとにかかわらず、信仰心は、現在でも世界のパワーバランスに大きな影響をもたらしているのです。
Re:アインシュタインでさえ (スコア:2, すばらしい洞察)
>この事実は明白に次の結論を導きます。すなわち「信仰心を持つことは生き残るのに有利だった」と言うことです。
と書いてあるんだけど、そのあとで
>今まで宗教ゆえに死んだ人の数、信仰ゆえに払われた犠牲は、世界中の夜を飛ぶ蛾の数に対して、
>たまたま人間が灯していたランプに飛び込んでしまった蛾の数、くらいの比率でしかないのでしょうか?本気でそう思えますか?
って矛盾はどう説明するの?
信仰に殉じて「たまたま人間が灯していたランプに飛び込んでしまった蛾の数、くらいの比率」以上に人間が死んでいるなら
「信仰心を持つことは生き残るのに有利だった」とは言えないと思うんだけどなぁ。
Re:アインシュタインでさえ (スコア:1)
いえ、矛盾してはいませんよ。莫大な(無視しがたい)コストを支払ってきたのは事実なんだから、それを上回るメリットがあったはずだ、と言っているだけです。
そんなメリット何かない、と言うのは簡単ですが、それにしてはあまりにもコストが膨大だ(虫が火に飛び込む程度のコストではない)。と言うことですよ。
そして、手前味噌に自分の主張をつけくわえると、そのメリットとは「団結を強化し、意思を統一すること」であると思われるのです。我々のように高度に複雑な群を形成する動物にとって、団結し、意思を統一することは大変メリットのあることだったのだと思います。あらゆる犠牲を払ってお釣りがくるほどに。
こんな感じでお答えになりますかね。
# 火に飛び込む虫については、ひょっとしたら本当は無視できる比率なんかじゃなくて、多数の個体が火に
# 焼かれるような犠牲を支払っても虫にとって必要な何かがあって、それでやむをえず飛び込んでいるのか
# も知れませんねえ。しかし、炎と月の光を見分けることがそれほど困難か、っつーとちょっと疑問です。
# やっぱわざわざ対策するようなことだと思ってないんじゃないかと…。
Re: (スコア:0)
莫大なコストを支払ってきたら、その行為にメリットがあったはずというのは自明ではないですよね。
私は宝くじに莫大なコストを払ってきたが、その行為にメリットはなかったと思います。
でも、宝くじを運用している組織やたまたま宝くじに当たった人には、宝くじという幻想を維持するメリットはあると思いますが。
宗教のメリットとしての因果関係は信仰の厚い集団が薄い集団に優るという暗黙の理解があって初めて成り立つと思いますが、
歴史的にみて、集団間の争いにおいては信仰の厚い集団が薄い集団を蹂躙してきたかもしれないが、
これが人類全体にとってメリットデメリットとなると微妙です。
これは証明するのは簡単ではないのではないでしょうか。
現代においては信仰よりも会社の方が安全に生き残る手段のような気がします。
Re:アインシュタインでさえ (スコア:1)
まず、あなたは(おそらく意図的に)個体のレベルともっと大きな集団のレベルを混同して話していますね。ものごとには例外がつきものなので、個人のレベルで運よく成功しようと、あるいは失敗しようと、それで全体を論ずるわけには行きません。
それを踏まえてあえて個人のレベルでお話ししますと、あなたが今も生きていて、その上スラドに書き込めるくらいの経済力を保っていると言うことは、1つの事実を示しています。それは、「あなたが宝くじに投じた金額は、莫大ではなかった」と言うことです。どう見ても、あなたが経済的に破綻して飢え死にするレベルに達していません。そうではないですか?あなたが個人的に莫大だと思っていても、他をきりつめれば何とかなる程度の金額ではなかったでしょうか。つーか、何ともなっていなかったら今あなたと私はこうやって議論はできないはずです。
結局、宝くじと言うあまりにも見返りの薄いギャンブルが一般に受け入れられているのは、1回に投じる金額があまりに低いからでしょう。
私は、人が宗教に投じてきた金額は、宝くじ程度のものではなかった、と思っているのです。まあ人類の滅亡レベルまで行かなくても、すくなくとも、「隣りに宗教なんてものに無駄金を投じない国があったとしたら、その国との戦争に負けるレベル」くらいの資源は投じてきた、と思っています。どうでしょう。どうもこのへん定量的な話になりようがなくてすいませんね。
そんなことはない、宝くじレベルの、「あたらなくてもともと」くらいの犠牲しか投じていない。と言う人もいるかも知れませんが、そうなると、宗教について世界中であんまり人が大騒ぎしすぎるような気がします(このスラドでの議論も含めて)。
これにはまったく同意です。現代社会においては、「信仰心を通じて結束する」戦略よりも、「各人がてんでに自分の利益(金)を追求する」戦略のほうが、全体としてうまく働く、と言うことが実証されかかっているように思います。「金を求める」戦略にも欠点があると思うので、完全に決着がついたとは思っていませんが、現状ではどう見ても金が有利ですね。今後は果たしてどうなるのでしょうか。興味深く観察しています。
Re:アインシュタインでさえ (スコア:1)
個体にとっての有利・不利と種族にとっての有利・不利は違う。
種族にとってどうなのかは滅亡するまで分からない。(塞翁が馬)
the.ACount
Re:アインシュタインでさえ (スコア:3, 興味深い)
私は哲学史に関してソフィーの世界 [amazon.co.jp]をざっと読んだ程度の知識しかなく、その範囲での印象ですが。この本を読む限り、紀元前までせっかく順調に哲学が発展してきていたのに、神という概念の発明によって、「神を哲学上どこに位置づければよいのか?」というどうでもいい命題に優秀な方々がハマり、その解決に膨大なリソースが吸い込まれてしまった結果、哲学から科学までの発展がぱたりと停まってしまっていた、と言うように見えました。
Re:アインシュタインでさえ (スコア:1)
刷り込まれているのは間違いないでしょう。
アリやハチの集団がフェロモンで維持されてるように
コミュニティの維持自体が宗教の本意でしょう。
で、本来の目的でない「神様のご機嫌を取る」が主目的に
なってしまうと、コミュニティに取っては宗教が足枷に
なってしまうんではないでしょうか。
-------- tear straight across --------
Re:アインシュタインでさえ (スコア:1)
>刷り込まれているのは間違いないでしょう。
そうだとしても、上手く付き合う方法はあるでしょう。聖職者の方の多くが性欲を押さえ込んで生活してらっしゃるように、私達も生まれ持った信仰心を抑制して生きていけますよ、きっと。
それを、何かしら周りに過剰な迷惑をかつつ、これは生まれ持ったほとばしる信仰心の発露だからしょうがないんだ! と、理由付けしてる人が居たら、まあ、子供じみてるなぁ、自重しろよ、としか見えないでしょう。
>アリやハチの集団がフェロモンで維持されてるように
>コミュニティの維持自体が宗教の本意でしょう。
多分、今更その機能を宗教に求めなくても大丈夫でしょう。 コミュニティの維持方法に関する研究、理解が進んでいなかった時代に、とりあえず成功する維持方法としての宗教が有効だったことは歴史が如実に示していますが。
今やその維持の仕組みもある程度理解できるようになり、資本主義やら、民主主義やら、それに取って代わる方法も開発されつつあります。 その辺の新手法が、本当に宗教に取って代わって成功するかどうかはこれからの歴史ですから、まだ何とも言えませんが。私個人としては、今までの状況からの推測で、かつての宗教が成功した程度には成功するんじゃないかと楽観視しています。
Re:アインシュタインでさえ (スコア:3, 参考になる)
アインシュタインのような偉大な科学者なら常に科学的根拠と洞察に基づいた発言をすると期待する人がいると言うのも、また根深い科学信仰ですね。
アインシュタインは自分の考える神のイメージはスピノザ [wikipedia.org]の考えた人格を持たない神に近いと発言しています。
まあ神とは物理法則そのもので、その神から見れば人間も石ころも世界の構成要素として等価であり、人間が神をどう扱おうが無関心なので信仰は無意味というか、「神の存在」と「信仰」は別のものとして考えようとしていたと。
ただしアインシュタインはあくまで「俺はそう考えてる」というだけで、他人の信仰をとやかく言うようなことは極力しなかったそうです。
うじゃうじゃ
とーとろじー (スコア:2, すばらしい洞察)
だって、科学的に否定出来ない事は、科学的に否定出来ないんだもん。
Re:とーとろじー (スコア:3, すばらしい洞察)
その一方で、宗教が科学のフリをして
ちょっかいをかけてくるわけですな。
〜後悔先に立たず・後悔役に立たず・後悔後を絶たず〜
Re:とーとろじー (スコア:1)
オッカムの剃刀で削り落とすことはできますよ。私はそれで十分だと思います。否定しようとするから話がややこしくなるのです。
Re:とーとろじー (スコア:1)
と前振りしておきながら
>オッカムの剃刀で削り落とすことはできますよ。
とスコラ哲学を持ち出すってのはどうなの?
まぁ、確かに哲学は人文科学だけどさ・・・
でも、元コメント読む分には「科学的=自然科学的」と読めるんだが誤読かいね?
詭弁の特徴でも貼っておいた方がいいのかな?
Re:アインシュタインでさえ (スコア:2, すばらしい洞察)
例えば科学とか、技術とかね。(鉄器や火薬が、どれほど祖先達の生存の助けになったでしょう)
極論すれば、宗教を麻薬や犯罪と同列に語ることもできるのです。
「多くのリソースが投じられたから」は、論理的には全く信仰と生存の相関を示すものではありません。
Re:アインシュタインでさえ (スコア:1)
もう一個、別な地球を用意して、そっちは宗教なしで発展させてみる、というような対照実験が出来たら「やっぱり科学とか技術だけじゃ駄目で、宗教も必要だったぞ」って言えるんだけどね。そんなことは神様じゃないと無理だもんね。
Re:アインシュタインでさえ (スコア:1)
その実験に近いことは、すでに行われていると考えられるのではないでしょうか。何故かと言うと、すべての人間が何らかの宗教を信じるというわけでは決してないからです。信仰心の薄い人はいっぱいいます(つーか、現代ではそっちのほうが多いように思えます)。
つまり、信仰心の薄い人間の集団が発展する可能性はありました。宗教にはコストがかかります(むやみにでっかい神殿を建てたりとか、いちいち集まってお祭りをやったりとか)。そんなコストを支払わなくてすむ集団があったら、そっちのほうが発展してもおかしくはなかったのです。しかし、ご存知のように、そうはならなかった。ではそれは何故か?と言うことです。
Re:アインシュタインでさえ (スコア:1)
信仰の問題は、人間がいかにふるまうか、と言う問題なので、単なる技術である鉄器や火薬とはちょっと違うと思います。あなたは極論と言っていますが、犯罪が一番近いでしょう。同列に語っても別に問題ないと思いますが。
さて、あなたの言うように、信仰心の影響なんて大したことはなく、別に生きるのに必須と言うわけではなかった。単に邪魔にならなかったから今もあるんだ、程度のものであったと考えることもできます。しかし、それにしては世界中に見られすぎると思いませんか?ローカルなコミュニティが、様々なマツリを通じて結束している例は人類すべてに見られると言って過言ではないですし、さらに今も世界中で新興宗教がおこり続け、多数の人々が入信し続けていると言う事実があるのです。
私には、これほど普遍的に、莫大なコストを支払ってまで現在進行形で維持されている「信仰心」と言うものが、無意味で、不必要なものであると決めつけるのは、論理的な態度であるとは思えません(あなたが決めつけていると言ってるわけではないです。世の中には決めつけている人が多いので…)。
Re:アインシュタインでさえ (スコア:1)
そんなものがなければ、現在の国際的問題はかなり減っただろうとは思うが、戦争を通じた科学技術の発展も遅かったろうな。(ギリシャ・ローマ時代の多神教が続いてた方が、科学だけは進んだかも)
the.ACount
Re:アインシュタインでさえ (スコア:2, 参考になる)
>そんなことはたとえ神その人が許してもダーウィニズムが許しはしません。
ダーウィニズムは「今残ってるものは必ず生存に有利なものだ」とは保証してくれませんよ?
せいぜい「あっても困らなかった(かも)」くらいです。
環境が充分”余裕”あるなら、「余計なもの」が許される。そうじゃなきゃ多様性は産まれない。
宗教がその一つじゃないと結論付けるのは神以外には不可能ですな。
#芸術、娯楽などもそう。
#必要だという理屈を考えることは可能だけど、その理屈が正しいと証明することは不可能だなぁ。
Re:アインシュタインでさえ (スコア:1)
確かにおっしゃる通りなんですが、宗教が「あって困らなかった」程度のもの(かも)、と言うのには同意しかねます。何故かと言うと、余計なことで、生活の余裕を使ってやるようなことだったとしたら、「生活に余裕があるときにはやるけど、環境が厳しくなってくると止める」と言うものでなければなりません。そうでしょう?
宗教はあきらかにそうではありません。違いますか?むしろ、環境が厳しい時にこそさまざまな宗教がはびこっていませんか?そして、生活に余裕がでてくると、宗教なんてものは流行らなくなってきます(現代日本がまさにそうではありませんか?)。
「宗教=余計なもの」という解釈だと、環境が厳しいときにこそ宗教が猖獗を極める、と言う点を説明できないと思います。
# そして、結論付けるのは無理、と言うのには同意です。信仰心なんて化石に残るようなものではないですからね。
Re:アインシュタインでさえ (スコア:1)
私は「宗教が云々」という主張をしたのではなく
「ダーウィニズム」という言い回しにツッコミを入れたにすぎません(^^;
貴方が述べた理由をもって「宗教は必要であった(にちがいない)」と主張するのであれば
むしろ同意したかと思います。
ただそれを「神その人が許してもダーウィニズムが許しはしません」と言うのは違うよ、と。
># そして、結論付けるのは無理、と言うのには同意です。信仰心なんて化石に残るようなものではないですからね。
これについても、適者生存の法則から導くのは無理だよ、と言ってるだけであって
別のアプローチから(充分な妥当性があるという意味で)「結論づける」可能性はあると思います。
#そうじゃないと考古学全否定になってしまいますしね(^^;
まぁそもそも文書に残ってる程度の数千年の歴史に対してダーウィニズムを適用するのはタイムスケールが合わない、というのは誰もが分かっていることでしょうから
(……たまに分かってない人とか意図的に適用・悪用する人とかいますが)
一種の比喩であるこの言い回しに対してツッコミ自体が無粋、というのが本当のところ。
お手間を取らせてしまい申し訳ありませんでした。
Re:アインシュタインでさえ (スコア:2, すばらしい洞察)
まず、kai氏の主張は、3つの点からナンセンスです。
1.明らかにアインシュタインの抄訳すら読んでいない。さらに悪い事に、ジャーナリスティックに抜き出された一文に反射的に飛びついている点。
2.長々と論じ立ててる割に、議論が杜撰で、論理的飛躍がある点。一つ例を上げれば、Kai氏の論法をそのまま利用して"差別"も肯定で
事実、人類は有史以前より"差別"に熱心で、それを維持するために結構なコストを払ってきました。だからといって差別は"信仰心を持つことは、人が人を愛し、美味しい食べ物を楽しむのと同じように、人間としてまったく自然なこと"なのでしょうかね?
3.進化論を短絡的に用いている点。
しかし、一番の問題は、これらの議論によってアインシュタインを非難している点です。
文脈も顧みず、アインシュタインの意図を勘違いし、お粗末な議論を重ね、アインシュタインを"科学的に非難"するというのはまったくもって慎み以前の問題ではないでしょうか?
Re:アインシュタインでさえ (スコア:1)
「自然なこと」と言ったのを肯定的にとらえられたようですが、別段そんなつもりはありません。「人が人に殺意を抱くように」「人が差別の心を持つように」自然だ、と言ったって別に意味は変わりません。今現在でも世界中でいろんな理由で人が人を殺していますし、差別は今も隠然と(地域によっては公然と)行われています。
「まったく自然なことだ」と言ったからと言って、それによる行動を全肯定しているとは思わないでいただきたいです。
言いかたをかえてみると、年頃の男が女性に対して性欲を抱くことは、「まったく自然なこと」です。そうでしょう?でもそれを肯定したからと言って、強姦することを肯定したと思われては困ります。いやマジで。
どうも過激な宗教否定派の人には、宗教がらみのことを全部強姦レベルで考える人がいて困ります(あなたのことではないです)。
信仰心を抱くことは「人間としてまったく自然なこと」であると考えられますが、イエス・キリストやブッダの言葉に心うたれ、正しく生きようとする人間と、宗教を理由にして人を傷つけようとする人間は、恋する青年と強姦魔くらいは違います。そのへんをご理解いただければと思いますね。
Re:アインシュタインでさえ (スコア:1)
リンゴは下に落ちるのが「まったく自然なこと」ですが、そのメカニズムとその裏にある
自然法則を探求するのが自然科学です。
「年頃の男が女性に対して性欲を抱くこと」も、「信仰心を抱くこと」も、なぜそうなるのか
を研究することは重要でしょう。
その上で、もし性欲がなくとも人類社会がより幸福のうちに発展維持でき、また性欲を抑制する
方法が実現するなら、当然「性欲はよくないことだからなくそう」という考え方が生まれます。
当然、差別や信仰心も同じです。「みんな同じ(ように信仰心/差別心/性欲)をもつのだから
自然なんだ。このままでいいんだ」というのは単なる思考停止だし、主観的な「好み」にすぎません。
私が「体育会系のノリは不快だし、真剣に信仰を説く人は痛いから、啓蒙し、この世からなくして
しまいたい」と思うのと同等の価値しかありません。
この文章の (スコア:1)
とりあえず、「信仰心」を否定されると困ることだけは伝わってきますが、ほとんど「信仰心」への信仰告白になっているのが残念です。
信じるものは度し難し。
Re:この文章の (スコア:1)
残念ながら、ちゃんと伝わってはいないようです…。私は、信仰心を否定することは無意味だ、と言っています。本当に、信仰心を否定して、それでおかしな宗教によって苦しむ人がいなくなるんならばどんなに良いでしょう。
さて、なんか私がどう言う人間か決めつけられたようですので、私もあなたのことを決めつけたいと思います(失礼を承知で)。
あなたは、殺人や窃盗を犯したことがなく、そんなことは自分とは違う(邪悪な)人がやることだと思っていますね?
あなたは、おかしな宗教にハマったことがなく、そんなことは自分とは違う(頭と心の弱い)人に起きるものだと思っていますね?
あなたは、公然と人を差別したことがなく、そんなことは自分とは違う(心のねじれた)人がやることだと思っていますね?
あなたは、女(or男)やギャンブルで身を持ち崩したことがなく、そんなことは自分とは違う(だらしない)人に起きることだと思っていますね?
私は、これらすべての欲望が否定されると困るわけではありません。口先だけで否定することに、意味はないと知っているだけです。
まさしく。私も、口先だけで否定して、自分だけ真っ白な手をしていると思い込んでいる人間は度し難い、と思っています。
相当な断絶がありますね。
Re:この文章の (スコア:1)
ネガティブな影響を与えるものであるなら、
差別をなくすために「差別はよくないことだ」と口にするのと同様に、
信仰をなくすために「信仰はよくないことだ」と口にするのが無意味かどうかは、
統計的な検証が必要な項目だと思いますが、違いますか?
>本当に、信仰心を否定して、それでおかしな宗教によって苦しむ人がいなくなるんならばどんなに良いでしょう。
という言葉から、あなたの「信仰心を否定しても、おかしな宗教によって苦しむ人は減らない」という
主張がみてとれますが、そのエビデンスになっているのは何でしょうか。
「信仰心を否定し続ければ、おかしな宗教によって苦しむ人が減る」という主張があったとして、
どちらが正しいかどのように判定するのでしょうか。「自分がそう思うからそうなのだ」とか
「これが自然だ、当たり前だ」というのは理由ではありません。
だからこそ、実証と統計、すなわち科学的な姿勢が必要なのです。科学は自分の信じるものと他人の信じるものを
、現実を通して理解しあうための共通言語です。時には自分の信じることが間違っていることもあるでしょうか、
これ以外にはお互いを分かり合う手がかりはありません。
信仰心を持つとここまで傲慢になるんだなぁ (スコア:0)
「信仰心は (頭と心の弱い)人に起きるもの」なんて噴飯ものだなぁ。
逆だよ。
信仰心ってのは「自分が信じることにした神や教義は 正しい」と 言ってのける
デタラメなほどの心の強さがなきゃ維持できないのだから。
心と頭の「弱い」人間だときちんと自覚した人間こそが
絶えず論理としての破綻がないように検証と討議を重ね、
検証から得られる証拠、再現できる実証可能性という客観的なデータを集めようと
努力しつづけるんだから。
信仰心を持つなんてのは、そういう「自分が信じている対象は間違いかもしれない」
という謙虚さのカケラもない、心がデタラメに強くて傲慢な人間だけができることだね。
Re: (スコア:0)
結局は、統一された「以外」の人々を排斥したり、とロクな結果になってないようなきがするんです。
宗教なんてもんがなければ、もう少し平和な世の中になっていたんじゃないかな。
ちなみに、元コメントの内容は議論をするための「ネタ」だよね?
本気で信じているわけじゃないですよね?
# xxxx 信者としらずに相手をしたら、かなりシツコくつきまとわれた事があるので AC
# 名誉教授号をもらうのが仕事の人の写真展なんて興味ありませんから!
Re:アインシュタインでさえ (スコア:1)
そのお気持はよくわかります。しかし分かっていただきたいのですが、私は善悪の話をしているわけではなく、生存の機能の話をしているのです。つまり、初期人類の集団が互いに資源を奪いあうにあたって、「宗教を持たず、平和的に暮す集団」と「信仰心によって団結した、平和的じゃない集団」が出会った場合、後者のほうが有利であったろう、と言う話なのです。歴史的に見ても、後者が前者を征服し、自分達の信仰を強制したと言う例はいっぱいあるのではないでしょうか。
# 実際いやな話ですね。
自分で書いたのを読みかえして見ても、信じる信じないと言う点はないようです。「事実」と書いてあるのが本当に事実なのか、提示した解釈は妥当なのかと言う議論はできると思いますが。
Re:アインシュタインでさえ (スコア:1)
ローマ帝国が多神教からキリスト教になったときから厄災になったんだ。
the.ACount
Re: (スコア:0)
名誉博士だよね。
名誉教授は、お金じゃ買えないぜ(笑
Re: (スコア:0)
> 「信仰心を持つことは、生存に有利だった」
同意はするけど、たぶんこれに掛かるであろう「人類にとって」という様に、一般化してしまうのはどうかな?
信仰は、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教・ドザ・マカー等を見ればわかるとおり、多くの場合は排他的です。信じる者は救われる。信じない者は地獄に落ちて死ねって感じ。
ある集団の中に、突然変異的に信仰が発生した場合、信仰の強烈なまでの排他性により、信仰を持つ者を有利にする傾向がある…程度に、生存に有利だったのではないでしょうか
Re:アインシュタインでさえ (スコア:1, 興味深い)
宗教というより、信仰心を生み出す力が脳の構造的なところにあるんじゃないでしょうか。そういう仮説なんかもよく聞くような気がしますし。
ただ、信仰心が生存競争に有利なんじゃなくて、信仰心を生み出せるような妄想力や強く一つの物事を考えられる力というのが、生存競争に有利なんじゃないでしょうか。
その力の使い方の方向によっては、技術革新や芸術も生めば、宗教や戦争なんかもしちゃうんだと思うんでしょうけれど。
宗教が不毛かどうかというよりは、宗教って人間の脳の特徴によって生まれる人間の行動パターンだよね?
くらいのスタンスがいいのではないかと。
あと、科学的に考えるとそういう仮説があるという前提でも、その考え方が正しいかどうかは今のところ保留だと思います。
脳の仕組みがより解明されれば、宗教も科学的に仕組みとして論じれると思うんですけれどね。
Re: (スコア:0)
またアインシュタインは、子供じみた迷信にすぎないと言ったとしても、意味がないとは思ってないような気がします。「人間の弱さ」と結びつけており、弱い人には宗教も必要と読めるわけで。
Re: (スコア:0)
> ちゃんと定義して使わないと科学的に使いにくいとは思いますが、
> そもそも一つの言葉に対して科学的かどうか議論するのはあまり意味がなくて、
> 「考え方」とか「態度」について言うものだと思います。
同感。
それを非科学的と表現しちゃうのは、
「科学的」をポジティブ評価、「非科学的」をネガティブ評価の表現だと考える、
オカルト似非科学の人達の感覚なんじゃないかと思います。
Re: (スコア:0)
信仰ががあったおかげでヨーロッパの中世で思いっきり
人類的な進歩の停滞があった気がするんですがね?
人口・技術・哲学ありとあらゆる点で停滞してますよね、
この時代に、信仰につぎ込まれたリソースは明らかにクソです。
今までの歴史を考えれば、信仰が一律に生き残るために有利でも、
人間の欲望の一種と考えるのも無理があります。
え、なんで中世にこだわるかって?技術的には数百年の停滞です。
中世がなければ、今頃一家に一台メイドロボですよ!よってAC
Re:アインシュタインでさえ (スコア:1, すばらしい洞察)
Re: (スコア:0)
元コメントの論理に乗せてみると、少ない食料で生き残るために
強固な集団的結束が必要だったと見ることはできる。
Re: (スコア:0)
なんだか、話の途中から結論までにえらくむちゃな飛躍があるように思えるのだが。。。まあ、それは置いておこう。
「鰯の頭も信心から」という言葉があります。どんな下らない風習だって、信じればなにが
Re: (スコア:0)
>非科学的な言葉を使ってしまうと言うのが人間と宗教との関わりの根深いところですね。
周富徳のような偉大な中華料理人であってさえ、髭をする時には「安全カミソリ」とか「電気シェーバー」とか言う
非中華的な道具を使ってしまうと言うのが人間と髭との関わりの根深いところですね。
#元ACの人はこれくらいナンセンスなことを言ってる、って自覚した上で釣り糸垂れてるんだよね?
Re: (スコア:0)
これも「信仰心」が人間のエネルギーになることの実例のひとつなのでしょうね。