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太古から、あの山の向こうに何があるのか?あの海の向こうに何があるのか?とか思ったり、実際に出かけるバカな真似をするのは男だからでしょ
女性の嗜好や思考は、フロンティアを切り開くようにできてないが、それは性差であり、あえていうなら差別をしたのは男ではなく神様だな
ここにぶら下げます。
たしかに有史以来、男性は外に出て、女性は家を守るような社会や文化が作られてきました。#日本でも、中国でも、欧州でも、米国でも、イスラム圏でも。その考え方が性差別とされ、女性が男性と同じ立場で社会に出てくるようになってから、まだ100年そこそこ。文化はそんなにドラスティックには変化できません。
だから>女性の嗜好や思考は、フロンティアを切り開くようにできてないが、は文化が作り上げたもので、人間が本質的に備えた性差ではないでしょう。
文化的性差の影響だと思いますが、政治や経営のように、大所高所に立ってものを見る
「そう信じたい」と補正して読むだけで十分じゃないでしょうか。例外もそこそこいっぱい居るからというのもありますけど。
もっとも社会的要因でありながら生物学的に後からそういう方向に進化してしまっている可能性もあるため、自然科学的に証明されても、結局どちらなのかはきっと分からずじまいでしょうけどね。
で、これは杞憂でもなんでもなくて、長谷川真理子という優れた学者がすでにルイセンコ主義一歩手前にいるわけです。やっぱ女に科学は無理(ぉ
http://cruel.org/bk1column.html#part10 [cruel.org]だが本書自体よりも、ぼくは訳者のあとがきに強い衝撃をおぼえた。訳者の長谷川真理子はこう主張する。
「科学的事実というものには、それなりの重みがあるし、それが我々の持っている価値観と異なっている場合には、そのギャップを埋める方策を考えなければならない。そして、そうするため納得のいく方策が出せないのならば、むしろ科学的事実を明らかにしないほうがよい、という意見もあながち否定できるモノではないと私は思う」
「科学的説明を提出するときには、処方箋をも考えなければならない、と私は思うのである」
自分の価値観にそぐわない事実は隠してもいい、と彼女は言っているわけだ。自分に処方箋が思いつかなければ、都合の悪い事実は隠蔽すべきだ、と。長谷川真理子は、遺伝と進化の話ではとっても優れた仕事をしているし、彼女の言いたいこともわかる。その問題意識もわかる。わかるけれど、ぼくはこれから、長谷川真理子の書いたものをもはや信用しないだろう。彼女が何かを隠し、事実をゆがめている可能性を排除できないだろう。それに、ぼくは彼女のこの発想そのものがまちがっていると思う。そもそも事実がきちんと提示されないで、どやって解決策だの処方箋だのを考えられるのだろう。それに処方箋の考案まで、ファクトファインディングを行う科学者が負担できるのか? ぼくはできないと思う。それができると思いこんで戸塚ヨットスクールを称揚した、偏狭な科学者の失笑モノの処方箋については、すでに数回前に述べた。さらになにがいい事実で、なにが悪い事実かをどうやって判断するのか? 価値は変わるんだし。
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太古からそうじゃないの? (スコア:1)
太古から、あの山の向こうに何があるのか?あの海の向こうに何があるのか?
とか思ったり、実際に出かけるバカな真似をするのは男だからでしょ
女性の嗜好や思考は、フロンティアを切り開くようにできてないが、
それは性差であり、あえていうなら差別をしたのは男ではなく神様だな
Re: (スコア:1)
ここにぶら下げます。
たしかに有史以来、男性は外に出て、女性は家を守るような社会や文化が作られてきました。
#日本でも、中国でも、欧州でも、米国でも、イスラム圏でも。
その考え方が性差別とされ、女性が男性と同じ立場で社会に出てくるようになってから、まだ100年そこそこ。
文化はそんなにドラスティックには変化できません。
だから
>女性の嗜好や思考は、フロンティアを切り開くようにできてないが、
は文化が作り上げたもので、人間が本質的に備えた性差ではないでしょう。
文化的性差の影響だと思いますが、政治や経営のように、大所高所に立ってものを見る
Re: (スコア:0)
> は文化が作り上げたもので、人間が本質的に備えた性差ではないでしょう。
文化的なもの「かもしれない」とは言えるでしょうが、そうだと断言するのはなぜですか?どうしてどちらか片方のみを理由にしたいですか?
Re: (スコア:0)
「そう信じたい」と補正して読むだけで十分じゃないでしょうか。
例外もそこそこいっぱい居るからというのもありますけど。
もっとも社会的要因でありながら生物学的に後からそういう方向に進化してしまっている可能性もあるため、自然科学的に証明されても、結局どちらなのかはきっと分からずじまいでしょうけどね。
Re: (スコア:0)
そういうわけにも行かないんですよ。
もし、「起業家への適性に生物学的な性差があることが強く示唆された」りすると、反生物学派の人は差別を容認するんでしょうか。
「生物学的に性差はないのだから差別はするべきではない」と考えているのなら差別容認派に転じなければ理屈があいません。
差別否定派のままでいれば、つまり反差別のイデオロギーが生物学的な事実に優先するのであれば、ルイセンコの二の舞です。
Re:太古からそうじゃないの? (スコア:1, 興味深い)
で、これは杞憂でもなんでもなくて、長谷川真理子という優れた学者がすでにルイセンコ主義一歩手前にいるわけです。やっぱ女に科学は無理(ぉ
http://cruel.org/bk1column.html#part10 [cruel.org]
だが本書自体よりも、ぼくは訳者のあとがきに強い衝撃をおぼえた。訳者の長谷川真理子はこう主張する。
「科学的事実というものには、それなりの重みがあるし、それが我々の持っている価値観と異なっている場合には、そのギャップを埋める方策を考えなければならない。そして、そうするため納得のいく方策が出せないのならば、むしろ科学的事実を明らかにしないほうがよい、という意見もあながち否定できるモノではないと私は思う」
「科学的説明を提出するときには、処方箋をも考えなければならない、と私は思うのである」
自分の価値観にそぐわない事実は隠してもいい、と彼女は言っているわけだ。自分に処方箋が思いつかなければ、都合の悪い事実は隠蔽すべきだ、と。長谷川真理子は、遺伝と進化の話ではとっても優れた仕事をしているし、彼女の言いたいこともわかる。その問題意識もわかる。わかるけれど、ぼくはこれから、長谷川真理子の書いたものをもはや信用しないだろう。彼女が何かを隠し、事実をゆがめている可能性を排除できないだろう。それに、ぼくは彼女のこの発想そのものがまちがっていると思う。そもそも事実がきちんと提示されないで、どやって解決策だの処方箋だのを考えられるのだろう。それに処方箋の考案まで、ファクトファインディングを行う科学者が負担できるのか? ぼくはできないと思う。それができると思いこんで戸塚ヨットスクールを称揚した、偏狭な科学者の失笑モノの処方箋については、すでに数回前に述べた。さらになにがいい事実で、なにが悪い事実かをどうやって判断するのか? 価値は変わるんだし。