本家インタビュー:リチャード・M・ストールマン
近々来日予定のリチャード・M・ストールマン(RMS)だが、かつて本家Slashdot.orgのインタビューに答えている。
質問の素材になっている事例にはちと古いものもあるが、その答えに表れるRMSの信念は今も変わらない。タレコミ子としては、彼のファンよりも、RMSってよく聞くけど、どういう人? という人に読んでほしい。
では早速、本家掲載の際にリード文に記された警告を収録してはじめたい。警告: 以下のインタビューには、成熟したコンセプトと強力なオピニオンが含まれている。ストールマン氏と見解がぶつかってカッカしやすい読者には読むのに適さないかもしれない。1) 次は何?
by banky――ちょっとここで、フリー・ソフトウェアがビジネスになってしまうような具合になったと仮定します。どの会社も、ともかく株式価値を維持しようと思い、ソースをオープンにし、ソフトウェアとフリーにするとしたら、次に来るのは何でしょうか? あなたは、そこからどこにへ向かうのですか? アンコールに応じて何をしますか? あるいは、その時点で「終戦」であって、GPLが私たちの自由を守ってくれて、あなたはコーディングに復帰するのですか?
RMS: フリーでないソフトウェアだけが、世界でただひとつの問題であるわけではない。ぼくがこの問題に取り組みつづけている理由は、(1) それがぼくに降りかかってきたということ(自分の分野から離れない限り中立ではいられなかったのだ) (2) 効率的にそれに立ち向かうにはどうすればよいのかをぼくは分かっていたこと (3) 他の誰もがそれに取り組みさえしていなかったということ、だ。
宗教の原理主義、人口過剰、環境破壊、企業による政府支配、科学、思想、社会、そういった他の問題の方が、フリーでないソフトウェアよりもっともっと重大なのは明らかだ。しかし、それらの問題には、すでに多くのひとびとが取り組んでいるのだ。それに、そういった問題に声を上げるのはどうすればいいか、ぼくにはいいアイディアも適性もないしね。とすると、ぼくは、フリー・ソフトウェアの問題に取り組んでいるのがベストのようだということになる。それに加えて、フリー・ソフトウェアは、ビジネスの社会支配の一面に対抗するのだしね。
ぼくが生きているうちに、フリーでないソフトウェアの問題が解決されるとしたら、ぼくはおそらく力を抜いて、またソフトウェアを書き始めるだろう。いや、代わりに、世界のもっと大きな問題への対処に力を貸すようになるかもしれない。悪の体制に立ち向かうことは、活気を与える。ぼくはそういうのが好きなんだ。自由人権協会とか、アムネスティ・インターナショナルとか、政教分離連盟とか、人口増加停止運動とかで、ボランティアに時間を割けたらなと思う。ぼくがお役に立てるならね。
(1988年のこと、ジョージ・ブッシュは、マイク・デュカキスを自由人権協会の典型的メンバーだと言った。権利章典と共産主義とを事実上比較し、また、その擁護者と共産主義者とを事実上比較してね。合衆国憲法へのこの侮辱が、ぼくを自由人権協会に入ろうと奮い立たせた。他の多くの人にも同様だった。Shrub(潅木)が大統領にならないことを祈ろうじゃないか。Bush(潅木)はひとつでも多すぎる。)
あるいは、ぼくは、ふさわしい自由を持って世に出た、他の種類の情報を勝ち取るよう取り組めたらと思う。これには、辞書や百科事典、教科書、科学論文、楽曲、その他のものが含まれる。
2) ソフトウェアをオープンにした良い事例は?
by bukvich――大企業が、その内部で作成したプロプライエタリなソース・コードをオープンにした良いケース・スタディはありますか?
RMS: この問いに、「オープン・ソース・ムーヴメント」という用語を使ってきたのは適当だ。よく関心をもたれるような質問の類だからだ。1998年に始まったその運動は、ソフトウェア開発者にもっと利潤をもたらすゆえに「オープン・ソース」はいいことなのだと論じている。彼らは、その主張を正当化するために事例を集めているし、きみのお役に立てるかもしれない。
この種の力を貸せと頼むのに、ぼくは最適な人物ではない。ぼくが焦点を当てているのは別の違うことだから。情報管理者に、それがもっと利潤を獲得できますよと説得するよりも、ぼくたちの自由が尊厳されるよう務めたい。――どっちが正しいことなのかは、ぼくはわからないが――ぼくは、コンピュータのユーザーには、彼らの自由を尊重するようなソフトウェアにこだわるよう説得に務めている。
ぼくは、「オープン・ソース・ムーヴメント」には関わっていない。ぼくは、「フリー・ソフトウェア・ムーヴメント」を立ち上げたのだ。これは、1984年から、自由と協働を広げるべく取り組んでいるものだ。実利的な恩恵ばかりではなく、社会的かつ倫理的な問題にも関心を持つ。隣人と協力するようにひとを勇気づけることになろうと、協力を抑制することになろうと。「フリー・ソフトウェア・ムーヴメント」は、自由やコミュニティやプリンシプルや倫理という問題をとりあげている。これは、「オープン・ソース・ムーヴメント」が入念に避けている問題だ。
「オープン・ソース・ムーヴメント」が、ある程度まで、正しいと明言しているものはなんだろうか。ぼくは、彼らが割愛していることに対して非常に遺憾だ。たとえば、パワフルな信頼性のあるソフトウェアを開発するとか、そういう実利的な恩恵だけに訴えることで、彼らは、それ以上大切な問題なんてないと、暗に言っているのだ。
「オープン・ソース・ムーヴメント」では、プロプライエタリなソフトウェアを次善の(最低でも、ふだんは次善の)策だと考えているようだ。「フリー・ソフトウェア・ムーヴメント」にとってすれば、プロプライエタリなソフトウェアが問題なのであって、フリー・ソフトウェアが解決法となるのだ。フリー・ソフトウェアは、ときとして、非常にパワフルで信頼できる。そのアピールには、こう付け加えてくれるとうれしい。「でも、ボクなら、機能がいっぱいで信頼できるがぼくの自由を尊重してくれないプロプライエタリなソフトウェアよりも、飾り気がなくて信頼もできかねるフリーなプログラムを選ぶだろうね。」
エリック・レイモンドは、もし「オープン・ソース」が、ソフトウェア開発者にとってより良い(彼の意図では、より利潤が上がるという意味だが)ものでないとしたら、それは失敗に値すると公言したことがある:
純粋な自己利益の場に立った生産者・消費者双方にとって、オープン・ソースが、正味の勝利を得るのかそうでないのか。もしそうであれば、あなたは負けられない。もしそうでなければ、あなたは勝てない(勝つ*べき*ではない)。(1998年9月か10月のSalonからの引用。)この立場では、暗に、エリックにはプロプライエタリなソフトウェアはまっとうだという信念があり、フリー・ソフトウェアが自由や倫理や社会的責任に不可欠だとという考え方は却下している。
誰かがこんなふうに言っているのを想像してみてほしい。「もし、読者にはもちろん出版社にも、無検閲の言論がベターではないとしたら、そんなものは普及はできない(また、普及するべきではない)。」これは、ひとがいかに言論の自由を、自由の問題として理解していないかを物語っている。市民としての自由に価値をおくひとなら、こういった見解はばかげていると思うだろう。(この例はまったくの創作ではなくて、メディア企業オーナーや企業広告主がある種の問題や見解を報道の対象から排除することがふえていることによる。)
ぼくは「オープン・ソース・ムーヴメント」には参画しないつもりだ。それが役立つこともしているとは同意するけれどね。きみのところの情報管理者に発言する際、何か役立つ示唆をくれる最善のものかもしれないね。
3) オープン・ソース最新の誇大広告…
by SuperDuG――オープン・ソースもまたコミュニティをいかに害するかという批判を、今日、誰もが耳にしていますが、それはおくとして、「十字軍」のまさにスタート地点で、あなたが抱いた大志では、オープン・ソースが「運動」になるなんて考えたりしましたか?
RMS: GNUプロジェクトが始まる何年も前に、フリー・ソフトウェアは運動になっていたと思っている。フリー・ソフトウェアは、既存のプログラマのコミュニティに分け入る生き方だと、ぼくは学んだ。ぼくの貢献は、ものごとをワン・ステップ推し進めたところで、ぼくたちの生き方と、多くのコンピュータ・ユーザーの生き方の相違を、倫理的かつ政治的な点で考察したというところにある。
けれど、「フリー・ソフトウェア・ムーヴメント」が「オープン・ソース・ムーヴメント」という不肖なこどもを産むだろうとは、ぼくは想像もしなかった。これは非常に有名になったので、その標語の下働きをぼくやっている「オープン・ソース」的な考え方について、ぼくが、ひとによく問いかけられるようになってしまったのだ。
ぼくたちの「フリー・ソフトウェア・ムーヴメント」がそうやって十把一絡げにされてしまうと、ぼくらが、自分たちのではなくて、彼らの見解を支持していると、ひとびとが思うようになってしまう。こうした理由から、「オープン・ソース」というお題目のもとで、ぼくの取り組みやアイディアを論じてほしくはないのだ。もし、ぼくが、そうやって十把一絡げに扱われているようなら、ぼくは、そんな間違いを訂正しなければならない。ぼくがやっている取り組みは、フリー・ソフトウェアなのだ。これについてぼくと議論したいなら、「フリー・ソフトウェア」という言葉の下で議論をしようじゃないか。
4) 2つの質問
by streetlawyer――仮定的な事例ですが、あなたがGPLを訴訟に持ち込んで負けたとすると、どうなるのでしょうか? 「プランB」があるのですか?
RMS: それは、判決の正確な詳細を見てみないとな。おそらく、GPLの文言をいくつか変更することにはなるだろう。おそらく、ただこんな風に言うだけだ。「ダメすぎ。コピーレフトは、特定の国や州では全面的には通用できない。」それは嘆かわしいが、必ずしも災難というわけではないだろう。
たとえば、中国には、GPLを完全に侵害して、ソース・コードをまったく頒布せずに、GNU/Linuxシステムのバージョンを国内で頒布している会社があるわけだ。実際的な問題として、ぼくたちは、中国での違反者にGPLを強制することはできない。なぜなら、中国は、著作権法を十分には施行していないからね。(その政策は、中国によっては申し分なくもっともなことだ。――アメリカも同様に、発展途上国とくれば外国のコピーライトは認めないし。)でも、だからといって、これでGPLが全般的に失敗だとは、ぼくは思わない。
――あなたは、ものごとにもっと懐柔的な態度で接しようと思ったことはないのですか? 「ちいさなことにくよくよするな」という文句で、(私は、"GNU/Linux"のことを思い起こすのですが)、あなたに共鳴するひとはいるのですか?
RMS: GNUオペレーティング・システムとLinuxカーネルというコンビネーションのことを、"GNU/Linux"ということばで呼ぶようにと、ぼくが、ひとびとに言いつづけているのは、それがささいだが重要なことだからだ。これは、GNUプロジェクトが、「フリー・ソフトウェア・ムーヴメント」の哲学を広める際の実効性に大きな違いをもたらすのだ。
そのシステム全体を"Linux"と呼んでしまうと、そのシステムが、1991年、リーナス・トーバルズによって開発が始められたものだという理解を導いてしまう。ほとんどのユーザーがそう思っているようだがね。GNUプロジェクトなんてものを知っている稀なユーザーでも、ぼくたちが果たしているのが副次的な役割だと思っている。――たとえば、ぼくにこう言うのだ。「もちろん、GNUは知っている。――GNUはLinuxの一部となったツールをいくつか開発したんだよね。」
これでは、ユーザーは、GNUプロジェクトの見解からではなくて、リーナスの「ノンポリな」見解から、哲学的に導かれることになってしまう。自由の広がりからではなくて、(リーナスが「世界征服者」と冗談で呼ばれるように)"Linux"人気を推し進めた目標を、ひとびとは採用してしまう。皮肉にも、GNUシステムのユーザーたちは、ぼくたちがそのシステムを開発して求めた自由は脇においてしまって、システムの成功の名のもとにそのシステムを愛しているのだ。GNUは「成功」したと言うだろうけれど、自由は成功していないのだ。
"Linux"を頒布するビジネスは、ゴールとして成功を目させているが、自由は犠牲にしている。http://www.zdnet.com/filters/printerfriendly/0,6061,2552025-2,00.html を見てくれ、これはカルデラのCEOが最近行ったスピーチだが、分かりやすい例だ。聴衆が、"Linux"システムと、不便で、理想主義で、頑固なGNUプロジェクトとを結び付けなければ、もっともっと容易にそして実効的できる。「オープン・ソース」ということばを用いて、自由の問題を気にせずにすませる力量は、彼らにとっても便利なのだろう。つまり、彼らは、ひとびとに、暗に、自由をあきらめるように言っているのだろう。彼らが勧めている行動の含みを明らかには認めずにね。
ビジネスがフリー・ソフトウェアにもっと関わりを持っていくようになると、ある選択に直面することになる。それは、レッド・ハットがよくやっているようにコミュニティに貢献するビジネスの道を選ぶのか、オラクルとかコーレルがよくやっているようにプロプライエタリなアド・オンをビジネスの基盤とするのか。そのビジネスに報いつつ、ビジネスがぼくたちの自由を尊重するものになるかは、公衆――コミュニティ――しだいだろう。ぼくたちのコミュニティの将来は、何をおいても、ぼくたちが価値をおくものによってくる。人気とか成功とかいう価値が採用されるとしたら、多くのひとびとが、GNUをベースにしているシステムやLinuxを、たくさんのプロプライエタリなソフトウェアといっしょに使うという結果に終ってしまうだろう。
ぼくは、そのシステムをGNU/Linuxと呼んでほしい。そして、それが、GNUプロジェクトの理想主義ゆえに存在を得ているということを、そのシステムのユーザーに分かってほしい。それを知っているユーザーなら、おそらく、ぼくたちの見解に耳を傾けてくれて、そのうちのいくつかに賛同してくれるだろう。そうしたら、彼らは、自由を求めて立ち向かうようになるかもしれない。
――何か心配していたことはありますか? そうでもないですか?
RMS: もちろん、たくさんのことを。――だけど、それについては論じないことにしよう。
5) 熱中
by kmcardle――余暇はどんなことをしてお過ごしですか? そういったことには、フリー・ソフトウェアとおなじぐらいの熱烈さで接しているのですか?
RMS: ぼくは、本を読んだり、音楽を聴いたり、おいしいものを食べたり、自然を眺めたりするのが好きだ。ダンスを踊るのも好きで、特に、バルカン・フォーク・ダンスなんかね。でも、くるぶしに問題があってもう踊れないのだけれど。大好きな誰かと愛情を分かち合うのも好きだ。でも、そんなチャンスがあるのは本当にときどきだけどね。
6) 他のフリー・ライセンス
by Gurlia――GPLは他の領域でもどの程度適用できるとお考えになりますか? (たとえば、GPLに埋め込まれたコンセプトなどは。)また、GPLと同じ種類の自由をもたらそうとするライセンスの持つ本質的な側面とは何でしょうか?
RMS: これについては、簡単にはこたえられない。コピーとか改変をすることの倫理的な問題は、どんな種類の仕事なのかとか、ひとがそれをどう使うのか、ということ次第だ。コンピュータのファイルに収まるような類の仕事にはすべて、ある種の基本的な類似点がある。つまり、誰かが邪魔をしない限り、いつでもそれをコピーできるのだ。また、相違点もある。小説や、楽曲、辞書、教科書、科学論文、エッセイ、そして、ソフトウェアは、どれも同じように使われるわけではないのだ。
だから、これらすべての異なった種類の仕事に同じ見解を持つことはできない。教科書と辞書は、ソフトウェアと同じ意味で、フリーであるべきだ。つまり、それらを改変したバージョンを出版する自由をひとは持つべきなのだ。科学論文については、だれにでも、それをミラーすることが許されるべきだ。とはいえ、その改良版が許可されるべき理由は、ぼくには見つけられない。(由緒あるレコードを改ざんするようなものだ。)小説など、ある種の仕事については、どの種類の自由が本質になってくるのか、ぼくは分からない。
しかしながら、コンピュータ上のファイルに収まって世に出た仕事ならどんなものでも、ある種の最低限の自由が本質としてある。つまり、ときどき他人にコピーしてあげる自由だ。その基本的な自由を否定しようというのは、押し付けがましく、反社会的だ。そんな禁止を執行することができるのは、ソビエト的な方法だけだ。
7) ハードウェア・メーカーからのサポート
by chromatic――私は、いま、ハードウェアの製造業者を説得して、ぐちゃぐちゃではないソース・コードと、ハードウェアのドキュメントを、フリーのドライバの作者へと提供させようと思っています。
あなたのご意見では、最善な、また、もっとも公開的な方法とは何でしょうか? 世論の審判ですか? 経済的な議論ですか? フリーなドライバの方が高品質であると指摘することですか? あるいは、ひとびとにもっと賢明なハードウェア・メーカーを選ぶようにと勧めるべきなんでしょうか?
RMS: いくつかのアプローチをあわせるのが最善だと思う。
自由を求めるひとは、フリーなドライバが公開されている他のハードウェアを買うべきだと教える。(これは、脅しなんかじゃない。罰としてやるわけじゃなくて、フリー・ソフトウェアで仕事をしたいがためだからね。) コミュニティは、リバース・エンジニアリングをしてフリーなドライバを書かせちゃうぞ、と言う。(で、頑固さは無益だ、と。) 彼らが協力するなら、コミュニティの善意を彼らに提供し、商業的な支援をする。 彼らの立場を尋ねる。で、彼らが部分的には自分たちの立場を守りつつもぼくたちがフリー・ソフトウェアを書けるように、彼らに協力してくれるよう、都合がよいように提案する。 ぼくのwww.gnu.orgには、ハードウェア製品のリストがあって、どれがフリーなGNU/Linuxシステムの全体的なサポートがなされているかが書いてある。(*BSDを網羅するのも同様に歓迎だ。)このページをつくり、更新していくのは、相当な仕事なものだ。もし、あなたがこのページを作るイニシアティブを取ってくれるなら、ぼくにメールをください。
8) GPLのアップデートを渇望しています。
by Bruce Perens――派生物にGPLが制限を加えるのは、ソフトウェア・テクノロジに遅れをとっていることだと、私は思っているのですが。
RMS: ぼくは、GPLバージョン3に取り組んではいるが、急いで作るべきものだとは思ってもいない。GNUフリー文書利用許諾契約書の仕事は、1年ほど棚上げしていたのだが、また取り掛かろうと計画している。
――もっとも有害な例はCORBAです。これは、まったく同じアドレス・スペースにあるわけではないコンポーネントから、まるでそれらがそこにあるかのようにシームレスに動いて、新たなものを作り出してしまうのです。私のライセンス制約を避けるためにいるというそれだけの理由づけでサーバ化して、私のGPLな仕事が誰かのプロプライエタリなプログラムに入ることになってしまうのを見るのなんて嫌です。
RMS: もし、フリーなCORBAコンポーネントを使う、フリーでないソフトウェアをひとが書いたとしたら、ある意味では、それはいけないことだ。つまり、それは、ぼくらの仕事を土台に、フリーでない仕事が築かれるということを意味する。でも、ぼくらのフリー・ソフトウェアがCORBAを通して使われても、ぼくらのプログラムがフリーでなくなるということはない。だから、ぼくらのプログラムがフリーでないコードで拡張されるほどには、それは悪いことではないのだ。
あるプログラムがぼくらのライセンスでカバーされているという主張をするのは難しいことだろうと思う。というのは、それが使っているのはCORBAで、ぼくらのコードとは交信するわけだから。もしかしたら、特に親密なカップルになるケースでは、そういう見解で判断されるだろう。でも、一般的には、できないと思うけどね。
――より一般的なのは、実行プログラムとは別に頒布されるダイナミック・ライブラリの問題です。あなたは、こう言いますね。裁判所は、そういったものは、明らかにライセンス制約を回避するために用いられる手段だとするだろう。でも、それはむしろ危険なことで、GPLにいう派生物とみなしても、何がそうであり、何がそうでないのか、という明示的な文言の代替にはならない。
RMS: 何をもって派生物とみなすのか、ぼくは何も言ったことはないよ。それは、著作権法の問題で、法廷で決めることだ。著作権法が、あるものについて、それがぼくたちの仕事の派生物ではないというなら、それへは、ぼくらのライセンスは適用されないことになる。ぼくらのライセンスにどう書いてあろうと、ぼくらのコードからの派生物にのみに、効力があるのだ。
ある種の仕事については、それが派生物ではないようにして、ライセンスは扱うことができるのだ。たとえ法廷が派生物だと考えるのだとしてもね。あるケースでは、裁判所がぼくらに与えてくれるだろう権利のうちのいくつかを実際には却下して、劣等GPLが機能する。でも、ぼくらは、ある種の仕事について、裁判所に、それが派生物であるかのように扱わせることはできない。裁判所がそう考えていないならね。
小さくはないダイナミック・リンクが一体化した(たとえば、派生した)仕事を創り出すというのは、大変いい議論だと思う。GPLをもっと平明にもっと明確にと変更するためのアイディアがぼくにはある。でも、弁護士がいいと思うように、その詳細がきちんと機能するかよう、ぼくらが取り組めるかどうかを見極める必要があるけれどね。
――ここには、また、アプリケーション・サービス・プロバイダの問題があるわけです。これは、ひとびとの仕事を頒布はせずに使わせることを可能にするというもので、彼らには改変したソース・コードを公開する義務がないのです。私のGPLな仕事が、そんなやり方でも濫用されているのか確かめないといけないでしょうか?
RMS: そういったサーバは、ぼくたちのコミュニティでフェアにプレーをしていないと、ぼくも感じる。でも、この問題は解決が非常に困難だ。著作権をベースにしたライセンスで、そういうサーバに要求するのは難しい。そういうサーバは、プログラムを頒布しているわけではなくて、たんに動かしているだけ、というところが困難な点だ。だから、彼らのすることに影響するような著作権の下では、どんな制約をつけることも難しい。
間接的だが、うまく機能するであろう方法を、ぼくは最近考え出した。弁護士にそれが本当に使えるものかをよく理解してくれるまではそれはお話できないのだけれど。
――GPLが遅れをとっているような新しいテクノロジがたくさんあるように思えますが。
RMS: まるで、そういった問題を解決することだけが、GPLを変更すべく懸命に取り組むに十分なことだと、お考えだね。だけど、GPLは、著作権法があるところでだけそれを利用することになる。新しいテクノロジに「追いつく」べく、デジタル・ミレニアム著作権法(DMCA)において、アメリカの著作権法が最近改正されたけれど、これは、ソフトウェア掠奪者が主導したものだね。これは、そういった奴らがユーザーの自由を奪えるようにと仕組まれているものだ。ぼくたちがユーザーの自由を守れるようにするのではなくてね。それによると、著作権の所持者は、プログラムをちょっと動かしたりするのも禁止できるように許可されている。――ただ、バイパスするのが難しいライセンス・マネジャーの類とかアクセス・コントロールがそういった制約を要求するかぎりではね。フリー・ソフトウェアの自由が意味するのは、もしもそういった不自然な制約をプログラムに入れたとしても、ユーザーはそれらを簡単にバイパスすることができるということだ。――これは良いことなんだ! でも、それでは、コピーレフトにとっては、あたらしい法律の力が使えないことを意味するね。
DMCAは、ビジネスが政府や社会を支配してしまうという害悪の申し分ない例だ。その法律の一部分が明示するに、商業的に意義のある活動だけが重要だとみなされる。(ユーザーをコントロールする技術的な手段をバイパスする際にときとして用いるプログラムを合法化するには。)――教育用途や、レクリエーション用途、共同体の用途、軍事用途、そして、宗教用途には、明白な差別を示してね。
9) ある種のテクノロジについてのご見解は?
by destiney――Napsterのようなアプリケーションには、どういう立場をとられますか?
RMS: Napsterはダメだね。プロプライエタリなソフトウェアだから。でも、それがする仕事自体はまったく非倫理的なところはないと思う。どうして、友だちに音楽のコピーを送っちゃいけないんだい? ぼくは、自分のコンピュータで音楽を再生しないのだけれど、ときどき、レコードからテープをつくったり、友だちにあげたりしているよ。
――特に、GTK NapterはスタンダードGPL準拠ですが、GTK NapsterのようなGPLなカウンターパートが存在するNapsterに対して、Metallicaのような誰かが裁判を起こし勝訴したら、どうなるのか知りたいです。
RMS: そういった訴訟で誰が勝つのかはぼくは分からないが、そういった類の抑圧から、フリーなプログラムに特別な保護が与えられることは何もないと思う。Napsterに対して彼らが勝ったとすると、似たような機能のどんなプログラムに対しても勝つことになるのだろうと、ぼくには思える。
もし、彼らが今日の法律を用いても勝たなかったとすれば、レコード会社が、将来的には、彼らがそういったプログラムを禁止できるような新しい法律を制定させるだろうと思う。――そして、Metallicaみたいな有名なミュージシャンを表に立たせる、と。(有名なミュージシャンだけが、著作権から相当な収入を得ることができるわけだから。)で、音楽のコピーは自分の子供を殺すようなものなのだ、なんて言うんだろうね。
それから、Napsterを使っているとそれで刑務所行き、なんてふうにおびやかされるんじゃないかとも思っている。「コピー戦争」は、もっと悲惨になっていくだろうね。
「麻薬戦争」は、20年ほども続いた。でも、和平の見通しはほとんどない。全面的に失敗に終って、アメリカの刑務所収容率はロシアのそれとほぼ同じになっているという事実にもかかわらずね。「コピー戦争」は、同じように数十年と続くんじゃないかと危惧している。それを終結させるには、著作権の保有者ではなく公衆への便益を意図した合衆国憲法の見解をベースにして、著作権の法体制を考え直す必要がある。今日、公衆が受ける便益のひとつは、コンピュータを使ってコピーを共有することなのだ。
Metallicaは、音楽という「商品」が不法に侵害されているのだという考えを述べて、自分の訴訟を正当化している。大企業がレコード屋を通じてコピーを売ったときにはそんなふうには考えないのに、ファンの間で共有されると、音楽は商品だなんて明らかに彼らは考えているわけだ。なんて偽善的な矛盾なんだ!
こんな戯言はふつうはお笑いぐさだよ。でも、Metallicaは、それをぼくたちの自由への攻撃の言い訳に使っているわけで、これは笑いごとじゃない。ぼくは、ひとを勇気づけて、この話題を載せている雑誌に手紙を書かせている。Metallicaの訴訟には嫌悪を表して、彼らの見解は却下するように、とね。
10) 暗号を用いたコンテンツ・コントロール・プロテクション
by ronfar――CSSつまりコンテクスト・コントロール・システムを巡る戦いとは、購入したあとでさえも、CSSにコントロールされる際に、ソフトウェアを(コンピュータ・チップに読み込まれるプログラムであるわけですから、DVDはソフトウェアだと思うのですが)使う権利があるのかないのか、というものですね。私としては、彼らには裁判で負けてほしいのですが、この点で、彼らが負けるのかどうか不明確なのです。で、私の質問なんですが、それに関連したものなのです。
以前からのソフトウェアDVD(たとえば、M$とか他の会社のソフトウェアとか、DVDフォーマットに加盟しているもの)に、非常に強力で破ることがほとんど不可能な暗号が使われているとします。で、DVD著作権管理協会がこんなふうに言う、と、「わたしたちがライセンスしているDVD暗号読解ソフトウェアを用いないかぎり、あなたは、DVDのコンテンツにアクセスすることはできません。おぉ、そして、わたしたちのDVD暗号読解ソフトウェアは、(統一コンピュータ情報取引法のもとで)合法的に執行されるソフトウェア・ライセンスを含んでおり、あなたは、この暗号読解ソフトウェアを用いて読解したどんなコンテンツもリバース・エンジニアリングすることはできないと明記してあります。」さて、フリー・ソフトウェアだったら、これにどう対処しますか?
RMS: そんな法律の場合だと、この問題を解決するには合法的な方法はないだろうね。DMCAはきみが考えているようなものだろう。さらには、そういった仕事をするフリー・ソフトウェアを禁止するに十分なものかもしれない。(はっきりとは知らないが、答えが分かっているというものでもないと思う。)そういった法律がない国々においては、そのソフトウェアを開発することが必要かもしれないね。
――「プロプライエタリなソフトウェア・システムと結びついている存在のハードウェアは、フリー・ハードウェア・スタンダードに取って代わられねばならない」という「フリー・ハードウェア」の哲学、あるいは同様のものがここに今では必要となってくるのではないでしょうか?
RMS: ぼくもそう思う――が、映画会社にそういったハードウェア向けに映画をリリースさせるのは難しいことだろう。基本的には、十分に多くの大衆が、自分たちの自由を否定するような基礎を持つ法律を変える自由を信条とすれば、それがただひとつの解決策になる。
11) あなたの倫理観念
by Skald――あなたのオピニオンは以前から読んでいますが、それらは、それら自体でも話として成り立っているし、また別の問題も呼んでいますね。私が一番面白いなと感じられるところは、あなたのメタ倫理的な観念です。
ときどき、善悪のような観念を、まるでそれらが客観的なものであるかのように、お話になりますね。そう思っているわけですか?
RMS: ぼくは、どうしたら他人にいかに影響できるかベースとして、善悪というものを考えている。――ぼくたちの行動がひとに影響を与える状況を想像してみればいい。
その含意については、ひとによって違う結論にたどり着くものだ。ぼくは相対主義は信じていない。つまり、どんな結論でも他の結論と同じように妥当だとは思っていない。もし、ぼくと他の誰かが意見が一致しなかったら、少なくとも、どちらか一方が間違っているということになる。不運にして、何が正しくて、何が間違っているかという確信を完璧にさせるような余地はない。ぼくたちができるのは、それを解明しようとベストをつくすことのみだ。
ぼくたちが自分たちの良心から引き出した普遍化が、ぼくたちの価値観というものだ。倫理についてのある結論は、そういった価値観から引き出される。倫理についての議論は、そこから生じるのだ。ぼくの議論は、フリー・ソフトウェアにしても、他の何にしても、ぼくが信じる価値観からスタートしている。その価値観の少なくとも一部分が共有できるようなひとへと話をしている。その価値観をひとがどうしてもはねつけてしまうなら、ぼくがそのひとに伝えられる言葉はない。でも、ぼくが、その価値観がベースとしている境遇を指摘すると、ときどきは、ぼくの価値観を共有しようとするところからスタートしてもらえるようになる。すると、ぼくが感じたとか想像したのと同じ感情を、彼らは想像してくれるだろう。
――「自然」の権利というものがあるわけですか? また、その存在の本質とは何ですか?
RMS: ぼくは、自然の権利というものがあると思っている。自然というのは、政府がそれについてどう言ったかに関わらずに、ひとが獲得しているという意味でね。言論の自由は、いい例だね。つまり、ひとは言論の自由を与えられていて、検閲は間違っていると、ぼくは思っている。これを読んでいるひとはだいたい、この点には賛成してくれると思う。ぼくは、その上に、ソフトウェアやその他の世に出た情報を共有する自由が、これまた自然の権利だと信じているのだ。
これらはまた、人工の権利でもある。権利とは自然ではないものだ。ぼくは、アメリカの法システムに同意している。たとえば、著作権は人工の権利であって、自然のそれではない、という見解でね。ある種の仕事に対して著作権の法体制を制限するのは、合理的でありうる。でも、それは公衆への便益のためになされた譲歩であって、著者や出版社への権利の賦与ではない。その体制が制限されるべきなのは、それが他の人の自然の権利とは深刻に衝突しないように、だ。
――そうであるなら、それはあなたの無神論と整合的ですか? そうでないなら、倫理的な主張は、個人的な好みを超えたところにベースがあるとお考えですか?
RMS: 宗教人がときどき言うに、宗教は善悪について絶対的な確信を与えてくれる、と。つまり「神はこう言った」とね。もし仮にだ、そんな神がいたとして、神が考えていることを信者が本当に分かっていたとしても、それでも確信なんて得られない。だって、そんなに力を持っているものでさえも間違いはするからね。神が存在していようがなかそうが、倫理について、絶対的な確信を得ることなどできないのだよ。
絶対的な確信がなかったら、ぼくたちはどうすればいいのか? ぼくたちができることにベストを尽くせばいい。今も、不正義なことは起きているのだし、危害を加えられているひともいるのだ。ぼくたちには選択肢がある。倫理を人生の決断に採り入れる前に絶対的な確信にこだわってしまうというのは、超道徳とは関係なく選ぶということだ。