これもそうとも言えなくて、「何を観測しているのか?」に依存する。 例えば状態としてA~Dの4つがある場合、「A or B」と「C or D」を区別するような観測を行うと、状態は「A or B」または「C or D」のどちらかに収束する。が、この時「A」とか「D」とかには収束しない。例えば観測結果が「A or B」であったなら、観測後であっても「AとBの重ね合わせ」のままになっている。
>つまり、この「量子将棋」とは、エヴェレット解釈による量子力学を是とした実装なんだ。
そうでも無い。 測定結果を自分で選べてしまっているので、現在の量子力学とは整合しない。 量子論との整合をとるなら、例えば「飛車 or 香車」の重ね合わせの駒が存在した場合、「横に動けるかどうかを確定する!」というプレーヤーの宣言の際にランダムにどちらかに決まらないといけない。「飛車だった事にしよう」とか選べてる段階で現在の量子論のいかなる解釈とも整合しない。
宛部門名 (スコア:0)
わたしも、この「量子力学」の解釈はおかしいと、最初は思った。
量子力学における確率密度関数は、3次元的な位置や速度に関して不確定性を持つというのに、
この「量子将棋」の設計は、「水素原子核の中心にあるのは、電子か?陽子か?」レベルの設計に見えた。
それはともかく、駒を動かした時点で、観測者が観測しているのだから、どれかひとつに収束すべき、と思われる。
しかし、この違和感は、観測者(量子将棋で言えば「指し手」)に絶大な権力を与えている、コペンハーゲン解釈だからだ。
エヴェレット解釈で考えれば、観測者自身が確率の重ね合わせになるのだから、
ある駒を一マス前に進めて打ったとき
Re:宛部門名 (スコア:2, 興味深い)
>「水素原子核の中心にあるのは、電子か?陽子か?」レベルの設計に見えた。
そうとも言えない。
「駒」という粒子の内部状態として「歩」「飛車」等がある、という系ならば何の問題も無い。
>駒を動かした時点で、観測者が観測しているのだから、どれかひとつに収束すべき、と思われる。
これもそうとも言えなくて、「何を観測しているのか?」に依存する。
例えば状態としてA~Dの4つがある場合、「A or B」と「C or D」を区別するような観測を行うと、状態は「A or B」または「C or D」のどちらかに収束する。が、この時「A」とか「D」とかには収束しない。例えば観測結果が「A or B」であったなら、観測後であっても「AとBの重ね合わせ」のままになっている。
>つまり、この「量子将棋」とは、エヴェレット解釈による量子力学を是とした実装なんだ。
そうでも無い。
測定結果を自分で選べてしまっているので、現在の量子力学とは整合しない。
量子論との整合をとるなら、例えば「飛車 or 香車」の重ね合わせの駒が存在した場合、「横に動けるかどうかを確定する!」というプレーヤーの宣言の際にランダムにどちらかに決まらないといけない。「飛車だった事にしよう」とか選べてる段階で現在の量子論のいかなる解釈とも整合しない。