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東海道新幹線も岐阜県さえ通らなければもっと早いルートだったはずなのに。そして滋賀県の南部をかすめることもなく、栗東あたりの住民が新駅構想にとりつかれることもなかっただろうに…
その代わり鈴鹿山脈をブチ抜かなくてすんだので、工期に間に合ったわけですよ。
# 丹那盆地(新丹那TN)はすでに穴が開いていた(丹那TN)ので何とかできたとの由
東海道新幹線には、東京オリンピックというタイムリミットがありました。実際、1964年10月1日東海道新幹線開業、同10日東京オリンピック開会式でした。かなり、ぎりぎりだったのです。
もしかするとご存じない若い人がいるかもしれないので、念のため。
オリンピックというのは、その時々の国際情勢を反映すると同時に、それ自体が開催国の国家の威光と言うか「偉さ」を示す物になっています。その傾向自体は1936年ベルリンオリンピックがナチスによってドイツ民族の優秀性を国内と世界に示すためのプロパガンダにされたあたりから急激に強まって来ました。で、そういう文脈の中で本来1940年に開かれるはずだった東京オリンピックが中国大陸への侵略が各国から非難された事によって当時の大日本帝国政府が返上してしまう事態になって、この1964年東京オリンピックは当時の日本人の悲願のさらに悲願でした。
その中で、「もはや戦後ではない」と言う標語に代表されるように当時の日本は戦災の爪痕も軍国主義も克服した先進国に生まれ変わった。と言う日本人の意識もものすごく強く、それを誇示し・日本国内を高度成長に鼓舞するために日本に最先端のインフラを作ってオリンピックに間に合わせて全世界に見せつける政治的な必要性が当時の日本の政財界には強くありました。当時は冷戦の真っ只中で60年安保闘争に代表される国民に広がりつつあった反米・反資本主義の機運をどう潰すか。と言う政治的な要請があって、そのためには日本国内を経済的に豊かにさせると同時に未だ十分に豊でない地方や人々にも「がんばればもうすぐ東京みたいに豊かになれる」と言う夢というか共同幻想を抱かせる事が共産主義陣営や日本国内の反米運動とのイデオロギー闘争に勝利する最大の手段であるという計算もそこにはありました。
そういう政治的な要請と日本人の心意気を見せてやるという国民的な「空気」がミックスされてオリンピックにかこつけてのあれだけの大規模事業が行われたいたということです。今立候補してる21世紀の東京オリンピックとは目指した器が違いすぎるので…
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日々是ハック也 -- あるハードコアバイナリアン
東海道新幹線と岐阜県 (スコア:3, 興味深い)
東海道新幹線も岐阜県さえ通らなければもっと早いルートだったはずなのに。
そして滋賀県の南部をかすめることもなく、栗東あたりの住民が
新駅構想にとりつかれることもなかっただろうに…
屍体メモ [windy.cx]
Re: (スコア:3, 興味深い)
その代わり鈴鹿山脈をブチ抜かなくてすんだので、工期に間に合ったわけですよ。
# 丹那盆地(新丹那TN)はすでに穴が開いていた(丹那TN)ので何とかできたとの由
Re: (スコア:5, 参考になる)
東海道新幹線には、東京オリンピックというタイムリミットがありました。実際、1964年10月1日東海道新幹線開業、同10日東京オリンピック開会式でした。かなり、ぎりぎりだったのです。
もしかするとご存じない若い人がいるかもしれないので、念のため。
Re: (スコア:0)
生アベベを笹塚(甲州街道)で見た世代なんですが、未だになぜ東京オリンピックが新幹線やら首都高速のタイムリミットだったのか、理解していない人間です。
オリンピックなんてたかだか2~3週間の一過性のイベントであり、それと国家100年の計のインフラ整備がなぜリンクされたのか、どなたかご教示の程を。
「もはや戦後ではない」な時期(Re:東海道新幹線と岐阜県 (スコア:3, 興味深い)
オリンピックというのは、その時々の国際情勢を反映すると同時に、それ自体が開催国の国家の威光と言うか「偉さ」を示す物になっています。
その傾向自体は1936年ベルリンオリンピックがナチスによってドイツ民族の優秀性を国内と世界に示すためのプロパガンダにされたあたりから急激に強まって来ました。
で、そういう文脈の中で本来1940年に開かれるはずだった東京オリンピックが中国大陸への侵略が各国から非難された事によって当時の大日本帝国政府が返上してしまう事態になって、この1964年東京オリンピックは当時の日本人の悲願のさらに悲願でした。
その中で、「もはや戦後ではない」と言う標語に代表されるように当時の日本は戦災の爪痕も軍国主義も克服した先進国に生まれ変わった。と言う日本人の意識もものすごく強く、それを誇示し・日本国内を高度成長に鼓舞するために日本に最先端のインフラを作ってオリンピックに間に合わせて全世界に見せつける政治的な必要性が当時の日本の政財界には強くありました。
当時は冷戦の真っ只中で60年安保闘争に代表される国民に広がりつつあった反米・反資本主義の機運をどう潰すか。と言う政治的な要請があって、そのためには日本国内を経済的に豊かにさせると同時に未だ十分に豊でない地方や人々にも「がんばればもうすぐ東京みたいに豊かになれる」と言う夢というか共同幻想を抱かせる事が共産主義陣営や日本国内の反米運動とのイデオロギー闘争に勝利する最大の手段であるという計算もそこにはありました。
そういう政治的な要請と日本人の心意気を見せてやるという国民的な「空気」がミックスされてオリンピックにかこつけてのあれだけの大規模事業が行われたいたということです。今立候補してる21世紀の東京オリンピックとは目指した器が違いすぎるので…