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理系全般にも言えることだけど、
という思考形態そのものが左翼の思考形態と似ているのだと思う。
「既存の文化の保存」、「民族の誇り」、など、右翼が重視する価値観は、 そもそも理論化が難しい。理論で説明できない。
「社会の平等」「個人の権利」「平等」などを標榜する左翼は 個人をモデル化、社会をモデル化し、 ”理論的には”社会な平等はこうして実現される、or 個人の権利はこうして保障される、 などと議論するのが好きであるように見える。
自分の理想を実現するために、どういう手段をとるべきかというところでは右も左も理論的になりうると思う。
一方、なにを理想とするか、ということは価値観そのものなので、理論的に説明がつくようなものではないと思う。なぜ「文化を保存」するのがよいのか、「民族の誇り」が良いものなのかが説明できないのと同様、なぜ「社会の平等」「個人の権利」が良いものなのかは説明できない。(もし説明できるとすれば、それは遡及が十分でなかっただけで、こんどはその説明に対して「なぜ」と問う、ということを繰り返せば、いずれは説明できないところまでたどりついてしまいます)。
右も左も理論的になりうると思う。
おっしゃっているのは「理論的」ではなくて「論理的」ですね。
手元の広辞苑によれば、
「理論」個々の事実や認識を統一的に説明することのできる普遍性をもつ体系的知識。 「論理」思考の形式・法則。また、思考の法則的なつながり。
ナントカ理論と言った場合には「これこれをこういう風に考えるとうまくいくぞ」という 部分まで含めるのです。私が言いたいのは、左翼は理論化できることを理論化して(「平等」とか「人権」)、理系的な理論の構築をしたがるのに対して、右翼はもっと情緒的な部分から出発するということです。
別に理論的だから正しいと言っているのではなく、何を好むかの問題です。 「文化の保存」も「誇り」も個人的には重要な問題だと思います。
たくさん返事をいただいたのですが、別に左翼思想を擁護しているつもりも 攻撃しているつもりも元コメントではないです。単に観察・分析をしたつもりでした。 ソ連あるいは旧共産圏が壮大な社会実験をしてつぶれたということは意識して最後にわざと「実験する」と入れたのです。
最後に私の個人的な考えを記しておきますが、 共産主義が失敗していると思うのは形式的な議論の部分ではなく、 個人をモデル化する部分です。つまり、労働者(プロレタリアート)なる 理想的な人間を考えるのですが、これが現実的ではない。 まずそんなに人間は画一的ではないし、人間は怠惰であるという仮定が抜け落ちている。 それがまず問題です。
それから社会が理論的に取り扱える、 つまり、客観的に正しい政策が存在するとしたときに 必然的に発生する問題ですが、独裁者を生むということです。
「客観的に正しい政策」が存在するなら、 理論がわからない人間が1000人集まっても10万人集まっても 答えは導きだせないが、理論に精通している一人が いれば「客観的に正しい政策」が導きだせます。 よって政策のことを考えるのは理論に精通した一人で十分になります。 ほかの人間は情報提供するだけで十分ですし、この一人に反対するものは 「客観的な」悪になるのです。
もちろんこの一人が正しく機能すればいいのですが、 歴史的には集中した権力は必ず腐敗します。 腐敗した権力は暴走して自壊します。 民主主義が素晴らしいのは、 この権力の暴走をとめる機構がある点です。 私は自民党も民主党も共産党も信じていませんが、 民主主義のこの「権力の暴走をとめる」という一点のみは信用しています。
> 民主主義のこの「権力の暴走をとめる」という一点のみは信用しています。
まったく同意です。
社会的な実験は、実験である以上、あるひとつの理想と方法論を試してみるわけで、それを唱える主導者がいて、その主導者がゆくゆくは独裁的な立場になっていく可能性があります。(とくに、民主主義の枠内での実験ではなく、国そのものを作り替えての実験の場合)。
たとえばアメリカ合衆国も、自由・人権といった理想に対する社会実験だったわけで、その方法論として民主主義・三権分立などを掲げたわけです。もちろんワシントンなどの主導者がいたわけですが、熱狂的な支持(これが
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アレゲは一日にしてならず -- アレゲ見習い
思考形態そのもの (スコア:3, 興味深い)
理系全般にも言えることだけど、
という思考形態そのものが左翼の思考形態と似ているのだと思う。
「既存の文化の保存」、「民族の誇り」、など、右翼が重視する価値観は、 そもそも理論化が難しい。理論で説明できない。
「社会の平等」「個人の権利」「平等」などを標榜する左翼は 個人をモデル化、社会をモデル化し、 ”理論的には”社会な平等はこうして実現される、or 個人の権利はこうして保障される、 などと議論するのが好きであるように見える。
価値観と理論とは別 (スコア:0)
自分の理想を実現するために、どういう手段をとるべきかというところでは
右も左も理論的になりうると思う。
一方、なにを理想とするか、ということは価値観そのものなので、理論的に
説明がつくようなものではないと思う。なぜ「文化を保存」するのがよいのか、
「民族の誇り」が良いものなのかが説明できないのと同様、なぜ「社会の平等」
「個人の権利」が良いものなのかは説明できない。(もし説明できるとすれば、
それは遡及が十分でなかっただけで、こんどはその説明に対して「なぜ」と
問う、ということを繰り返せば、いずれは説明できないところまでたどりついて
しまいます)。
Re:価値観と理論とは別 (スコア:3, すばらしい洞察)
右も左も理論的になりうると思う。
おっしゃっているのは「理論的」ではなくて「論理的」ですね。
手元の広辞苑によれば、
「理論」個々の事実や認識を統一的に説明することのできる普遍性をもつ体系的知識。
「論理」思考の形式・法則。また、思考の法則的なつながり。
ナントカ理論と言った場合には「これこれをこういう風に考えるとうまくいくぞ」という 部分まで含めるのです。私が言いたいのは、左翼は理論化できることを理論化して(「平等」とか「人権」)、理系的な理論の構築をしたがるのに対して、右翼はもっと情緒的な部分から出発するということです。
別に理論的だから正しいと言っているのではなく、何を好むかの問題です。 「文化の保存」も「誇り」も個人的には重要な問題だと思います。
たくさん返事をいただいたのですが、別に左翼思想を擁護しているつもりも 攻撃しているつもりも元コメントではないです。単に観察・分析をしたつもりでした。 ソ連あるいは旧共産圏が壮大な社会実験をしてつぶれたということは意識して最後にわざと「実験する」と入れたのです。
最後に私の個人的な考えを記しておきますが、 共産主義が失敗していると思うのは形式的な議論の部分ではなく、 個人をモデル化する部分です。つまり、労働者(プロレタリアート)なる 理想的な人間を考えるのですが、これが現実的ではない。 まずそんなに人間は画一的ではないし、人間は怠惰であるという仮定が抜け落ちている。 それがまず問題です。
それから社会が理論的に取り扱える、 つまり、客観的に正しい政策が存在するとしたときに 必然的に発生する問題ですが、独裁者を生むということです。
「客観的に正しい政策」が存在するなら、 理論がわからない人間が1000人集まっても10万人集まっても 答えは導きだせないが、理論に精通している一人が いれば「客観的に正しい政策」が導きだせます。 よって政策のことを考えるのは理論に精通した一人で十分になります。 ほかの人間は情報提供するだけで十分ですし、この一人に反対するものは 「客観的な」悪になるのです。
もちろんこの一人が正しく機能すればいいのですが、 歴史的には集中した権力は必ず腐敗します。 腐敗した権力は暴走して自壊します。 民主主義が素晴らしいのは、 この権力の暴走をとめる機構がある点です。 私は自民党も民主党も共産党も信じていませんが、 民主主義のこの「権力の暴走をとめる」という一点のみは信用しています。
Re: (スコア:0)
> 民主主義のこの「権力の暴走をとめる」という一点のみは信用しています。
まったく同意です。
社会的な実験は、実験である以上、あるひとつの理想と方法論を試してみるわけで、
それを唱える主導者がいて、その主導者がゆくゆくは独裁的な立場になっていく可能性が
あります。(とくに、民主主義の枠内での実験ではなく、国そのものを作り替えての
実験の場合)。
たとえばアメリカ合衆国も、自由・人権といった理想に対する社会実験だったわけで、
その方法論として民主主義・三権分立などを掲げたわけです。もちろんワシントンなどの
主導者がいたわけですが、熱狂的な支持(これが