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政治と宗教と野球の話は歓談に向かないというわかりやすい実例になってるね。
まあ、ダーウィン賞を受賞するほどの愚かな行動ではないけど。
宗教ってのはジャンルじゃなくてあり方だと思うよ。
無条件に信じることが出発点になってる知識体系は皆宗教。
そんな宗教ばかりじゃないってのに、宗教にあやまれ!
信仰を出発点にしない宗教があるの?
#ネタだとすると元ネタが分らないなー。
私の#1699483の定義では通常宗教に入らないものも宗教になるという指摘ならば分る。それは宗教論争的なことになりそうなものをすべて含めるために意図的に広い定義にしたのだからそういう指摘は織り込み済み。また定義の意味合いの説明が足りてないから「それは、その定義を信じろってこと?(=宗教?w)」とまぜっかえした形の#1699622の指摘もわからなくもない。
けど、宗教で漏れているものがあるとはおもわなかったなぁ。
念のため言うと、信じてる内容の良し悪しを私は評価してないよ。信仰から始まるってことを別の言い方で言っただけ。
> 信仰を出発点にしない宗教があるの?
どうも話に聞く「仏教」って宗教のある一部はですね、神だとか死後の世界とかそういうのをまるで 認めない [kazokuso.net]ところから出発するそうで・・・
本来、仏教では霊魂の存在をみとめず、生も死もありません。釈迦は弟子のマールンクヤに死後の世界について質問され「今すべきことをせずに、わかりもしないことを考えるのはやめなさい」と教えています。 死後の世界はあるか、ないか。有か無
哲学と宗教の境目の話ですね。儒教、道教なんかは仏教より歴史が短い分もっと分りやすいですが。
それらの教えの内容を弟子がちゃんと懐疑できてる内は「宗教(religion)」ではなかったのだと思うのですよ。(古代においては元々宗教と哲学の峻別は曖昧で意識されていないわけですし。)それが何か(教祖でも経典でも神でも世界観でも)を「まずは真実と信じる」に変質した時点で宗教化したのではないかと思うのです。
> それらの教えの内容を弟子がちゃんと懐疑できてる内は「宗教(religion)」ではなかったのだと思うのですよ。
大衆の何割かはあまり真面目に考えない部分があり、また弟子の何割かは上手に説明できない部分があるかと思います。・・・と考えたら以下のようなやり取りがあちこちで発生したかもしれないと妄想しました。
割に考える大衆:「どうして**は××なの?」説明下手な弟子:「とにかく教祖が言うから間違いないんだ!!疑うと地獄に落ちるぞ!!」考えてない大衆:「よしわかったおれ入信しちゃうぞ」
この妄想と今日の仏教
まぁ概ねそういうことだと思います。現代でもままあることではあります。権威主義的な態度というのはきわめて宗教的だと思います。官僚信仰とか試験信仰とかは単なる比喩でなく実際に信仰なのではないかと思っています。
(余談ですが、その信仰は未だ結構根強いように思われます。最近の官僚バッシングは「信仰」を裏切られたという気持ちからくる怒りに見えて仕方ありません。)
そう思うと実はナショナリズムなども一種の宗教じゃないかとか思うわけです。自国や自民族の様々な性質を無条件に信じることから始まりますからね。
>そう思うと実はナショナリズムなども一種の宗教じゃないかとか思うわけです。>自国や自民族の様々な性質を無条件に信じることから始まりますからね。
いやあ、そう思うと真に無宗教になるのは難しそうですね。例えば私なんかは「人々が世界を良くするのに努力する」のはきっと成功する、成功してほしいと思っているのですが(努力信仰とでも言いましょうか)、人々のありようによっては全く逆に努力なんかしないのが最適である可能性すらあるわけです。他のどなたかは自分のやる事に間違いなどは発生しないと固く信じて疑わない方もいらっしゃるような気がしますし(オレオレ信仰?)、ロイビトンとかヘルペスとかいうマークの付いた商品を購入する事でであたかも魂が清められるかのように振舞う人々もいるわけです(ブランド信仰)。
良く考えれば、「自分が生存している」という事は他の誰に何と言われようと「良い事であるはず」だと、ウツ等のご病気でない方ならそう思っているはず(オレオレ生命信仰とでも言いいますか)ですから、完全に信仰を捨てて生きるのは難しそうです。少なくともオレオレ生命信仰くらいは持ってないと自分の生命維持が難しそうですし、あまり「そうありたい姿」に近くはなさそうに見えます。
完全に信仰を捨てる事が難しいと言うことを受け入れるならば、何を信じるべきかということを考えたくなりました。オレオレ生命信仰は必要そうな条件であって十分ではなさそうなのですが、そこらへんはまた今度にしましょうか。
# やっぱり空飛ぶスパゲッティモンスター? ラーメン
オフトピもいいところですが、私にとっては楽しいやり取りが出来ました。ありがとうございます。
懐疑といえば、「私は考える、ゆえに私はある」の方法的懐疑で有名なデカルトは「暫定道徳」なんてことも書いています。
それはまぁ平たく言うと、方法的懐疑といっても自分の信念を全部いきなり疑うと日常生活に支障を生じるので、現状の信念を構成する知識は暫定的なものと理解した上でいったん受け入れて、その後、段階的に疑って徐々に置き換えて行きなさいよという実際的というか、エンジニアリング的というかな助言です。
私は「宗教」に関してもそんな感じでいいのではないかなと思っています。(「宗教」のみならず「常識」や「しつけ」と言われているものとかもある程度大人になってからそうやって置き換えていけばいいのかなと。)
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未知のハックに一心不乱に取り組んだ結果、私は自然の法則を変えてしまった -- あるハッカー
どう考えても (スコア:2, おもしろおかしい)
Re: (スコア:1)
政治と宗教と野球の話は歓談に向かないというわかりやすい実例になってるね。
まあ、ダーウィン賞を受賞するほどの愚かな行動ではないけど。
Re: (スコア:1)
Re: (スコア:1)
宗教ってのはジャンルじゃなくてあり方だと思うよ。
無条件に信じることが出発点になってる知識体系は皆宗教。
Re: (スコア:1)
そんな宗教ばかりじゃないってのに、宗教にあやまれ!
the.ACount
Re: (スコア:1)
信仰を出発点にしない宗教があるの?
#ネタだとすると元ネタが分らないなー。
私の#1699483の定義では通常宗教に入らないものも宗教になるという指摘ならば分る。
それは宗教論争的なことになりそうなものをすべて含めるために意図的に広い定義にしたのだからそういう指摘は織り込み済み。
また定義の意味合いの説明が足りてないから「それは、その定義を信じろってこと?(=宗教?w)」とまぜっかえした形の#1699622の指摘もわからなくもない。
けど、宗教で漏れているものがあるとはおもわなかったなぁ。
念のため言うと、信じてる内容の良し悪しを私は評価してないよ。信仰から始まるってことを別の言い方で言っただけ。
Re: (スコア:1)
> 信仰を出発点にしない宗教があるの?
どうも話に聞く「仏教」って宗教のある一部はですね、神だとか死後の世界とかそういうのをまるで 認めない [kazokuso.net]ところから出発するそうで・・・
本来、仏教では霊魂の存在をみとめず、生も死もありません。釈迦は弟子のマールンクヤに死後の世界について質問され「今すべきことをせずに、わかりもしないことを考えるのはやめなさい」と教えています。
死後の世界はあるか、ないか。有か無
Re: (スコア:1)
哲学と宗教の境目の話ですね。儒教、道教なんかは仏教より歴史が短い分もっと分りやすいですが。
それらの教えの内容を弟子がちゃんと懐疑できてる内は「宗教(religion)」ではなかったのだと思うのですよ。
(古代においては元々宗教と哲学の峻別は曖昧で意識されていないわけですし。)
それが何か(教祖でも経典でも神でも世界観でも)を「まずは真実と信じる」に変質した時点で宗教化したのではないかと思うのです。
Re: (スコア:1)
> それらの教えの内容を弟子がちゃんと懐疑できてる内は「宗教(religion)」ではなかったのだと思うのですよ。
大衆の何割かはあまり真面目に考えない部分があり、また弟子の何割かは上手に説明できない部分があるかと思います。・・・と考えたら以下のようなやり取りがあちこちで発生したかもしれないと妄想しました。
割に考える大衆:「どうして**は××なの?」
説明下手な弟子:「とにかく教祖が言うから間違いないんだ!!疑うと地獄に落ちるぞ!!」
考えてない大衆:「よしわかったおれ入信しちゃうぞ」
この妄想と今日の仏教
Re: (スコア:1)
まぁ概ねそういうことだと思います。現代でもままあることではあります。
権威主義的な態度というのはきわめて宗教的だと思います。
官僚信仰とか試験信仰とかは単なる比喩でなく実際に信仰なのではないかと思っています。
(余談ですが、その信仰は未だ結構根強いように思われます。
最近の官僚バッシングは「信仰」を裏切られたという気持ちからくる怒りに見えて仕方ありません。)
そう思うと実はナショナリズムなども一種の宗教じゃないかとか思うわけです。
自国や自民族の様々な性質を無条件に信じることから始まりますからね。
Re:どう考えても (スコア:1)
>そう思うと実はナショナリズムなども一種の宗教じゃないかとか思うわけです。
>自国や自民族の様々な性質を無条件に信じることから始まりますからね。
いやあ、そう思うと真に無宗教になるのは難しそうですね。
例えば私なんかは「人々が世界を良くするのに努力する」のはきっと成功する、成功してほしいと思っているのですが(努力信仰とでも言いましょうか)、人々のありようによっては全く逆に努力なんかしないのが最適である可能性すらあるわけです。他のどなたかは自分のやる事に間違いなどは発生しないと固く信じて疑わない方もいらっしゃるような気がしますし(オレオレ信仰?)、ロイビトンとかヘルペスとかいうマークの付いた商品を購入する事でであたかも魂が清められるかのように振舞う人々もいるわけです(ブランド信仰)。
良く考えれば、「自分が生存している」という事は他の誰に何と言われようと「良い事であるはず」だと、ウツ等のご病気でない方ならそう思っているはず(オレオレ生命信仰とでも言いいますか)ですから、完全に信仰を捨てて生きるのは難しそうです。少なくともオレオレ生命信仰くらいは持ってないと自分の生命維持が難しそうですし、あまり「そうありたい姿」に近くはなさそうに見えます。
完全に信仰を捨てる事が難しいと言うことを受け入れるならば、何を信じるべきかということを考えたくなりました。オレオレ生命信仰は必要そうな条件であって十分ではなさそうなのですが、そこらへんはまた今度にしましょうか。
# やっぱり空飛ぶスパゲッティモンスター? ラーメン
オフトピもいいところですが、私にとっては楽しいやり取りが出来ました。ありがとうございます。
Re:どう考えても (スコア:1)
懐疑といえば、「私は考える、ゆえに私はある」の方法的懐疑で有名なデカルトは「暫定道徳」なんてことも書いています。
それはまぁ平たく言うと、
方法的懐疑といっても自分の信念を全部いきなり疑うと日常生活に支障を生じるので、
現状の信念を構成する知識は暫定的なものと理解した上でいったん受け入れて、
その後、段階的に疑って徐々に置き換えて行きなさいよという
実際的というか、エンジニアリング的というかな助言です。
私は「宗教」に関してもそんな感じでいいのではないかなと思っています。
(「宗教」のみならず「常識」や「しつけ」と言われているものとかもある程度大人になってからそうやって置き換えていけばいいのかなと。)