ADの日記: 仮想論客
私の経験則によれば、議論において論者は「仮想論客」を用意してしまうらしい。
「仮想論客」とは、自論と対立する論者を想定し、どういった発言をするか、どういったミスをするか、どういった欠点があるかを、論争が行われる以前に自分でシミュレートする仮想議論の対立論者のことである。
私はこの「仮想論客」の根底にあるであろう思想そのものが気に食わない。勝手な推測だが、仮想論客を用意するということは、少なからず「相手をねじ伏せてやろう。」という気持ちがあると思う。それは議論を「やり込め合い」、ひいては「くだらない喧嘩」にしてしまうことから、私はそれを快く思えない。
議論で勝つのは人ではない。議論で勝つのは論である。議論で勝つべきは上辺の事実ではない。議論で勝つべきは真実である。
少し冷静に考えれば、議論は勝ち負けではなく、ある答えを模索する一つの方法であると考えられる。しかし、その議論において勝ち負けに捕らわれている論者が多い。
なぜ「勝ち負け」で議論しようとするのを嫌うかといえば、それが真実の探求を阻害するからだ。
「勝ち負け」にこだわる論者は、自尊心や功名心から自分が誤った内容を述べたこと認めることができない。だから、勝つためには道理もへったくれもない。結果として、「勝ち負け」にこだわるあまり本旨である議題、或いは真実から遠ざかってしまう。
「仮想論客」は仮想議論を行う論者のイメージで作られる。ようは端から敵として考えられる。意図的でなくとも悪いイメージばかりを詰め込まれ、散々蔑すむように想像してしまう。その結果、実際の議論の場で出てくるのは、斜めに構えて人を小ばかにするような下らない意見である。
これは全く根拠のない話ではない。実際、過去の私がそうだった。だが、私は勝つことは議論の本懐にあらずと思う。そして今の私が議論の度に自問自答するのは以下の事柄である。
- なぜ議論に参加するのか。
- 議論に何を望むのか。
- 自論を肯定するために、他人を貶める必要はあるのか。
- 反論するのは「人」に対してか、「意見」に対してか。
「勝ちたい」と思うことは、きっと本能だろう。負けてしまえば死んでしまう。負けてしまえば種が途絶える。生物にとって負けること、劣っていることはただそれだけで恐怖の対象である。個体差はあれど、それは本能として人間も持っていることだろう。故に劣等感なりコンプレックスなりを感じる。
もしも「勝ちたい」と思うならば、議論はしないことだ。議論で勝つのは人ではない。議論で勝つのは理論である。
例え無理矢理に異論を退け議論に勝った(と思っても)としても、それが本当の勝利でないということは、無理矢理異論を退けた本人が一番良くわかるものである。そして劣等感やらコンプレックスやらは蓄積していく。やられる側もやる側も非常に気持ちがわるい。
議論には「人の勝ちも負け」も「仮想論客」もいらない。ただそこに必要なのは真実を求める真摯な探究心である。
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