パスワードを忘れた? アカウント作成
14052528 journal
日記

90の日記: 表のストーリ: hagex氏刺殺事件 3

日記 by 90

TL;DR: "ソシオパスじゃないと生きていけない世の中に一般人を叩き込んだら気が狂うのはある意味当然ですな"

 正直なところ、Twitterに潜っていると、この犯人の信念と同種に感じる意見を時々見る──ある種の意見は自分にとって大変苦痛だとか、到底信じられないとか、あるいは公の場では許されないとか、人格を疑うとか、そしてその主張は、そうした意見は排除されなければならないのだ、と結ばれるのだ。いずれも極めて正直な本心なんであろう、みな熱心に、持てる手段を駆使して達成を試みるのだ。通報とか。

 おそらく現代の特にSNSにおいては、われわれは、何を受容し何に対して影響力を与え何を提供するのか、という判断を下し権限を行使しつづけることを常に迫られているのだろう。この絶え間ない判断の連鎖は無責任な共感を否定し、あらゆる所作に一貫性と整然たる説明を常に付すことを強いている、のではなかろうか。スラドID民にとってはそれなりの過去から当然だったこの環境は、この刺殺事件の犯人だとか、SNSブームで初めて発言権を得た一般人だとかを迎え入れることで、彼らを新しい偏差値のスペクトラムへ塗り広げてしまったのではないだろうか?

どれだけ惨いことが目の前で繰り広げられていても、ただ自分が影響力を行使することを選択しなかった、という事実一つをもって、それがまったく存在すらしていないかのように振舞うことが求められ、強いられ、評価される環境に、人はまだ適応していないし、適応できなかった人の個体たちは無尽蔵に流し込まれる未決事項と既決かつ無視せねばならぬ事項の海に溺れ、悩み、苦しみ、歪みつつあるのではないだろうか。

この議論は、90 (35300)によって ログインユーザだけとして作成されたが、今となっては 新たにコメントを付けることはできません。
  • 表に書こうと思いましたが、
    言ってることは違うかもだが、向いてるベクトルは同じような気がするので、
    人の日記にぶら下げとく。

    表の書き込み群は「ネット」という言葉を外したほうが、もう少しシンプルな思考になるかと思ったり。
    被告の言動はリアルの世界ではコミュニケーションが成り立つどころか、
    無視されますし、下手すりゃ警察に通報されます。
    ネットは罵詈雑言も挨拶の一つとして成り立つ側面もありますので、
    本来成立しちゃいけないコミュニケーションが成立しちゃう訳です。
    ただし、本当にコミュが成立しているというよりは、もう壮大な壁打ちリレーなわけです。
    相手の有無にかかわらず、自分が呪詛を吐き続け、跳ね返ってきた呪詛で絶えず自ら傷つく。
    まあ、その結果普通は呪詛を吐くのをやめるか、吊って自死するかすりゃいいんですが、
    すくなからず、近所で包丁振り回すか、本件や京アニの放火のように、
    やたらアクティブに遠征して怒りを昇華するわけですな。

    その怒りも、世の中が悪い、というよりは自らが招いたものな訳です。
    スタート地点は「他」でも、そこまで育てたのは自分自身なのですよ。

    こういった怒りのコントロールに失敗し、自我を奪われ暴走するのは
    古今東西ごくありふれた風景だと思うのですけどね。
    もちろん、私自身だって例外じゃない。

    まあ、SNSだと「いいね」という味方も作りやすいけど、
    それと同数だけ敵も作りやすい、ということは
    覚えておいた方がよいと思うんだけどねえ。
    しかも、それはあなたが攻撃されているのではなく、
    あなたの攻撃に対して、お返事をしただけのこと。

    現代社会はアンガーマネジメントが必須なのだろうなあと思ったり。
    • 跳ね返ってきた呪詛で絶えず自ら傷つく壮大な壁打ちリレー、簡素で分かりやすい表現でした。お手合わせありがとうございます(?)
      時代を問わずありふれた現象だとするならば、人類文明は本来ならば自死に陥るはずの人すら人的資源として利用する段階に入ったということなのでしょうか。この事件の再発を構造的に防ぐって、そういうことですよね……

      親コメント
  • by kmc55 (39216) on 2019年11月22日 0時18分 (#3720266) 日記

    特に

    > この絶え間ない判断の連鎖は無責任な共感を否定し、あらゆる所作に一貫性と整然たる説明を常に付すことを強いている

    この部分、自分はとても共感できました。
    そして「共感」こそが、難しさの根底にあるように思う。

    SNSでは、共感により「ああ、この人は自分に近い考え方の人だ」と思ってしまい、その後、決定的に異なる意見を見た時に「あの人は変わってしまった」みたいに、感じてしまうようなことが、F2Fコミュニケーションよりも多い印象がある。

    テキストだけの、断片的な表現、かつ限定的な双方向性により起きているのかもしれない。
    F2Fでは、実は、もっと多くの情報を得ているのだろうと思う。(自明かもしれないけど)

    あとは、普通に生きていただけでは関わり合うことがなかったであろう人と、簡単に関われるようになったSNSというのは、最初からそういうものなんだよな、と思う。
    断片的な情報をやり取りする中で、それに何かを感じられたら、それはそれでプラス。

    一方で、SNSを基本的には仲間内のコミュニケーションの代替と考えている人もいる。
    使い方次第、心構え次第。

    --
    別の観点。

    個人的には「怒り」は、美化されすぎている気がする。

    以下は若造の勘違いかもしれませんが、私見では、
    「何かを変えるために「革命」的なアクションで成功してきた世代」
    は、怒りやすいし、怒ることは「必要で、正しく」、怒るべきだ、と考えているように思う。
    その世代が悪いわけではなく、もちろんどの世代にもいるのだが、特に、多いように感じる。これは実生活においても。

    確かに、怒りが何かを変えてきたケースは多いのかもしれない。
    その成功体験が彼らを今も怒らせ続けているのかもしれない。

    でも、怒りとSNSは相性が悪いと思っています。
    理由をきれいに説明できないけど、確信を持って思っている。

    (長文失礼

typodupeerror

一つのことを行い、またそれをうまくやるプログラムを書け -- Malcolm Douglas McIlroy

読み込み中...