ADの日記: コンピュータ批判と怠慢。
コンピュータは便利な道具である。
生み出されてから約半世紀経つ今日においても、未だ計り知れない可能性を秘めている。
コンピュータは文字を記述・記憶・表示できる。恐ろしく膨大な演算を凄い速度でこなしてしまう。画像も音声も表も扱えてしまう。地球の裏側からだって情報をやり取りできる。こういったコンピュータの機能だけを着目していると一見、コンピュータは万能なようにも思える。しかし、コンピュータを利用して優れたものを作り出してきたのは、ほんの少量の天才と勤勉な利用者たちだ。決してコンピュータが何かを生み出したのではない。人間がコンピュータを使って生み出しているのである。
日本においてもコンピュータは一般家庭にまで普及し、「コンピュータは人間にやさしくあるべき」とか「難しすぎる」などといった批判がチラホラ聞こえてくるようになって久しい。しかし、私はそういった批判の中の殆どは下らない文句だとしか思えない。なぜなら、批判はするが努力はしない人間がそれを口にしているからである。
私は「プログラムは利用者に優しく設計されるべきである。」ということを認める。しかし、それと同時に「コンピュータの利用者はコンピュータを学ぶべきである。」と考える。
道具を便利に使いたいのであれば道具を知るべきである。より上手に使いこなしたいのならば慣れるべきである。道具としてのコンピュータは、道具としての電卓や文房具となんら変わりはない。知ることと慣れることは必要である。それが現実である。
コンピュータは万能ではなく、恐ろしく複雑で、それゆえ強力な力を持っていて、それを扱うにも相応の知識と経験が必要である。プログラムやコンピュータが人間に歩み寄る努力は絶たれることなく続けられるべきである。しかし、人間が目的を果たすために道具を扱う努力もまた絶やすことなく続けられるべきではあるまいか。
事実、コンピュータは人間のアクションなくしては何のリアクションも返さない。コンピュータが人間の望むリアクションを完全自動的に出すことなどありえない。コンピュータで自分の望む結果が欲しければ、それを実現するためのデータなり手段なりを用いなければならない。つまり、人間がコンピュータに的確な指示や入力ができない限り、コンピュータは人間が望む処理を行えない。
理想的なコンピュータは意識しなくても人間が望む処理を返すコンピュータらしい。寝言は寝てから言え。
過去の技術革命がそうだったように作業自体の自動化は行われていても、意識しなければならないこと、常に意識されていることというものは存在する。自動化された機械を用いるためには適切な前処理や施工や制御をしなければならない。如何なる作業の自動化のためにも、「自動化のための意識的な活動」が必要不可欠である。
理想は理想でしかない。理想は目指すべきものだが、理想に甘えるべきではない。コンピュータが人間に歩み寄らねばならないのと同様に、人間がコンピュータを上手に使うためには人間もコンピュータに歩み寄らねばならない。理想主義者の方々にはまことに残念だがそれが現実である。しかし、多くの人間は理想に甘えてコンピュータやプログラムを批判している。それを改善しようとか、うまく使いこなそうとか考える人間は数少ない。それでよいのか?
コンピュータで自分が望むことを思うようにできなくて、「コンピュータやプログラムが悪い」という意見を述べる人がいる。それらのすべてを否定するわけではないが、コンピュータやプログラムを批判する人は、コンピュータを扱うために勤勉であったのだろうか。自分の怠惰を棚に上げて自分以外の責任にしているのではなかろうか。
どんなに時代が流れようとも、人間が努力することは変わらない。変わってはならない。時代によって変わるのは、努力の具体的な方法や方向性である。怠惰な人間にはどの時代においても相応な評価しかない。
私が本当に言いたいことは「コンピュータのせいにして努力することを怠るな。」ということである。
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