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FUDかどうかと言えば、違うような気がします。
MSがWindowsを売らんがためにLinuxをこきおろせば、それはFUDかもしれません。その一方で「GPL汚染」を叫ぶ向きは、GPLの代わりに何を提供しようとしているのでしょう。何も無いのではないでしょうか。
GPLは利用者に自由を与えますが、その利用者が提供側にまわる時には、義務を課します。つまり、次の利用者にも自由を与えなければならない、ということですね。ここで「GPL汚染」を唱えるのは、提供者の一部でしかなく、彼ら自身が“GPLよりも優れてい
GPL はコードが自由であることが第一の目的だが、 BSD License では利用者が自由であることが第一の目的
という発言がすべてをうまくまとめていると思います。 GPL はどのような悪意の利用者の下にあってもコードが 生き抜く事を保証しますが、BSD License では逆
GPLの場合、なんのためにコードが自由でなければならないかを考えると、やっぱりそれは利用者のためだと思うんですよ。直接の利用者に限らず、その利用者が開発者になったとき、さらにその先の利用者の自由までをも確保したい、と。そしてこの連鎖が永久に続くわけですよね。
どこまで行っても、利用者の自由が第一。それがGPLなんじゃないですかね。
『FSFの考える』利用者の自由が第一、ってことでしょう。 何が利用者の自由かってとこはコンセンサスは取れてないと思いますよ。
個人的には、基本的にツールとしての コンピューターソフトウェアは人類の知の共有財産であるべき、 という考え方には賛同するんだけど、 何をもって共有すべきコンピュターソフトウェア とそれ以外のものとを区別するかというところが 難しいと思うのです。 (もちろん、区別の必要はない、何がなんでも全部共有だ、 という思想もアリであることは認めた上で)。
Stallmanが出発した頃は、コンピュータソフトウェアと 言えばツールだったわけで、 それを共有し皆で改良してゆくことは、 そのツールを使ってより良いものを生み出して行くことが 人類の利益になるというのは正しいと思うのです。 しかし、世の中には「作品としてのソフトウェア」 (ゲームソフトとか - 常にコンテンツとエンジンが分離できるとは 限らない)や、ハードウェアと一心同体なソフトウェア も存在するわけで、それらを全て公開し共有すべきとは 思えません。
でもどこかで切らなくちゃならないんで、便宜的に 別プロセスならOKとかリンクはNGとか基準を設けてるわけですが、 ちょっと苦しいなあという印象を受けます。
とりあえず、「エンジンを共有するのはOKだがコンテンツは 自由にいじって欲しく無い。しかしコンテンツそのものも 実行可能なオブジェクトコードとしてリンクされている」 という場合が有り得るので、GPLなコードの使用は 慎重にならざるを得ないですね。
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Stableって古いって意味だっけ? -- Debian初級
GPL汚染 (スコア:2, 参考になる)
明示的にソースコードを取り込んだ場合だけではなく、そのソースコードを参考に別のコードを書いた、というケースの場合もGPL的に厳密な解釈はともかくとして、仮に裁判になった場合には
少なからずFUDでは? (スコア:0)
それが出来ないっていうのは単なる利用者側の不備であって、仮にそれでGPL汚染と声を上げているならなんだかなと思いますが。
Re:少なからずFUDでは? (スコア:1)
FUDかどうかと言えば、違うような気がします。
MSがWindowsを売らんがためにLinuxをこきおろせば、それはFUDかもしれません。その一方で「GPL汚染」を叫ぶ向きは、GPLの代わりに何を提供しようとしているのでしょう。何も無いのではないでしょうか。
GPLは利用者に自由を与えますが、その利用者が提供側にまわる時には、義務を課します。つまり、次の利用者にも自由を与えなければならない、ということですね。ここで「GPL汚染」を唱えるのは、提供者の一部でしかなく、彼ら自身が“GPLよりも優れてい
Re:少なからずFUDでは? (スコア:3, すばらしい洞察)
この「義務を課す」点が GPL が自由を制約している点として
よく議論で出てきますが、
という発言がすべてをうまくまとめていると思います。
GPL はどのような悪意の利用者の下にあってもコードが
生き抜く事を保証しますが、BSD License では逆
Re:少なからずFUDでは? (スコア:1)
GPLの場合、なんのためにコードが自由でなければならないかを考えると、やっぱりそれは利用者のためだと思うんですよ。直接の利用者に限らず、その利用者が開発者になったとき、さらにその先の利用者の自由までをも確保したい、と。そしてこの連鎖が永久に続くわけですよね。
どこまで行っても、利用者の自由が第一。それがGPLなんじゃないですかね。
利用者の自由 (スコア:2, すばらしい洞察)
『FSFの考える』利用者の自由が第一、ってことでしょう。 何が利用者の自由かってとこはコンセンサスは取れてないと思いますよ。
個人的には、基本的にツールとしての コンピューターソフトウェアは人類の知の共有財産であるべき、 という考え方には賛同するんだけど、 何をもって共有すべきコンピュターソフトウェア とそれ以外のものとを区別するかというところが 難しいと思うのです。 (もちろん、区別の必要はない、何がなんでも全部共有だ、 という思想もアリであることは認めた上で)。
Stallmanが出発した頃は、コンピュータソフトウェアと 言えばツールだったわけで、 それを共有し皆で改良してゆくことは、 そのツールを使ってより良いものを生み出して行くことが 人類の利益になるというのは正しいと思うのです。 しかし、世の中には「作品としてのソフトウェア」 (ゲームソフトとか - 常にコンテンツとエンジンが分離できるとは 限らない)や、ハードウェアと一心同体なソフトウェア も存在するわけで、それらを全て公開し共有すべきとは 思えません。
でもどこかで切らなくちゃならないんで、便宜的に 別プロセスならOKとかリンクはNGとか基準を設けてるわけですが、 ちょっと苦しいなあという印象を受けます。
とりあえず、「エンジンを共有するのはOKだがコンテンツは 自由にいじって欲しく無い。しかしコンテンツそのものも 実行可能なオブジェクトコードとしてリンクされている」 という場合が有り得るので、GPLなコードの使用は 慎重にならざるを得ないですね。