GPL: 信頼の技術 12
法務 部門より
日本のlicence guyとして知られるmhattaがOpen Source Initiativeの理事の一人であるChip Salzenbergが本家に寄せたGPLに関する考察を訳してくれた。mhatta曰く、"これなんだけど、なかなか面白かったので適当に訳してみた。まあ、私の意見もだいたい同じです。" (以下訳文)
Microsoft の GNU General Public License (GPL) に対する攻撃を見て、私はGPL の技術的長所を Richard Wright の書「Nonzero」から得た洞察によって分析することにした。私は実際的な利点からオープンソースのファンになった人間なので、達した結論は私自身非常に驚くべきものだった。(もっと読む...)
社会は交換の上に築かれている。遺伝学的に見て、私たちの中で大きな位置を占めているある特定の交換の形式は、将来利得の期待による投機的な寛大さ、すなわち相互の利他主義である。
オープンソースは相互の利他主義の教科書的な例だ。しかし、このことがオープンソースのコミュニティを「寄生」(この用語はゲーム理論から来たものだ。誰かを中傷する意図はない)に対してとても脆弱なものとしている。小さな集団では、信頼は相互対話の繰り返しから醸成され、個人的な経験によるだけでも十分寄生者を認識し、避けることができる。しかし大規模な集団だと、二者間の相互関係はしばしば間接的か、あるいはあまり頻繁なものではない。お互 いを知らない、そしておそらくは一生会うことさえないだろう人々の間に信頼を生み出すには、経験以上の何かが必要なのだ。
ゆえに、大規模な集団では信頼の技術が発達しなければならない。そうしなければ、はびこる寄生の犠牲者となってしまうだろう。寄生は非効率性を招き、非効率性は必然的に停滞を生み、停滞は競争の失敗を招来し -- それは、死を意味する。
GPL は信頼の技術である。GPL が適用されたプロジェクトへの貢献者たちは、(それ自身信頼の技術である)法に立脚した GPL が寄生を防ぐことを確信している。彼らは、自分たちがプロジェクトに貢献すれば、彼ら自身の成果を基にした価値ある財の入手や利用が将来に渡って可能であることを確信している。 すなわち、GPL の適用されたプロジェクトにはフォーク(分裂)はありうるが、独占的なフォークはあり得ないのだ。それが大きな違いとなる。
この分析は単純だし、あるいは自明にさえ見えるかもしれない。しかしその意味するところははるかに深い。
1. GPL は必然的にオープンソースを支配するだろう(もしまだしていなければ、 の話だが)。分析と観察の両面から、GPL、あるいはそれに似たものが、オープンソースのあるべき姿であることが指し示されている。GPL は現在存在するライセンスのどれよりも 寄生を阻止し、それによって効率性を高める。このことが、それほど信頼の技術が進歩していないライバルとの競争に勝とうとする文化を助けてくれる。宿主となる文化を成功させることにより、GPL、あるい はその上に築かれる将来のライセンスは最終的には勝利するだろう。
2. 私たちは、コミュニティのために GPL を維持しなければならない。 Microsoft が GPL を攻撃するとき、「フリーソフトウェア」に共鳴しない一部の人々が真っ先に返そうとする答えが「オープンソースは GPL 以上のものだ」というものだが、これは間違いだ。GPL 特有の強みは、オープンソースのコミュニティが、フリーソフトウェアはもちろんオープンソースが勢いを失って忘れ去られるのを喜ぶ他の文化と競争する上で重要だ。
3. GPL はビジネスに向いている。GPL を採用する企業は間抜けでもなければ愚かでもない。彼らは、他の企業が不正に有利になることが無いよう確信を持ちたいだけなのだ。GPL は彼らに、即座に安心を与えると同時にオープンな協力体制をも可能とする。一般的に言って、GPL はビジネスの友である。という のも、GPL によって新たなより良い効率性が可能となるからで、経済は新しくより良い効率性の上に繁栄するものだからだ。
(一方、GPL が現在の彼らのビジネスに悪影響をもたらすということに関しては、 私たちは Microsoft と意見が一致する。これについては、Microsoft の十八番を彼らへの返答としたい。「革新は、あなたが準備できていないというだけでは待ってくれない」。印刷機は、たとえそれがプロの書写者たちにビジネスモデルの変更を強いたとしても、結局のところ役に立つものだった。すなわち、受け入れるか、死かということだ。)
まとめるとこういうことだ。私たちオープンソースコミュニティは、FSF と共に GPL を迫り来る者全てから守らなければならない。といってもこれは単なる戦術的なかけひきということだけではなく、GPL が貴重な信頼の技術だからだ。他の文化との競争に勝つには、使える技術を受け入れなければならない。そして、GPL は使える。
-- Chip Salzenberg 、Open Source Initiative のボードメンバ 。"
Re:信頼 (スコア:4, すばらしい洞察)
寄生者がいるとして論を展開してます。
そしてBSDライセンスなりは、寄生者と争う度にGPLを選択していくだろう、と。
それを勝利って言ってるだけね。
故に反論は:
・寄生は問題になるほどは発生しない。
・寄生されても、それを許す。
のどちらかでしょう。
ちなみに僕は後者。
GPLとしては前者には発生すると言うし、後者にはお前の許せない寄生が起きうるというでしょうね。
別に自分が他人を信頼していないとかいう話じゃないんです。
ただ、全て想定してみたが信じても大丈夫だと言う、理性を信じてないんですね。
ここまで考察できる人は、むしろ人間を信じてる方だと思いますよ。
#それにこう言っちゃ何だけど、アンチGPLな人は多分、GPL派の人を人間として信頼してないでしょう?
ひどい寄生をされたら自分の心情がどうなるかは分かんないです。
もし許せなかった場合、自分はソース公開をしなくなるかもしれません。
でもGPLがあれば、それを使うことでコミュニティへの信頼を維持できると思います。
この辺が、信頼の「技術」って言う所以でしょうね。
法と対比させてるのが象徴的ですが、ヨーロッパ流の透徹した人間観だな。
-- wanna be the biggest dreamer
信頼の技術か (スコア:2)
日本だと、基本的に知らない人を信頼するって文化は無いですよね。
信頼すなわち身内になっちゃう。
フリーソフトウェアが理解されないのはこの辺も理由のひとつ?
-- wanna be the biggest dreamer
信頼 (スコア:2, すばらしい洞察)
GPL なものをビジネスにしようとすると、事実上ソフトウェアそのものではお金を取れないから、どこかソフトウェア以外のところで付加価値を付けないといけない。で、その付加価値を付けた人が、必ずしもそのソフトウェアを開発した人とは限らないし、その利益が開発者にちゃんと還元されるかどうかは、結局信頼っていうあやふやなものに頼るしかない。よってソースだけが独占されないことを保証しても、十分とはいえないわけで。
一方で、その他のオープンソースライセンス、たとえば MIT ライセンスとか BSD ライセンスなんかは、もっと低いレベルで他人を信頼してる。つまり、誰もそのソースを利用して酷い搾取をしない、ってレベルですね。それでも、ちゃんと開発者に還元される場合はちゃんと還元される。もちろん、GPL に比べれば、ずっと他人を信用しすぎなんですが、でも、結局はどの程度他人を信用するか、っていう問題に過ぎないんじゃないかな。どこが最適か、というのは、その時の状況によっても違うし、どれが正しいか、なんて、誰にもわからない。
GPL は他のライセンスと非常に混じりにくいのが問題で、 少なくとも、すべてのソフトウェアがオープンソースになることがまずあり得ない現状では、やっぱり利用をあきらめないといけないケースも多々ありますね。逆に言えば、GPL を有効活用するためには、極端な話、GPL に反するものを滅ぼさないといけない。件の文章も、勝った負けたっていう観点で書かれてますけど、その辺の過激さがいつも GPL の周辺には漂っているので、私は今ひとつ GPL を好きになれない。
まあ私は、自分が趣味で作ったプログラムは、他人がどう使おうと勝手だと思うから、もっとゆるいライセンスを付けることを好むし、従って、いままで GPL を付けたことは一度もない。そういうビジネスと関係ない趣味プログラマのおおらかさもオープンソースだと思うし、そういうのを否定されてるようで、この文書はちょっとアレだね、という気がします。
GPLはモノ作りの方法論 (スコア:2, 興味深い)
と思う今日この頃。
「GPL を使って如何にビジネスモデルを構築するか」
が問われているだけで、これを
「知的所有権を使って如何にビジネスモデルを構築するか」
を言い換えれば、MSの話になるんだと思う。
ま、後者の方が、すでに法律的に認められているので、簡単というだけですね。
で、DeCSS裁判の行方が気になるわけです。
オープンソースにはGPLこそ重要 (スコア:1)
Re:信頼 (スコア:1)
>GPL から BSD ライセンスに転じる例がちらほらと見られます。
ほとんど起こってないのは同意。だけど別に過去の分析してるわけではないので。
BSDからGPLになったってのは知らないですが、他のオープンライセンスからGPLに転じる例はありますよね。
>たとえ、将来 GPL が本当に制覇したとしても、それは単なる結果論だと思います。
結果論の使い方違ってません?
この文、意味わかんないです。
>> 別に自分が他人を信頼していないとかいう話じゃないんです。
>> ただ、全て想定してみたが信じても大丈夫だと言う、理性を信じてないんですね。
> このあたり、どこから導かれてくるのかいまひとつ理解できないのですが、
> 誰が誰の理性を信じていないという話なのでしょうか?
誰が誰の、と言うなら窮極的には、「GPLを主張する人が自分の」、です。
導かれるのは、この文章でいうなら、社会契約論的な意味合いで法を引き合いに出すところ。
ただ、元の反論がこの文章そのものでなくてGPL一般の極端さを拒否してるのに対応して、反発されがちなGPLの主張を念頭においてます。
感情的に反発してなぜあんな過激なこと言うのか理解しようとしない人多いですから、一度理性的に考えてみましょうと。
>で、それを防ぐために一定の効果がある、という意味で GPL が
>practical だというのなら、それはそうかもしれないしそうでないかもしれないね、
>と思うし、本来それ以上でもそれ以下でもない話だと思いますが。
>それを、ちょっと大げさに言い過ぎてると思う。
そうでないかもしれない、の理由は?
直感にすぎないなら尊重はしますが議論になんないですよね。
で、大げさに言うのがイヤなだけで、本論自体には異議はないととっていいでしょうか?
>もし、誰かに自分のソフトを搾取されて、それでモチベーションが萎えてしまって、
> ソースを非公開にしたとしても、それは別にその人の信頼がなくなるわけではないと
>思います。
えーとこの文章の信頼ってのは、コミュニティからその人への信頼?
でなくて、コミュニティ*を*信頼できないから非公開にするって僕は言ってます。
>それをやめる自由すらも認めているという前提の下に、
>我々はフリーなソフトを公開できるんだと思います。
何か段々自分の作った亡霊を相手にしてる風な…。
やめる自由を認めないなんて言ってません。
信頼できないから、という不本意な非公開を防ぐことができる、って言ってるだけです。
それがそもそも不要だというならそれも結構だけど、社会の信頼を守りたいと頑張ってる人のことをあーだこーだ言う必要も無いかと。
まさか不要でなく害悪だとまでは言わないですよね?
>私には、ヨーロッパ流合理主義しか見て取れません。
えーと、ヨーロッパ流合理主義って何?
単なる屁理屈って意味にしかこの文章からはとれないんだけど。。。
合理主義ってのは簡単に言うと、仮定から弁証法的に導かれるものをその仮定の内で正しいとする考え方ですよね?
個人的には合理主義って嫌いですけど、不特定多数の人を考える場合にはこれしか手段は無いと思います。
-- wanna be the biggest dreamer
「GPL はビジネスに向いている」かなぁ? (スコア:1)
確かに、「他の企業が不正に有利」になりにくくはなるかもしれませんが、同時に自社が利益を独占しにくくなるわけで、開発に大きな投資をした製品をGPLで公開するって選択肢はとりにくいですよね。
当然、「オープンな協力体制」がうまく機能するなら、製品開発に大きな投資をする必要はないのかもしれませんが、そんな保証はどこにもないですから。
GPLの製品で利益を得られるのは、普通、サポートとかそのへんですから、そこで利益が期待できないものをGPLで公開しても、ビジネスが成り立たないんじゃないですか?
Re:「GPL はビジネスに向いている」かなぁ? (スコア:1)
>確かに、「他の企業が不正に有利」になりにくくは >なるかもしれませんが、同時に自社が利益を独占し >にくくなるわけで、開発に大きな投資をした製品を >GPLで公開するって選択肢はとりにくいですよね。 ソフトそのものから利益を得る場合は難しいかもしれませんね。 でもGPLの利点はソフトウェア技術をみんなで共有する事によってより良いソフトを作っていけるところにあると思うのですが、それらのソフトを利用して質の良いサービスを生み出してそのサービスで利益を得る方向でいけばビジネスとしてやっていけるのではないでしょうか?
直接的な利益にはならないかもしれないですが、世間からの評判とか信頼とかそういうのが色々あると自然と利益に繋がる仕事の話とか周りからほっといても集まってくるでしょうし。
なんか的外れでしたら突っ込みよろしくです(^^;
すらど宴会SNS開放中 [e-meet.jp]
Re:「GPL はビジネスに向いている」かなぁ? (スコア:1)
LinusってTransmetaにいっぱい貢献してるかも。
そうだなあ、ちょっと良くはわかんないけど。 (スコア:1)
様々な企業が競いあって業界全体の多様性をもちつつ発展していこう
ってイメージを持って論じているんじゃないかな。
"企業は独占を目指すもの"という発想でソフトウェアを支配するのではなしに
もっと適材適所のソフトウェアをいろんな所で作っていこう、みたいに。
つまりGPLはGPL自体を独占と単一性への抵抗力として使っていくときには有効であって、
支配を目指す性質の会社とは反りが合わないのは当然でしょう。
Re:信頼 (スコア:0)
> そしてBSDライセンスなりは、寄生者と争う度にGPLを選択していくだろう、と。
> それを勝利って言ってるだけね。
うーん、BSD ライセンスや MIT ライセンスは GPL と同じか、それ以上長い歴史が
ありますが、いままでそういうことはほとんど起こってないと思います。むしろ、
GPL から BSD ライセンスに転じる例がちらほらと見られます。
たとえ、将来 GPL が本当に制覇したとしても、それは単なる結果論だと思います。
> 別に自分が他人を信頼していないとかいう話じゃないんです。
> ただ、全て想定してみたが信じても大丈夫だと言う、理性を信じてないんですね。
このあたり、どこから導かれてくるのかいまひとつ理解できないのですが、
誰が誰の理性を信じていないという話なのでしょうか?
> ひどい寄生をされたら自分の心情がどうなるかは分かんないです。
> もし許せなかった場合、自分はソース公開をしなくなるかもしれません。
まあ、そういう風になってしまったら、それはしょうがないことでしょうね。
で、それを防ぐために一定の効果がある、という意味で GPL が
practical だというのなら、それはそうかもしれないしそうでないかもしれないね、
と思うし、本来それ以上でもそれ以下でもない話だと思いますが。
それを、ちょっと大げさに言い過ぎてると思う。
> でもGPLがあれば、それを使うことでコミュニティへの信頼を維持できると思います。
> この辺が、信頼の「技術」って言う所以でしょうね。
うーん、それは、コミュニティ側の都合でしかないと思います。
もし、誰かに自分のソフトを搾取されて、それでモチベーションが萎えてしまって、
ソースを非公開にしたとしても、それは別にその人の信頼がなくなるわけではないと
思います。それをやめる自由すらも認めているという前提の下に、
我々はフリーなソフトを公開できるんだと思います。
> 法と対比させてるのが象徴的ですが、ヨーロッパ流の透徹した人間観だな。
うーん、それは、元の文章を拡大解釈し過ぎていると思います。
私には、ヨーロッパ流合理主義しか見て取れません。
Re:信頼 (スコア:0)
- 結局は信頼の程度問題だ
- しかしながら GPL には一定の意味があるのは認める
- GPL が制覇するとは言い切れない
ということが、私の主張ですね。
以下、枝葉の補足。いくつか見られた誤解以外は、単なる見解の相違でしかない気がします。それを論議にしようと思っても、平行線をたどるだけなので不毛ですね。私は、GPL を理解した上で賛同してない。ただそれだけ。これ以上は、読む人が自分の好みで判断すればそれでいいと思います。
> >たとえ、将来 GPL が本当に制覇したとしても、それは> 単なる結果論だと思います。
> 結果論の使い方違ってません?
> この文、意味わかんないです。
私の主張は、元の文章には GPL が制覇するという根拠が無いし、もし将来、本当に GPL が制覇したとしても、それはたまたまの結果でしかないと思ってます。したがって、そのときに単なる結果論で GPL が制覇したからやっぱり正しかったんだ、という主張はできても、現時点で GPL が制覇する、なんてことは主張できないね、ということです。
> そうでないかもしれない、の理由は?
> 直感にすぎないなら尊重はしますが議論になんないですよね。
「そうかもしれないし、そうでないかもしれない」で、ひとつの慣用句ですね。つまり、どっちが正しいかなんて誰にもわからん、っていう意味です。
> で、大げさに言うのがイヤなだけで、
> 本論自体には異議はないととっていいでしょうか?
まあ、「信頼関係の無いところに、いかにして信頼を築くか」という方法論としての GPL には、一定の意味がある、という程度で同意できますけどね。
> えーとこの文章の信頼ってのは、コミュニティからその人への信頼?
> でなくて、コミュニティ*を*信頼できないから非公開にするって僕は言ってます。
I see 。こう解釈してしまうと「人を信頼してる」っていう主張と矛盾するので、混乱しました。
> >私には、ヨーロッパ流合理主義しか見て取れません。
これはつまり、他人を信用しないで、契約のみを信じるやりかたってことですな。よく確立された方法論のひとつだし、私は GPL はやっぱりこの方法論に立脚していると思います。