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チャットボットが知性を保たないというのは、知性とは何かを明らかにして初めて判断できる命題なわけですよね虫に知性はないのか?イルカに知性はあるのか?幼児に知性はあるのか?成人が知性を持っているというのは本当なのか?知性とは単に、人間に類似した振る舞いを実行できるかの程度を示す尺度なのではないか?仮に、人間に極めて似た振る舞いを持つ植物(虫でも良いが)が存在したとして、それは知性を持つと言えるのか?
『もしもそれが人間のように歩き、人間のようにしゃべるのなら、それは人間である』
人間の知性とは、スパゲッティモンスターによってコンパイル時に型付けされているものです。
人間のようにしゃべるからって、人間では無いことが多いでしょう?たとえば上司とか。
だって、人間だもの。
> チューリングは1950年の論文『計算する機械と知性』を「私は、『機械は思考できるか?』という問題の検討を提案する」という主張で始めている[12]。チューリングが強調しているように、このような問題への伝統的なアプローチは「機械」と「知性」の定義から入ることである。だがチューリングはあえてそうせず、代わりに問題を「緊密に関係しており、比較的厳密な言葉で表現されている」新しい問題に取り換えたのである[12]。すなわちチューリングの提案は、「機械は思考できるか?」という問題を「機械は我々が(考える存在として)できることをできるか?」[13]に換えることであった。チューリングの主張するこの新しい問題の利点は「人間の、物理的な能力(capacity)と知的な能力の間の、公平で厳しい境界線」を引く、ということであった。
あなたはまずはwikipediaを読んで、次にチューリングの論文を読むといいと思う
なぜ>「機械は思考できるか?」という問題を「機械は我々が(考える存在として)できることをできるか?」に置き換えることができるのか、そこに違和感がある人もいそうですね
チューリングやゲーデルによって、人間数学者の行為と自動定理証明機械との間に何かの違いがあるともないとも証明できないことが明らかになりました。たとえば、プロの将棋指しと将棋プログラムに何か本質的な違いがあるかないかは証明できないということです
しかしゲーデルは、真偽が決定できない定理であっても人間は直感によって真偽を決定することができしたがって自動定理証明機械と人間数学者には根本的質的な違いがあると述べています
根拠があるわけではないので、これは自動定理証明機械が人間数学者になれないというゲーデルの信念の表明のようなもので、裏を返せば究極の人工知能は不可能だという立場です。こういう見方をするならチューリングテストは意味を持たないでしょう
一方、チューリングは真逆で機械と人間との間に違いがない/あることが証明できない以上機械に我々ができることができるなら、それは人間知性と同等であるとみなしていいだろうと考えました。人工知能に対するゲーデルとチューリングの立場の違いは、どちらが正しいと決定できる性質ものではなく現在も論争になるところですね
現実の計算機には無限のメモリなんか存在しないのにどうしてチューリングマシンが計算機のモデルになるのかわからない。説明と称するものを聞くと要するに「そのほうが単純化できて数学者にとって都合いいから」としか言ってなかったりするし。
猫にあるのは間違いない。
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長期的な見通しやビジョンはあえて持たないようにしてる -- Linus Torvalds
知性とは何か (スコア:4, 興味深い)
チャットボットが知性を保たないというのは、知性とは何かを明らかにして初めて判断できる命題なわけですよね
虫に知性はないのか?
イルカに知性はあるのか?
幼児に知性はあるのか?
成人が知性を持っているというのは本当なのか?
知性とは単に、人間に類似した振る舞いを実行できるかの程度を示す尺度なのではないか?
仮に、人間に極めて似た振る舞いを持つ植物(虫でも良いが)が存在したとして、それは知性を持つと言えるのか?
『もしもそれが人間のように歩き、人間のようにしゃべるのなら、それは人間である』
Re:知性とは何か (スコア:4, おもしろおかしい)
人間の知性とは、スパゲッティモンスターによってコンパイル時に型付けされているものです。
人間のようにしゃべるからって、人間では無いことが多いでしょう?
たとえば上司とか。
Re:知性とは何か (スコア:5, おもしろおかしい)
Re: (スコア:0)
だって、人間だもの。
Re:知性とは何か (スコア:1)
> チューリングは1950年の論文『計算する機械と知性』を「私は、『機械は思考できるか?』という問題の検討を提案する」という主張で始めている[12]。チューリングが強調しているように、このような問題への伝統的なアプローチは「機械」と「知性」の定義から入ることである。だがチューリングはあえてそうせず、代わりに問題を「緊密に関係しており、比較的厳密な言葉で表現されている」新しい問題に取り換えたのである[12]。すなわちチューリングの提案は、「機械は思考できるか?」という問題を「機械は我々が(考える存在として)できることをできるか?」[13]に換えることであった。チューリングの主張するこの新しい問題の利点は「人間の、物理的な能力(capacity)と知的な能力の間の、公平で厳しい境界線」を引く、ということであった。
あなたはまずはwikipediaを読んで、次にチューリングの論文を読むといいと思う
Re:知性とは何か (スコア:1)
なぜ
>「機械は思考できるか?」という問題を「機械は我々が(考える存在として)できることをできるか?」
に置き換えることができるのか、そこに違和感がある人もいそうですね
チューリングやゲーデルによって、人間数学者の行為と自動定理証明機械との間に何かの違いがあるとも
ないとも証明できないことが明らかになりました。たとえば、プロの将棋指しと将棋プログラムに何か本質的な
違いがあるかないかは証明できないということです
しかしゲーデルは、真偽が決定できない定理であっても人間は直感によって真偽を決定することができ
したがって自動定理証明機械と人間数学者には根本的質的な違いがあると述べています
根拠があるわけではないので、これは自動定理証明機械が人間数学者になれないというゲーデルの信念の
表明のようなもので、裏を返せば究極の人工知能は不可能だという立場です。
こういう見方をするならチューリングテストは意味を持たないでしょう
一方、チューリングは真逆で機械と人間との間に違いがない/あることが証明できない以上
機械に我々ができることができるなら、それは人間知性と同等であるとみなしていいだろうと考えました。
人工知能に対するゲーデルとチューリングの立場の違いは、どちらが正しいと決定できる性質ものではなく
現在も論争になるところですね
Re: (スコア:0)
現実の計算機には無限のメモリなんか存在しないのにどうしてチューリングマシンが計算機のモデルになるのかわからない。説明と称するものを聞くと要するに「そのほうが単純化できて数学者にとって都合いいから」としか言ってなかったりするし。
Re: (スコア:0)
猫にあるのは間違いない。