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今年は新作はスタプリしか見てないけど、その話していい?
「映画 スター☆トゥインクルプリキュア 星のうたに想いをこめて」 [wikipedia.org] プリキュアは放映期間が一年の女児アニメです。2月ごろに新シリーズがはじまります。映画は春と秋にあり、秋のほうが本格的だと思われています。この映画は秋のほうです。この映画はユーマというかわいい小動物のような宇宙生物とプリキュアの面子のふれあいを描いたものです。ユーマは爆発した惑星のかけらから生まれ、他人から感情や記憶を吸収して育ち、宇宙に帰って惑星になるのです。この映画の主役はララという宇宙人プリキュアと、彼女の親友でこちらは地球人プリキュアのひか
イマジネーションはストーリーより楽しい。これが事実です。おそらく人間の認知の仕組みがそうなっている。みんなストーリーそっちのけでエヴァ談義や二次創作に没頭します。なによりストーリーはどんなにおもしろくても何回も見ると飽きる(もし何度見てもそのたびに新発見があるなら、それは「一見してもわからない」ことだから、イマジネーションの領域に入り込んでいます)。キャラクターの心情などは、まともな作品では画面に全部描いていることはありえないので、イマジネーションの領域です。顔で笑って心で泣くとかですね。米国の3DCG映画は「この点では」まともな作品ではないことが多い。「魔法少女まどか☆マギカ」は、○ビが何年も観てきても新しい(より確からしい)解釈がでてきます。これは○ビが鈍いからでもあるけど、もともとわかりにくく作ってあるのです。まず、劇場版はテレビシリーズの総集編ではなく、登場人物の心情は全員まったく違う。正反対といえるでしょう。そう考えないとつじつまがあわない。テレビシリーズと劇場版は同時に作った。そう考える十分な理由があります。AともBとも解釈できそうな素材を、テレビシリーズにはA、劇場版にはBと割り振った、そんな感じです。その切り替えが作中にあるのですが、あまりにも都合がいい。あらかじめ設定されていたとしかいいようがない。なぜそんなことをするのか。それは「男子は女子の心を死ぬほど考えてみなければならない」からです。脚本の虚淵玄氏はまどマギについて発言していますが、それは彼のまどマギについてであって、テレビシリーズや劇場版とは関係がない。「女子の心を考える」ことは男子にとっては苦行だけど、理解したと思えたときのエクスタシーも大きい。プリキュアやまどマギはちゃんとそれを用意してくれます。結局のところ、男子にとって女子はイマジネーションの領域にしかいないのです。自分の彼女の考えていることは永遠にわからない。アニメは男子の夢であり、女子には女子のアニメはあるのかもしれないが、それは男子のあずかり知らぬところにあるのです。プリキュアはのこの領域を越えてきました。男子が女子のことを考える。でも、だれもララちゃんが女の子だとは言ってない。そんな証拠はどこにもない。でも、でも!
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Stableって古いって意味だっけ? -- Debian初級
新作の話だよね (スコア:1)
今年は新作はスタプリしか見てないけど、その話していい?
Re: (スコア:2)
Re: (スコア:1)
「映画 スター☆トゥインクルプリキュア 星のうたに想いをこめて」 [wikipedia.org]
プリキュアは放映期間が一年の女児アニメです。2月ごろに新シリーズがはじまります。映画は春と秋にあり、秋のほうが本格的だと思われています。この映画は秋のほうです。
この映画はユーマというかわいい小動物のような宇宙生物とプリキュアの面子のふれあいを描いたものです。ユーマは爆発した惑星のかけらから生まれ、他人から感情や記憶を吸収して育ち、宇宙に帰って惑星になるのです。
この映画の主役はララという宇宙人プリキュアと、彼女の親友でこちらは地球人プリキュアのひか
Re:新作の話だよね (スコア:1)
イマジネーションはストーリーより楽しい。これが事実です。おそらく人間の認知の仕組みがそうなっている。みんなストーリーそっちのけでエヴァ談義や二次創作に没頭します。なによりストーリーはどんなにおもしろくても何回も見ると飽きる(もし何度見てもそのたびに新発見があるなら、それは「一見してもわからない」ことだから、イマジネーションの領域に入り込んでいます)。キャラクターの心情などは、まともな作品では画面に全部描いていることはありえないので、イマジネーションの領域です。顔で笑って心で泣くとかですね。米国の3DCG映画は「この点では」まともな作品ではないことが多い。
「魔法少女まどか☆マギカ」は、○ビが何年も観てきても新しい(より確からしい)解釈がでてきます。これは○ビが鈍いからでもあるけど、もともとわかりにくく作ってあるのです。まず、劇場版はテレビシリーズの総集編ではなく、登場人物の心情は全員まったく違う。正反対といえるでしょう。そう考えないとつじつまがあわない。テレビシリーズと劇場版は同時に作った。そう考える十分な理由があります。AともBとも解釈できそうな素材を、テレビシリーズにはA、劇場版にはBと割り振った、そんな感じです。その切り替えが作中にあるのですが、あまりにも都合がいい。あらかじめ設定されていたとしかいいようがない。
なぜそんなことをするのか。それは「男子は女子の心を死ぬほど考えてみなければならない」からです。脚本の虚淵玄氏はまどマギについて発言していますが、それは彼のまどマギについてであって、テレビシリーズや劇場版とは関係がない。「女子の心を考える」ことは男子にとっては苦行だけど、理解したと思えたときのエクスタシーも大きい。プリキュアやまどマギはちゃんとそれを用意してくれます。
結局のところ、男子にとって女子はイマジネーションの領域にしかいないのです。自分の彼女の考えていることは永遠にわからない。アニメは男子の夢であり、女子には女子のアニメはあるのかもしれないが、それは男子のあずかり知らぬところにあるのです。
プリキュアはのこの領域を越えてきました。男子が女子のことを考える。でも、だれもララちゃんが女の子だとは言ってない。そんな証拠はどこにもない。でも、でも!
Re:新作の話だよね (スコア:2)
突っ込んで書くと割とネタバレになるのが痛し痒し。
自分自身は軽さが信条ではあるが、この濃さも憧れるね。